「幻の名軍師」の居城

琵琶島城

びわじまじょう Biwajima-Jo

別名:宇佐美城

新潟県柏崎市元城町

(柏崎農業高校裏手)

 

城の種別 平城

築城時期

南北朝期初期

築城者

宇佐美氏(?)

主要城主

宇佐美氏、琵琶島氏、前島氏、桐沢氏

遺構

なし

琵琶島城の石碑<<2003年08月16日>>

歴史

伊豆田方郡の豪族、宇佐美氏の一族が越後守護・上杉憲顕に従って入国し琵琶島城を築いた。宇佐美氏は上条城の上条上杉氏とともに守護家を援け、戦国期に台頭した守護代の長尾為景としばしば対立した。

永正十(1513)年、守護・上杉定実は上条城主・上条定憲、琵琶島城主・宇佐美房忠らと語らって長尾為景に対して挙兵、小野城を拠点にしたが、小野城は永正十一(1514)年一月十七日に落城、宇佐美房忠らは岩手城で抗戦したが、五月二十六日に落城、房忠ら一族のほとんどが討ち死にした。永禄(1564)七年七月五日、宇佐美定満は坂戸城主・長尾政景と舟遊び中に溺死し、宇佐美氏は没落したという。一方で宇佐美定満は永禄五(1562)年に武蔵上野原の合戦で討死したともいう。さらに一方で、永禄二(1559)年の『侍衆御太刀之次第』には琵琶島弥七郎の名が見える。天正三(1575)年の『上杉家軍役帳』では、琵琶島弥七郎は「一門衆」として「殿」がつけられ、156名の軍役を負っている。

天正六(1578)年に勃発した御館の乱に際しては琵琶島城主の前島修理亮は上杉三郎景虎に加担した。景勝は十一月四日付、旗持城将佐野清左衛門尉宛の書状で、本庄清七郎(秀綱)が御館の攻防で敗北し、琵琶島城へ助勢を申し入れるかもしれないから用心せよ、と命じている。天正七(1579)年三月三日には琵琶島城から御館に舟で兵糧を送ろうとしたが、旗持城将の佐野清左衛門尉に攻撃され失敗している。景勝は三月四日付、旗持城将佐野清左衛門尉宛の書状で琵琶島城を何としても味方につけること、また琵琶島城から御館への舟運を遮断するよう厳命した。この後まもなく琵琶島城は景勝に降伏・開城した。

天正十二(1584)年、景勝の家臣桐沢但馬守具繁が入城、景勝は天正十二(1584)年二月十四日、琵琶島城在城料として北条氏の闕所を与えた。

琵琶島城というお城、そして城主の宇佐美氏の名は結構有名ではあるのですが、そこで語られる内容は「名軍師」とされる宇佐美駿河守定行なる人物の武勇伝や、坂戸城主・長尾政景の「謎の死」にまつわる疑義など、虚実入り混じって語られることが多く、どこまでホントなのか、というのは慎重に見極める必要がありそうです。長尾為景が越後国内で悪戦苦闘しながら勢力拡大していた時代には宇佐美房忠という人物がおり、上条定憲らに応じて為景に反抗、討死しています。おそらく、地理的に見ても、伊豆から入国した、という経緯を見ても、上条上杉氏の被官であったのではないかと思います。しかし、宇佐美定満のころからの事蹟がだんだんあやしくなり、前述の宇佐美駿河守定行なる人物については、架空の人物である、という評価が固まっています。これは江戸中期に宇佐美定行の子孫と称する定祐が『北越軍記』『越後軍記』などを著述、その中で定行という架空の人物を大活躍させてしまったのが半ば史実として通ってしまっているためで、武田の「二十四将」に対抗したとしか思えない「上杉二十五将」なる家臣団の存在など、申し訳ないですが実に胡散臭いとしかいえない話が罷り通ったりしています。この定祐、「宇佐神流」とか「越後流」といわれる軍学を唱えたり、『北越軍記』を書いてみたり「上杉二十五将」を広めたり、どう考えても『甲陽軍鑑』に対抗しているとしか思えない人物で、ある意味そういう捉え方をすると虚実の境目がわかりやすくなるような気もします。ちなみに、角川映画の「天と地と」では、なぜか謙信と宇佐美定行が一騎打ち、見事(?)謙信が定行を討ち取ってしまうという、さっぱり訳のわからない展開になっていました。何がいいたいかというと、「通説で流布している宇佐美氏の事蹟はほとんどが眉唾ものだ」ということです。

琵琶島城が軍事的に表舞台に出るのはむしろ「御館の乱」のころで、その終盤戦では北条景広亡きあと、琵琶島一党が御館勢(三郎景虎勢)の「第一ノ味方」として捉えられていたようです。実際、琵琶島城から御館への兵糧入れが失敗に終わり、琵琶島城が開城してしまうと御館籠城勢はいよいよ苦しくなり、直後の三月十七日の景勝勢の総攻撃で落城しています。この兵糧入れ作戦は舟で行われたらしく、景勝側の旗持城将である佐野氏によって兵糧舟が攻撃され、舟・漕ぎ手など多数を失っています。このことは琵琶島城御館が水運で結ばれていたことを示すとともに、琵琶島城がある種の海賊城、というか海上交通の拠点として機能していたことを示唆しているようです。

現在の琵琶島城は河川の改修や高校の建設で、ざっと見たところ遺構らしきものは全くありません。一応、柏崎農業高校の校舎裏手に城址碑がありますので、ご興味のある方はどうぞ。

[2004.07.10]

琵琶島城の天然の外堀、鵜川方面から琵琶島城方面を見る。河川改修や学校建設などで遺構は全く無く、かつての様子を知るべくもない。 柏崎農業高校裏手にポツンと建つ城址碑。まあ興味がある人はこれだけでも見に行ってやってください。

 

交通アクセス

北陸自動車道「柏崎」IC車10分。

JR信越本線・越後線「柏崎」駅徒歩20分。

周辺地情報 北条城がオススメです。安田城上条城も近いです。
関連サイト  

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「上杉謙信と春日山城」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)

「上杉謙信大事典」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「上杉家御書集成U」(上越市史中世史部会)

「上杉家御年譜 第二巻」(米沢温故会)

参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ