家康六男・忠輝、無念の改易

高田城

たかだじょう Takada-Jo

別名:鮫ヶ城、関城、螺城、高陽城

新潟県上越市高田

(上越市立高田公園)

城の種別

近世平城

築城時期

慶長十九(1614)年

築城者

松平忠輝

主要城主

松平氏、酒井氏、越前松平氏、榊原氏ほか

遺構

曲輪、土塁、水堀、復興御三階櫓

復興御三階櫓と水堀<<2001年04月30日>>

歴史

慶長十九(1614)年、徳川家康の六男・松平忠輝が福島城を廃して築城。当時剣呑化していた大坂の情勢を睨んでの天下普請で、築城に当たっては伊達政宗(忠輝舅)を奉行に、加賀前田氏や奥羽・甲信越の諸大名十三藩が動員された。

忠輝は素行が粗暴で家康に疎まれ、大坂夏ノ陣での遅参と将軍直臣の殺害を理由に元和元(1615)年に改易となり、武蔵深谷城に蟄居(のち高野山に配流)となった。

忠輝の後は徳川譜代が頻繁に城主交代を繰り返し、榊原氏六代のときに廃藩置県を迎えた。明治四十一年には陸軍第13師団の基地となり城地が改変された。

忠輝、無念の改易の地であります。この家康六男の「鬼っ子」は、気性が荒く素行が乱暴で、家臣が幕府に主君の乱行を直訴する、という事件も起こしています(このときは忠輝勝訴)。しかし、忠輝改易当時、存命の兄弟すべてが「徳川」姓を名乗っていたのに対し、松平姓を名乗らされ、幕府が実は最も警戒する伊達政宗の娘婿として常に「損な」位置にいたことは十分情状酌量の余地あり、と思います。また、徳川の血には一種の凶暴性があり、忠輝のみならず後に乱行を重ねて「越前騒動」を巻き起こした松平忠直(ちなみに高田城四代城主・光長は忠直の嫡子)、信長の命で切腹せざるを得なかった家康嫡男の信康、三代将軍家光の弟・忠長など(家光や綱吉にも精神異常の兆候)、少なからぬ数の近親者がその精神的欠陥によって身を滅ぼしています。いわば貴種・徳川の「裏面史」でもあるわけですが、忠輝もそういった一人だったのかもしれません。

城は水堀が美しい公園になっていて、御三階櫓が復原されています。この櫓は当時の絵図などを参考に、かなり本格的に時代考証を行った上で建てられたとのことですが、派手さはありませんが桃山期の雰囲気を残す、なかなか気品のある美しい櫓だと思いました。築城を急いだためか、石垣が使われておらず、土塁と水堀のみの城ですが、新緑のなかに映える緑色の土塁と水堀のコントラストも美しかったです。派手な遺構はありませんが、この土塁と堀、そして復興御三階櫓の美しさを味わう、「癒やし系」のお城です。

 

 

交通アクセス

JR高田駅徒歩20分

周辺地情報

とにかく春日山城は必須。物好きは人はなんにもない福島城御館なども。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本の城 ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)、「春日山城とその支城群」(大塚直吉遺作集出版委員会)、現地解説板
参考サイト  

 

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