懲りない男、北条高広の居城

北条城

きたじょうじょう Kitajou-Jo

別名:

新潟県柏崎市北条

城の種別

中世山城

築城時期

不明

築城者

毛利時元

主要城主

越後毛利(北条)氏

遺構

曲輪、堀切、空堀、土塁、移築現存門

本丸跡<<2001年8月17日>>

歴史

大江広元の末裔で、越後毛利氏(安芸毛利氏とは遠縁)の北条氏の代々の居城。
謙信の時代は北条丹後守高広の居城。

天文二十三(1554)年十二月、北条高広は武田信玄の調略に応じて上杉謙信に背き挙兵したが、謙信の軍に城を包囲され、翌弘治元(1555)年三月、降伏した。高広は許され、奉行職をつとめた。

永禄六年(1563)の謙信の関東出陣の際は、上州厩橋城の城代を命ぜられたが、永禄十(1567)年に北条氏康に内応した。越相和睦ののち、高広は謙信のもとに再度帰参している。

天正六(1578)年、謙信の死後勃発した御館の乱では、高広の息子・景広は上杉三郎景虎方についたが、上杉景勝方の勢力に攻められ天正九(1581)年に落城した。

マイナーな城ですが、北条高広に興味のあまり、つい行っちゃいました。

この北条高広という男、なかなかの小悪党ぶりで興味あります。この高広、武田に唆されて叛旗を翻して謙信に攻め寄せられ、慌てて降伏したかと思えば、厩橋城を預かっているときも小田原北条氏に内通したり、織田氏方の滝川一益にあっさり降伏したり、なかなかの曲者です。その子景広は御館の乱で三郎景虎方に味方し、景勝方の直江兼続に謀殺されました。

北条は柏崎の山間地帯で、現在でも中世の面影を残す街です。北条駅からは、「北条いにしえロード」の名で、散策路の案内があり、城址自体もそれほど峻険ではないため見学しやすい場所になっています。城下の墓地には、初代北条氏・毛利景元の墓所(伝)が」あります。

見学当日は、青空が見えていたかと思うと大粒の雨が降り出す不安定な天候で、落雷の恐れもあり、麓の移築現存門だけ見て帰ろうと思ったのですが、雨が小降りになってきたので、「エイヤー」で思い切って山に足を踏み込みました。遺構は、大して期待していなかった割には、そこそこ見どころも多く、天気がよければもっとゆっくり見たいところではありました。途中、道端で出会ったおじいさんに聞いたところ、家臣の山村氏の墓所や、歩きやすい見学路、居館跡の場所など、様々なことを教えてもらいました。感謝。ただおじいさん、話が長くて、折角小降りだった雨が本丸についた頃には土砂降りになってしまい、ちょっと困ってしまいました。。。。

北条城址全景。さほど急峻でない峰の上に築かれています。 専称寺に残る現存大手門。

普廣寺に残る現存搦手門。 搦手外郭線の土塁。外郭線上には多くの寺社があり、複雑な曲輪取りになっています。戦時には寺社はそのまま砦になったのでしょう。

北条氏の重臣・村山氏の慰霊碑。この付近の墓地も非常に複雑な小曲輪の跡。 意外に広い本丸曲輪。
本丸と二ノ丸を隔てる大堀切。本丸北側には大きな竪堀もあるらしいのですが藪で確認できず。 二ノ丸虎口付近の堀。
同じく二ノ丸虎口付近に明瞭に残る土塁。尾根上に土塁があるのは珍しいと思うのですが、山城とはいっても地形がなだらかなので、堀切だけでなく土塁で補っているのでしょう。 馬つなぎ場と呼ばれる付近。この付近にも空堀があります。
「木落とし場」。何の説明もないんでよくわかりませんが、馬つなぎへの緩斜面を防御するために丸太でも落としたのでしょうか? 「連珠塞跡」。これも何の説明もないのですが、恐らく畝状阻塞のことでしょう。藪と雨で確認できず。
伝・毛利時元墓所。越後毛利氏の初代です。 城主居館跡の諏訪神社。周囲に低い土居があります。
登城橋。城主が要害へ向かう登城路でした。 登城橋からみた霊峰米山。残念ながら雲に隠れてしまっています。

 

交通アクセス

北陸自動車道「柏崎」IC車15分。

JR信越本線「北条」駅徒歩10分。  

周辺地情報

遺構の程度は分かりませんが、同じ越後毛利氏系の安田城など。

関連サイト

 

 
参考文献 「図説中世の越後」(大家健/野島出版)、「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)、「疾風 上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)、現地解説板
参考サイト  

 

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