為景の下剋上を阻止せよ!

上条城

じょうじょうじょう Joujou-Jo

別名:

新潟県柏崎市上条

 

城の種別 平山城

築城時期

文安二(1445)年頃

築城者

上杉清方

主要城主

上条上杉氏、村山氏

遺構

曲輪

上条城の入口<<2003年08月16日>>

歴史

越後守護・上杉房方が次男・清方に越後中郡の土豪衆を押さえるために配したのが始まり。清方の子房定、孫の定実は越後守護職を嗣いでいる。

永正四(1507)年八月二日、守護代・長尾為景は守護・上杉房能と対立し、府中の館を急襲、房能は関東に逃れる途上に天水越で自刃した。為景は上条上杉家から定実を擁立して守護に迎え、為景に反抗する本庄城主・本庄時長、平林城主・色部昌長らを攻撃、色部昌長は関東管領・上杉顕定(房能の兄)に援軍を求めたが、為景も上野白井城の長尾景春と結んで顕定の動きを封じた。為景は室町幕府に願い出て定実の守護相続を許されるが、永正六(1509)年七月、上杉顕定は長尾景春を鎮圧し越後に侵攻、為景、定実は一時越中に逃れた。為景は永正七(1510)年四月、為景は佐渡を経て蒲原津に上陸、このときに上条城主・上条定憲は為景派に寝返り、為景軍は寺泊まで進攻した。不利を悟った顕定は体制を立て直すため関東に撤退を試みたが、六月二十日、長森原で為景、中野小館城主の高梨政盛らに包囲され戦死した。

為景は越後を掌握したが、次第に定実との確執を深めた。永正十(1513)年、定実は上条城主・上条定憲、琵琶島城主・宇佐美房忠らと語らって挙兵、永正十一(1514)年一月十七日に房忠ら一族が討ち死にして反乱は一時収束した。

しかし、為景が権威獲得と権力集中を図るのに対し、上条城主・上条定憲は国人衆の支持を集めて享禄三(1530)年に上条城で挙兵した。享禄四(1531)年に一時収まるが、天文二(1533)年に再発、為景は下倉城主・福王寺孝重や北条城主・北条光広らの支持を得るものの苦戦し、天文二(1533)年には朝廷に奏請して綸旨を得、国人衆の気勢を削ごうとしたが効果なく、天文三(1534)年三月には安田城主・安田景元に上条城攻撃を命じた。安田景元・北条光広らは上条城附近で定憲と戦い勝利した。定憲軍は天文五(1536)年四月十日、春日山城下まで侵攻し、為景は高梨政盛らの援軍を得て三分一原でこれを撃退した。この合戦の後、為景は嫡子晴景に家督を譲って隠居し、まもなく病死した。為景の病死により、定則の乱は収束に向かった。

天正年間には能登七尾城主畠山氏の一族、義春に上条家を嗣がせ、義春は上条弥五郎政繁と名乗り、上杉の一門衆として九六名の軍役を負った。天正六(1578)年の謙信の死後勃発した「御館の乱」では、政繁は景勝に味方したが、天正七(1579)年、景虎方に一時攻略された。同年三月三日に旗持城主・佐野清左衛門尉が奪還し、旗持城の城兵に守らせた。天正十四(1586)年、上条政繁は上方に出奔したため、上条城には村山慶綱が入った。慶長三(1598)年の上杉景勝の会津移封後、慶長五(1600)年の関ヶ原の役に呼応して勃発した上杉遺臣一揆の際、上杉氏の旧臣に攻略され、その後廃城となった。

「じょうじょうじょう」ってのはまた何とも奇妙な響きですな・・・。実際この上条城と上条上杉氏の歴史は、その名前の響きに負けないほどの波乱に満ちています。

上条上杉氏の祖は上杉清方。この人は関東管領・上杉憲実の弟で、かの結城合戦で幕府軍の指揮を執った人物であります。上条城は越後に割拠する土豪たちを牽制するために築かれた「楔」のお城で、似たような成立を持つお城に笹岡城などがあります。この清方という人物、文安三(1446)年に京からの帰り道、突然自刃してしまいます。理由はよくわかりません。

上条城の周辺が慌しくなってくるのはさらに下って守護・房能と守護代・長尾為景の時代です。この房能、この時代の守護大名としてはかなり精力的な人物で、守護権力の集中化に努め、郡司不入の権の再編に着手、証拠文書の明瞭なもの以外はこれを認めない、という強硬策に出ます。これは在地の土豪衆には大いに迷惑な話で、たとえばソレガシのいなかの殿様、黒川城主の黒川氏などは、応永年間の戦乱で居城を焼かれてしまったため、文書類も殆ど焼失してしまい、苦境に立たされることになります。これを補佐する守護代の長尾能景(為景の父)は越中の一向一揆との戦いで戦死し、為景がその跡を嗣ぐのですが、次第にこの横暴な守護との確執を深め、それに比例するように土豪衆の支持を集めます。危機感を覚えた房能は為景の暗殺を謀りますが、機先を制したのは為景のほうでした。永正四(1507)年八月二日、為景は府中の守護館を急襲、房能は防ぎきれずに兄の関東管領・上杉顕定を頼って落ち延びる途上、天水越で進退窮まって自刃しました。ここに、為景による越後のクーデター、「下剋上」がスタートします。為景はここで名目上、上条上杉氏から定実を迎えて守護に仕立て上げ、幕府にも根回ししてこれを追認させ、房能の敵を討とうと越後に侵攻した関東管領・上杉顕定を越後長森原に攻め滅ぼし、主筋の人間を二人まで葬ってしまいます。しかも長尾景春に蜂起を促し、遠く小田原城の北条早雲を扇谷上杉氏から離反させるなど、外交面でも目まぐるしく活躍します。この間に、上条城主・上条定憲ははじめ為景と対立しながら、形成を見て寝返り、顕定軍の撃退に活躍します。上条定憲はこの時点では一応、上杉定実の顔を立てた、ということなんでしょう。

しかしここからがややこしくなります。越後国人衆の支持を得て事実上の国主の座を奪った為景はしかし、強権的な統率で次第に反発を買います。房能が為景に取って代わっただけ、土豪衆はそう感じたのでしょう。そして事実上傀儡となった定実も面白かろうはずがなく、永正十(1513)年、定実と上条定憲、琵琶島城主の宇佐美房忠らが蜂起、この鎮圧に一年近くを要しています。為景は定実を殺すことも廃することもなく、飾り雛としての守護職だけは安堵しますが、この火は簡単には消えません。反銭賦課権をめぐる争いを端緒として、享禄三(1530)年、ふたたび上条定憲が反為景の烽火を上げます。この背後では、傀儡化した定実の存在、および大熊政秀らの旧上杉氏の直臣層が深く関与しています。結局この騒乱の中、為景が病死することで収束に向かうのですが、守護権力の回復と反為景の勢力の裏にはつねに上条定憲の姿が見え隠れしています。そしてこのドタバタ劇の合間にひとりの男児が生まれます。虎千代、のちの長尾景虎、上杉謙信です。謙信もまた、その宿敵武田信玄と同じく、戦乱に生まれ、戦乱に死んでいった人間でした。しかし、為景という人物、エネルギッシュじゃないですか!ある意味、謙信以上に戦国大名らしい戦国大名といえるでしょう。上条定憲という人は結局、傀儡化された定実の守護権力回復の為に頑張った人、ということなのでしょう。

その「ストップ・ザ・下剋上」の中心となった上条城ですが、一応は「御殿川」に面した段丘上に構えられていますが、防衛力の殆ど無い、お城というより平時の「館」ですね。事実、背後の山には黒滝城という要害を持っていたそうです。一応「上条城址入口」の石碑などはありますが、はっきりとわかる遺構らしきものは殆どありませんでした。一応きちんと探せば土塁くらいはあったかもしれませんが、広場になっている主郭以外は背の丈ほどもある雑草が覆い茂っているため、探す気も起きなかったというのが本音です。まあこういうお城は遺構が云々、というよりも、その場所、その景色を感じることが大切だと思ってますので・・・。

「御殿川」に面した河岸段丘上が上条城。戦乱の真っ只中にあった割にはそれほど堅固にも見えませんな。 集落センターの脇が入口。立派な石碑が建っており、ちょっと期待をしてしまうのですが・・・。

主郭にはご覧の石碑や、いくつかの墓碑などがあるほかは特に何もありません。 「進修館」なる建物があったことを示す石碑のあたりが通称「天守台」とのことですが、天守なんかあるわけはありませんな。

二郭へは2m程度の段差があるのみ。これは土橋なんでしょうか、それとも畑仕事の通路に過ぎないんでしょうか? 二郭は草むらです。蚊がスゴイです。土塁などを探してみましたがさっぱり見つかりませんでした。

曲輪の端の腰曲輪?それとも横堀?とにかくヤブが深くてさっぱりわからん・・・。 台地下の田んぼもなんとなく泥田堀っぽいけど。。。

 

交通アクセス

北陸自動車道「柏崎」IC車20分。

JR信越本線・越後線「柏崎」駅徒歩60分またはバス(?)。

周辺地情報 北条城がオススメ。安田城も近いです。
関連サイト  

 

参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「上杉謙信と春日山城」(花ヶ前盛明/新人物往来社)、「図説中世の越後」(大家健/野島出版)、「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)、「疾風 上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)
参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ