越後の「関ヶ原」の舞台

下倉山城

したくらやまじょう Shitakurayama-Jo

別名:下倉城

新潟県北魚沼郡堀之内町下倉

城の種別

中世山城

築城時期

不明

築城者

不明(福王寺氏?)

主要城主

福王寺氏、佐藤氏、小倉氏

遺構

曲輪、堀切、土塁、井戸跡、池跡 他

関越道のトンネルが貫く下倉山城<<2001年09月23日>>

歴史 

築城時期・築城者等は不明。

越後守護代・長尾為景は守護・上杉定実を傀儡化したが、天文二(1533)年、反抗する上杉一族の上条定憲が上条城に立て籠もり、上杉氏の旧臣を結集して春日山城下の居多神社を焼き討ちするなど、為景と戦った(天文上条の乱)。この乱では下倉山城主の福王寺孝重は長尾為景方に味方し籠城、上条定憲方であった坂戸城主の長尾房長(上田長尾氏)の猛攻を受けた。福王寺孝重は渇水期に破間川・魚野川を渡河し上田領に放火するなどの攪乱戦で上田勢を牽制した。

天正六(1578)年に勃発した「御館の乱」では、下倉山城の佐藤平左衛門・多功豊後は景勝方につき、栃尾城の本庄秀綱、桂ヶ瀬城の金子大学助ら三郎景虎派に攻められたが撃退している。
慶長三(1598)年、上杉景勝が会津若松城に移封されると、春日山城へは堀秀治が入った。下倉山城には家臣の小倉主膳政煕が入り八千石を領した。しかし、上杉氏の移封に際して年貢の取り分を廻って上杉氏と堀氏は険悪となった。

慶長五(1600)年に徳川家康が会津討伐のため下野小山城跡付近まで進軍した際、堀秀治は家康の東軍に属したが、上杉氏は旧加地城主の加地景綱、旧竹俣城主の竹俣壱岐守ら越後の旧臣・遺民とひそかに通じ一揆を煽動、八月一日、一揆軍七千が下倉山城を包囲した。小倉政熙は主従60騎あまりで討って出て、討ち死にし、下倉山城は一揆軍の手に陥ちた。しかし翌日には坂戸城主・堀直竒により奪還されている。結局一揆軍は蔵王堂城の堀親良や三条城の堀直次に鎮圧され、下倉山城は廃城となった。

「越後の関ヶ原」ともいうべき戦いの場となったのがこの下倉山城。慶長三年に上杉景勝は会津へ移封となり、家臣団も多くはこれにつき従いますが、このときに景勝に随行せず、帰農した土豪たちもたくさん存在しました。これらの帰農した家臣たちは景勝や直江兼続らと音信を絶やさず、関ヶ原前夜の不穏な情勢の中、旧領でありかつ会津からみて隣国である越後の情報を入手していました。景勝および兼続には、一朝ことが起きたときには旧領である越後をかすめ取ってしまおう、との意図もありました。旧領の越後には堀秀治が入封していましたが、兼続の入れ知恵で景勝は移封前に越後から年貢半年分を余分に先取りし、それに対して堀秀治はクレームを申し入れます。が、切れ者の兼続の前には歯が立ちません。そんなわけで上杉氏と堀氏は常に反目しあっていました。そして例の「直江状」をはじめとした景勝&兼続の挑発行為に名を借りた家康の「会津討ち入り」となります。結局、下野小山での評定により家康たち東軍勢は石田三成の挙兵に相対するべく兵を西に返すのですが、この機を捕らえて景勝&兼続は越後および庄内に侵攻、堀氏および最上氏と争います。一般的には出羽長谷堂城の激戦が有名ですが、この越後では下倉山城を廻って上杉に煽動された旧臣たちを中心とした一揆と、坂戸城にいた堀直竒の間で激戦が繰り広げられました。関ヶ原の「隠れた一幕」です。

この下倉山城は、城を関越自動車道が貫通しており、その関越道から「下倉山城跡」の看板がデカデカと見えます。関越道沿いの魚野川の隘路がパッと開ける盆地、支流が合流する地点に城はあります。車で走っていて、「いかにも城のありそうな場所だなあ」と思っていたら、前述の看板が目に飛び込んできました。この立地条件によって、魚野川流域の交通を監視し、坂戸城と関越国境である三国峠方面の警備を一段と高めています。

この関越道によって、山麓の遺構は若干破壊されましたが、山上の主要部はほぼ旧状を留めているはずです。んがしかし、デカデカと「県指定史跡」と謳っている割には登城路、遺構とも全く整備されておらず、ほとんど確認不能なほど深い藪に埋もれきっています。途中まではコンクリの階段があるものの、そこから先は藪だらけ、クモの巣だらけの急坂をよじ登らなくてはならず、その道もとても道とは呼べないようなシロモノ。もちろん解説板も案内表示もなく、現在位置を確認するのも困難なほど。これじゃ「県指定史跡」の名が泣きます。史跡指定には「しかるべき見学路の設置」「案内・解説の適切な配置」が条件だったはず。史跡指定を受けた自治体はきちんと義務を果たしてもらわなくては困ります。結局主郭と思われる手前までやっとたどり着いたと思ったら、城兵ならぬスズメバチの旋回飛行という、あまり有難くないお出迎えを受けて撤退しました。そんなわけで体長10cmにもなろうかというジョロウグモとスズメバチの旋回飛行を見に行ったようなものでした。

山麓の国道17号沿いに建つ石碑。簡単な解説も刻まれています。 なにやら足を踏み込むのもためらわれるような藪。しかしこの先にコンクリの歩道が見えているから入らねばなるまい。ここが大手虎口だったところ。

これが関越道からも見えるデカイ看板。しかし、こんなもの建てるよりも、見学路の整備とかの方が先だと思うぞ。 草むらの中に突然現れる井戸。はっきり残っているのはいいんだけど、藪の中だし危ないのなんのって。。。

最も眺望のいい南端の曲輪が物見や三郭に相当する場所だったらしい。ここには草に埋もれた土塁が見られます。 魚野川と破間川の合流点を眺める。魚野川沿いの隘路が合流点で開ける、絶好の築城ポイントですね。

藪ばかりの城にしては不思議なほどはっきりと残る主郭下の池の跡。水はありませんでしたがジメジメした湿地になっていました。 この山林が主郭。入ろうとした瞬間、スズメバチの威嚇を受け敢え無く撤退。
夏に行ったのが悪かったとはいえ、これじゃあ見学になりませんね。しかし、この付近のジョロウグモのでかさといったら、他じゃちょっと見られませんよ。「新種じゃないの、これ?」などと思いつつ、ポールでクモの巣を払いのける自分でありました。

 

交通アクセス

関越自動車道「小出」ICまたは「堀之内」車5分。

JR上越線・只見線「小出」駅徒歩10分。

周辺地情報

坂戸城が見所多い。魚野川流域には大小さまざまな坂戸城の支城群があります。

関連サイト

 

 

参考文献

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)、「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

 

 

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