「じょうじょうじょう」ってのはまた何とも奇妙な響きですな・・・。実際この上条城と上条上杉氏の歴史は、その名前の響きに負けないほどの波乱に満ちています。
上条上杉氏の祖は上杉清方。この人は関東管領・上杉憲実の弟で、かの結城合戦で幕府軍の指揮を執った人物であります。上条城は越後に割拠する土豪たちを牽制するために築かれた「楔」のお城で、似たような成立を持つお城に笹岡城などがあります。この清方という人物、文安三(1446)年に京からの帰り道、突然自刃してしまいます。理由はよくわかりません。
上条城の周辺が慌しくなってくるのはさらに下って守護・房能と守護代・長尾為景の時代です。この房能、この時代の守護大名としてはかなり精力的な人物で、守護権力の集中化に努め、郡司不入の権の再編に着手、証拠文書の明瞭なもの以外はこれを認めない、という強硬策に出ます。これは在地の土豪衆には大いに迷惑な話で、たとえばソレガシのいなかの殿様、黒川城主の黒川氏などは、応永年間の戦乱で居城を焼かれてしまったため、文書類も殆ど焼失してしまい、苦境に立たされることになります。これを補佐する守護代の長尾能景(為景の父)は越中の一向一揆との戦いで戦死し、為景がその跡を嗣ぐのですが、次第にこの横暴な守護との確執を深め、それに比例するように土豪衆の支持を集めます。危機感を覚えた房能は為景の暗殺を謀りますが、機先を制したのは為景のほうでした。永正四(1507)年八月二日、為景は府中の守護館を急襲、房能は防ぎきれずに兄の関東管領・上杉顕定を頼って落ち延びる途上、天水越で進退窮まって自刃しました。ここに、為景による越後のクーデター、「下剋上」がスタートします。為景はここで名目上、上条上杉氏から定実を迎えて守護に仕立て上げ、幕府にも根回ししてこれを追認させ、房能の敵を討とうと越後に侵攻した関東管領・上杉顕定を越後長森原に攻め滅ぼし、主筋の人間を二人まで葬ってしまいます。しかも長尾景春に蜂起を促し、遠く小田原城の北条早雲を扇谷上杉氏から離反させるなど、外交面でも目まぐるしく活躍します。この間に、上条城主・上条定憲ははじめ為景と対立しながら、形成を見て寝返り、顕定軍の撃退に活躍します。上条定憲はこの時点では一応、上杉定実の顔を立てた、ということなんでしょう。
しかしここからがややこしくなります。越後国人衆の支持を得て事実上の国主の座を奪った為景はしかし、強権的な統率で次第に反発を買います。房能が為景に取って代わっただけ、土豪衆はそう感じたのでしょう。そして事実上傀儡となった定実も面白かろうはずがなく、永正十(1513)年、定実と上条定憲、琵琶島城主の宇佐美房忠らが蜂起、この鎮圧に一年近くを要しています。為景は定実を殺すことも廃することもなく、飾り雛としての守護職だけは安堵しますが、この火は簡単には消えません。反銭賦課権をめぐる争いを端緒として、享禄三(1530)年、ふたたび上条定憲が反為景の烽火を上げます。この背後では、傀儡化した定実の存在、および大熊政秀らの旧上杉氏の直臣層が深く関与しています。結局この騒乱の中、為景が病死することで収束に向かうのですが、守護権力の回復と反為景の勢力の裏にはつねに上条定憲の姿が見え隠れしています。そしてこのドタバタ劇の合間にひとりの男児が生まれます。虎千代、のちの長尾景虎、上杉謙信です。謙信もまた、その宿敵武田信玄と同じく、戦乱に生まれ、戦乱に死んでいった人間でした。しかし、為景という人物、エネルギッシュじゃないですか!ある意味、謙信以上に戦国大名らしい戦国大名といえるでしょう。上条定憲という人は結局、傀儡化された定実の守護権力回復の為に頑張った人、ということなのでしょう。
その「ストップ・ザ・下剋上」の中心となった上条城ですが、一応は「御殿川」に面した段丘上に構えられていますが、防衛力の殆ど無い、お城というより平時の「館」ですね。事実、背後の山には黒滝城という要害を持っていたそうです。一応「上条城址入口」の石碑などはありますが、はっきりとわかる遺構らしきものは殆どありませんでした。一応きちんと探せば土塁くらいはあったかもしれませんが、広場になっている主郭以外は背の丈ほどもある雑草が覆い茂っているため、探す気も起きなかったというのが本音です。まあこういうお城は遺構が云々、というよりも、その場所、その景色を感じることが大切だと思ってますので・・・。