近年、某文庫で有名になった「御館の乱」の中心舞台ですが、見事に遺構は残っていません。もともと平素の居館だったもんだから、それほど大きな普請もしていないんでしょうが、それでも面積はかなりの広さがあったといいます。現在では殆どがJRの敷地と住宅地になってしまい、わずかに「御館公園」というちっぽけな公園(ふつーの住宅地にあるような公園)が申し訳程度にあるのみで、何人かに尋ねても地元の人さえほとんど知らないような場所です。「三郎景虎」人気あるのにね〜。
ところでこの御館の乱では、「謙信の後継争い」「越後を二分した大乱」「景虎の壮絶な自刃」の影で、「小さな大事件」が起きていました。
そう、前関東管領・上杉憲政の死、です。
このオッサンは、平井城の頁でも紹介したように、「酒食に溺れ色を好み・・・」とダメ武人の決まり文句で罵られ、嫡子を平井城に置き去りにして脱出、一時は常陸の佐竹義昭を頼り、「上杉の名跡を嗣いでくれ〜」と頼んだりもしたのですが、「うちァ新羅三郎義光公以来の源氏の名流じゃ〜!」と断られたと言います。結局、越後長尾氏を頼って春日山城に逃げ込みます。そもそも越後長尾氏だって、上杉顕定が長尾為景に敗死させられている「父祖伝来の仇」のはずなのに・・・。しかし義侠心に篤い謙信公(このころはまだ長尾景虎と名乗っていたが)はこのオッサンを暖かく迎え入れました。おかげで我らが謙信公は武田と川中島を争うだけでなく、実入りのほとんど無い関東出陣に莫大なエネルギーを消費することになってしまいます(もっともこれは、農閑期の出稼ぎだ、という説もある)。
で、この憲政オヤジがこのお家大事の場面で、しゃしゃり出てくるのです。「関東管領職を謙信に譲ったのはワシだから、ワシにも発言権はある」って、一見まっとうな主張のように見えて、「オイオイ、今更何を言い出すんだよぉ・・・」という気はします。さらにこのオッサンは何を思ったか、景虎を相続せしむるべし、と主張するのです。「オイオイ、景虎はアンタを追っ払った、氏康の子だぜぇ」とフツーなら思いますよね。そして戦もたけなわの頃になって、「ヨッコラショ」とばかり和議に向けて腰を上げたところを、敢え無く殺されて(自害とも)しまうのです。ああ、哀れなり、哀れなり・・・。
この御館の発掘調査(昭和三十九年)によると、落城時のものと思われるベッコウの櫛やかんざしなどもたくさん出土したという。多くの婦女子も御館、景虎、そして憲政オヤジと運命をともにしたらしいです。合掌。
肝心の遺構は全く無く、前述の通り、子供どころか犬の一匹もいない公園になってしまいました。かつての御館が一年もの攻防に耐えたことを考えると、どんな館だったのかかなり興味あります。まあ、現状が現状ですので、城郭ファンにはイマイチでしょう。例の「蜃気楼」ファンなど、熱心なマニアと春日山城見学のついでにたまたま通る人以外には、あまりお奨めしませんね。ときには空想の世界だけのほうが幸せなことも・・・。