若き虎の武名轟く

黒滝城

くろたきじょう Kurotaki-Jo

別名:黒滝要害

新潟県西蒲原郡弥彦村麓一区

 

城の種別 山城

築城時期

不明

築城者

不明(小国氏?)

主要城主

小国氏、大須賀氏、黒田氏、山岸氏

遺構

曲輪、堀切、土塁、井戸

黒滝城遠景<<2003年08月16日>>

歴史

築城時期は不明。鎌倉時代の後期には小国氏一族が在城した。永正六(1509)年には大須賀志摩守、その後黒田和泉守秀忠が城主となった。永正七(1510)年六月六日付けの関東管領上杉顕定の長尾景長宛の書状に「黒滝要害」として現れる。永正四(1507)年、守護代の長尾為景が守護・上杉房能に叛乱し攻め殺すと、将軍・足利義稙は関東管領・上杉顕定に為景討伐を命じた。上杉顕定は養子、憲房とともに永正六(1509)年越後に出陣、黒滝城も攻め落とし、八条修理亮と桃井一族に守らせたが、為景の反撃により奪回され、永正七(1510)年六月二十日、顕定は関東に敗走中に長森原で自刃した(長森原合戦)。

天文十四(1545)年、黒滝城主・黒田秀忠は春日山城で守護代・長尾晴景に謀叛を起こし、晴景は当時栃尾城に配されていた弟の景虎(のちの上杉謙信)を春日山城に呼び戻した。黒田秀忠は他国への出奔を条件に助命を願い出て赦されたが、翌天文十五(1546)年に再び黒滝城で挙兵したため、景虎はこれを討伐し、黒田一族は悉く自刃して滅んだ。

黒田氏の後は一時、竹俣氏が在番し、のちに山岸出雲守光祐が黒滝城主に任じられ、以後山岸宮内少輔秀能、山岸中務少輔らが城主を歴任した。山岸氏は天正六(1578)年に勃発した御館の乱においては上杉景勝に味方したが、天正七(1579)年十月二十八日、上杉景虎自刃後も抵抗を続けていた三条城主・神余親綱により攻撃されている。

この乱の後、論功行賞を不満として新発田重家が挙兵(新発田重家の乱)したが、山岸氏は景勝に味方し、天正十(1582)年七月二十七日、山岸光祐は新潟津方面の動静を書状で報じている。景勝の援軍として黒滝城に入った村山慶綱は本能寺の変後の信州海津城の占領も担当した。
慶長三(1598)年の上杉景勝の会津移封により山岸氏一族もこれに従い、黒滝城は廃城となった。

蒲原平野の西に屹立する霊峰・弥彦山。西方浄土への入り口として信仰を集めたこの山の南側に、若き日の上杉謙信、いやここでは長尾景虎と呼んだ方がいいでしょう、その景虎が武名を轟かせた山城があります。

黒滝城主の黒田氏の出自は明らかではありません。もともと越前朝倉家を浪人して越後に流れてきた胎田(昭田)常陸介なる者の子で、為景に寵愛された後に黒田長門守の名跡を嗣いだ云々、といいますが、実態は弥彦周辺の権益を持つ在地土豪とみていいでしょう。若き景虎が春日山城で越後守護代を嗣いだ兄・晴景を補佐して栃尾城を守っていた頃、黒田秀忠は守護代長尾家に対して謀反を起こします。一説には景虎の兄にあたる景康なる人物が殺害されたといい、そして景虎は床下に隠れて難を逃れた云々。この話の信憑性はともかく、謀反を起こした秀忠に対し、なにも出来ずにオロオロするばかりの兄・晴景に代わって、景虎が討伐の兵を起こします。この頃までに景虎の名は栃尾城での戦いなどで広く越後に知れ渡っていました。そして秀忠は景虎に対して、他国へ出国することを条件に助命を嘆願し、景虎も武士の情け、これを赦しました。しかし秀忠は他国へ出奔するどころかふたたびこの黒滝城で挙兵、怒りに燃える若武者・景虎は黒滝城に攻め寄せ、瞬く間に黒田一族もろとも葬り去ってしまいます。この戦いでいよいよ国人領主たちの信望を集めた景虎は、晴景に代わる国主として担ぎ上げられ、やがて晴景とも対立、守護・上杉定実の仲裁で晴景の養子として守護代長尾家を嗣ぐことで、いよいよ「越後の虎・上杉謙信」の時代が幕を開けるのです。そういうわけでこの黒滝城は、若き日の景虎の勇名を轟かせるための、格好の演出の場となってしまったわけです。

黒滝城は麓集落の背後、やや奥まった場所に屹立する山城で、たかだか二百メートル強の山とは思えぬほど険しい山容を誇っています。山頂付近からは蒲原平野や弥彦山麓だけでなく、日本海と佐渡島までが見渡せ、かなりの戦略的要地であることが分かります。周囲は急斜面が続く防御には適した地形ですが、遺構面では腰曲輪・帯曲輪を隙間無く並べ、堀切、竪堀や土塁などはあまり用いない、どちらかというと前時代的な、古くさい山城という印象です。主郭はとても狭く、おそらく物見・烽火台としての役割しか果たせないでしょう。その東側に一段下がった二郭にあたる「桜広場」が実質的な中枢かと思います。三郭にあたる曲輪には大きな「桜井戸」があり、また南側の尾根の下にも「鷲沢の井戸」があります。基本的に湧水には事欠かないお城であったようで、その他にもあちこちから水が湧いていました。お城の東側の斜面は日本海の西風の影響も受けないため、豊富な水にも支えられて長期の籠城にも耐えうるお城だったのではないかと思います。

現在は「黒滝城址森林公園」となっており、林道が山の上まで通じているため、楽に訪問することができます。あくまで森林公園であって城址公園ではないのですが、その分、余分な手が加えられておらず、当時の山城の姿をきちんと残しているのが嬉しいところです。なお北側の尾根にあるという剣ヶ峰の出城(砦)は結構期待できそうな感じでしたが、夏の藪のすさまじさについ躊躇してパスしてしまいました。

「麓」集落の奥に聳える標高246mの峻険な山が黒滝城。写真の道路を真っ直ぐ登っていくと、主郭近くまで車で登ることもできます。

峠で車を停めて歩き始めるとすぐ、尾根を断ち切る堀切が見えてきました。

主郭まで東方向に伸びる痩せ尾根。当然厳重に堀切られていて然るべき場所ですが、意外なほどあっさり通過できるのが不思議です。 なんだか分からないと思いますが一応堀切です。とはいっても一跨ぎで超えられる小ささ。埋まっているにしても小さすぎ。
さすがに主郭直前の堀切は大きい。主郭側は10mを超える比高差があります。ここが防御遺構としては一番の見所かな。 主郭の土塁上に建つ小さな祠と標高二四六米を表す標柱。城址の詳細な解説板は峠の車道沿いにあります。

「天神郭」の名が付く主郭は30m×12mの狭い曲輪。西の尾根続きを断つための大堀切と土塁(祠と標柱がある)があります。

主郭附近から西側方向には、日本海と、彼方に青く横たわる佐渡島の山並みが見えています。

主郭の北側にある「桜広場」はまとまった広さを持つ曲輪で、二郭に相当しますが、実質的には居住区としての役割を持っていたでしょう。

桜広場の一段下の曲輪、実質三郭相当の腰曲輪には、桜井戸と呼ばれる大井戸があります。この他にも井戸や湧水点が多く、水には困らないお城だったようです。

北東に突出した尾根の先端に当たる大蓮寺郭。その名の由来は不明ですが、蒲原平野方面への見晴らしは最高です。

大蓮寺郭から見る蒲原平野。仔細に見ればかつての信濃川旧河道や湿地帯の様子まで想像できます。海と平野、両方に睨みを利かせる絶好の立地ですね。

ちょっとわかりにくい写真で恐縮ですが、このお城の防備の主体となる腰曲輪群を見上げたところ。いちいち数え切れないほどの腰曲輪があります。全体に縄張りや施工そのものは前時代的なお城ではあります。 ところどころに沢が流れ、天然の竪堀を形成するとともに、水の手もいたるところに分散されています。

南東の尾根に突出する吉傳寺郭。大蓮寺郭と同じく、出丸としての役割を持つものでしょう。ここも眺めのいい曲輪です。

吉傳寺郭と主郭の間の尾根は比較的幅が広く、まとまった広さの曲輪が連続します。ここも居住区だったのではないでしょうか。

 

交通アクセス

北陸自動車道「三条燕」IC車20分。

JR弥彦線「弥彦」駅徒歩60分。

周辺地情報 尾根続きの出城・剣ヶ峰砦はパスしてしまいました。弥彦山系では天神山城(未訪問)などがあります。
関連サイト  

 

参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「図説中世の越後」(大家健/野島出版)、「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)、「疾風 上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)、「新発田市史」(新発田市)、現地解説板
参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ