「越後の関ヶ原」ともいうべき戦いの場となったのがこの下倉山城。慶長三年に上杉景勝は会津へ移封となり、家臣団も多くはこれにつき従いますが、このときに景勝に随行せず、帰農した土豪たちもたくさん存在しました。これらの帰農した家臣たちは景勝や直江兼続らと音信を絶やさず、関ヶ原前夜の不穏な情勢の中、旧領でありかつ会津からみて隣国である越後の情報を入手していました。景勝および兼続には、一朝ことが起きたときには旧領である越後をかすめ取ってしまおう、との意図もありました。旧領の越後には堀秀治が入封していましたが、兼続の入れ知恵で景勝は移封前に越後から年貢半年分を余分に先取りし、それに対して堀秀治はクレームを申し入れます。が、切れ者の兼続の前には歯が立ちません。そんなわけで上杉氏と堀氏は常に反目しあっていました。そして例の「直江状」をはじめとした景勝&兼続の挑発行為に名を借りた家康の「会津討ち入り」となります。結局、下野小山での評定により家康たち東軍勢は石田三成の挙兵に相対するべく兵を西に返すのですが、この機を捕らえて景勝&兼続は越後および庄内に侵攻、堀氏および最上氏と争います。一般的には出羽長谷堂城の激戦が有名ですが、この越後では下倉山城を廻って上杉に煽動された旧臣たちを中心とした一揆と、坂戸城にいた堀直竒の間で激戦が繰り広げられました。関ヶ原の「隠れた一幕」です。
この下倉山城は、城を関越自動車道が貫通しており、その関越道から「下倉山城跡」の看板がデカデカと見えます。関越道沿いの魚野川の隘路がパッと開ける盆地、支流が合流する地点に城はあります。車で走っていて、「いかにも城のありそうな場所だなあ」と思っていたら、前述の看板が目に飛び込んできました。この立地条件によって、魚野川流域の交通を監視し、坂戸城と関越国境である三国峠方面の警備を一段と高めています。
この関越道によって、山麓の遺構は若干破壊されましたが、山上の主要部はほぼ旧状を留めているはずです。んがしかし、デカデカと「県指定史跡」と謳っている割には登城路、遺構とも全く整備されておらず、ほとんど確認不能なほど深い藪に埋もれきっています。途中まではコンクリの階段があるものの、そこから先は藪だらけ、クモの巣だらけの急坂をよじ登らなくてはならず、その道もとても道とは呼べないようなシロモノ。もちろん解説板も案内表示もなく、現在位置を確認するのも困難なほど。これじゃ「県指定史跡」の名が泣きます。史跡指定には「しかるべき見学路の設置」「案内・解説の適切な配置」が条件だったはず。史跡指定を受けた自治体はきちんと義務を果たしてもらわなくては困ります。結局主郭と思われる手前までやっとたどり着いたと思ったら、城兵ならぬスズメバチの旋回飛行という、あまり有難くないお出迎えを受けて撤退しました。そんなわけで体長10cmにもなろうかというジョロウグモとスズメバチの旋回飛行を見に行ったようなものでした。