蒲原平野の西に屹立する霊峰・弥彦山。西方浄土への入り口として信仰を集めたこの山の南側に、若き日の上杉謙信、いやここでは長尾景虎と呼んだ方がいいでしょう、その景虎が武名を轟かせた山城があります。
黒滝城主の黒田氏の出自は明らかではありません。もともと越前朝倉家を浪人して越後に流れてきた胎田(昭田)常陸介なる者の子で、為景に寵愛された後に黒田長門守の名跡を嗣いだ云々、といいますが、実態は弥彦周辺の権益を持つ在地土豪とみていいでしょう。若き景虎が春日山城で越後守護代を嗣いだ兄・晴景を補佐して栃尾城を守っていた頃、黒田秀忠は守護代長尾家に対して謀反を起こします。一説には景虎の兄にあたる景康なる人物が殺害されたといい、そして景虎は床下に隠れて難を逃れた云々。この話の信憑性はともかく、謀反を起こした秀忠に対し、なにも出来ずにオロオロするばかりの兄・晴景に代わって、景虎が討伐の兵を起こします。この頃までに景虎の名は栃尾城での戦いなどで広く越後に知れ渡っていました。そして秀忠は景虎に対して、他国へ出国することを条件に助命を嘆願し、景虎も武士の情け、これを赦しました。しかし秀忠は他国へ出奔するどころかふたたびこの黒滝城で挙兵、怒りに燃える若武者・景虎は黒滝城に攻め寄せ、瞬く間に黒田一族もろとも葬り去ってしまいます。この戦いでいよいよ国人領主たちの信望を集めた景虎は、晴景に代わる国主として担ぎ上げられ、やがて晴景とも対立、守護・上杉定実の仲裁で晴景の養子として守護代長尾家を嗣ぐことで、いよいよ「越後の虎・上杉謙信」の時代が幕を開けるのです。そういうわけでこの黒滝城は、若き日の景虎の勇名を轟かせるための、格好の演出の場となってしまったわけです。
黒滝城は麓集落の背後、やや奥まった場所に屹立する山城で、たかだか二百メートル強の山とは思えぬほど険しい山容を誇っています。山頂付近からは蒲原平野や弥彦山麓だけでなく、日本海と佐渡島までが見渡せ、かなりの戦略的要地であることが分かります。周囲は急斜面が続く防御には適した地形ですが、遺構面では腰曲輪・帯曲輪を隙間無く並べ、堀切、竪堀や土塁などはあまり用いない、どちらかというと前時代的な、古くさい山城という印象です。主郭はとても狭く、おそらく物見・烽火台としての役割しか果たせないでしょう。その東側に一段下がった二郭にあたる「桜広場」が実質的な中枢かと思います。三郭にあたる曲輪には大きな「桜井戸」があり、また南側の尾根の下にも「鷲沢の井戸」があります。基本的に湧水には事欠かないお城であったようで、その他にもあちこちから水が湧いていました。お城の東側の斜面は日本海の西風の影響も受けないため、豊富な水にも支えられて長期の籠城にも耐えうるお城だったのではないかと思います。
現在は「黒滝城址森林公園」となっており、林道が山の上まで通じているため、楽に訪問することができます。あくまで森林公園であって城址公園ではないのですが、その分、余分な手が加えられておらず、当時の山城の姿をきちんと残しているのが嬉しいところです。なお北側の尾根にあるという剣ヶ峰の出城(砦)は結構期待できそうな感じでしたが、夏の藪のすさまじさについ躊躇してパスしてしまいました。