越後を二分した御館の乱の舞台

御館

おたて Otate

別名:

 

新潟県上越市五智町

(御館公園)

城の種別

中世武士居館

築城時期

永禄年間 

築城者

長尾景虎(上杉謙信)

主要城主

上杉憲政

遺構

なし

御館公園<<2001年4月30日>>

歴史

天文二十(1551)年二月、北条氏康は二万の軍勢を率いて関東管領・上杉憲政の籠る平井城攻めのために小田原城を進発、憲政は翌天文二十一(1552)年二月十日、五十名の供を従えて平井城を脱出し、春日山城の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り越後に逃れた。御館は上杉憲政を迎え入れるために謙信が造営し、上杉憲政の居館であったと同時に春日山城に在城する謙信の公的な政庁として使用された。

天正六(1578)年三月十三日、謙信は卒中のため逝去し、上田長尾氏から養子に入った景勝と、小田原北条氏から養子に入った景虎の間で相続をめぐって内紛が勃発した(御館の乱)。景勝は三月十五日、謙信の遺言と称して春日山城実城(本丸)、金蔵、兵器蔵を占拠、三ノ丸の景虎に対し大鉄砲で射撃を行った。景虎は五月十三日に春日山城を脱出し御館に立て籠もった。この事態に際し、小田原城の北条氏政は景虎支援のため、武田勝頼に援軍を要請、勝頼は五月二十九日に二万の大軍で信越国境に兵を進めた。景勝は勝頼を敵に回す不利を悟り、新発田城主・新発田尾張守長敦らを派遣して東上野割譲と黄金一万両を条件に和議を交渉、勝頼も北条氏政が動かないことを疑念に思い六月七日、和議に応じた。九月には北条氏照・氏邦が越後樺野沢城に侵攻し坂戸城を攻めたが、九月末には撤退した。天正七(1579)年二月一日、景勝は大軍を以って御館を攻め、景虎方の北条城主・北条景広は直江兼続の余党・荻田孫十郎長繁に討たれた。二月十八日、景勝は御館への兵糧を遮断、三月十七日に一斉攻撃で御館は炎上、落城した。このとき、上杉憲政は景虎の長男・道満丸を同道して春日山城に和議交渉に向う途上で景勝の兵により殺害された。景虎は小田原城へ逃亡しようと堀江宗親の守る鮫ヶ尾城に立ち寄ったが、宗親の寝返りにより、三月二十四日、自刃した。

近年、某文庫で有名になった「御館の乱」の中心舞台ですが、見事に遺構は残っていません。もともと平素の居館だったもんだから、それほど大きな普請もしていないんでしょうが、それでも面積はかなりの広さがあったといいます。現在では殆どがJRの敷地と住宅地になってしまい、わずかに「御館公園」というちっぽけな公園(ふつーの住宅地にあるような公園)が申し訳程度にあるのみで、何人かに尋ねても地元の人さえほとんど知らないような場所です。「三郎景虎」人気あるのにね〜。

ところでこの御館の乱では、「謙信の後継争い」「越後を二分した大乱」「景虎の壮絶な自刃」の影で、「小さな大事件」が起きていました。

そう、前関東管領・上杉憲政の死、です。

このオッサンは、平井城の頁でも紹介したように、「酒食に溺れ色を好み・・・」とダメ武人の決まり文句で罵られ、嫡子を平井城に置き去りにして脱出、一時は常陸の佐竹義昭を頼り、「上杉の名跡を嗣いでくれ〜」と頼んだりもしたのですが、「うちァ新羅三郎義光公以来の源氏の名流じゃ〜!」と断られたと言います。結局、越後長尾氏を頼って春日山城に逃げ込みます。そもそも越後長尾氏だって、上杉顕定が長尾為景に敗死させられている「父祖伝来の仇」のはずなのに・・・。しかし義侠心に篤い謙信公(このころはまだ長尾景虎と名乗っていたが)はこのオッサンを暖かく迎え入れました。おかげで我らが謙信公は武田と川中島を争うだけでなく、実入りのほとんど無い関東出陣に莫大なエネルギーを消費することになってしまいます(もっともこれは、農閑期の出稼ぎだ、という説もある)。

で、この憲政オヤジがこのお家大事の場面で、しゃしゃり出てくるのです。「関東管領職を謙信に譲ったのはワシだから、ワシにも発言権はある」って、一見まっとうな主張のように見えて、「オイオイ、今更何を言い出すんだよぉ・・・」という気はします。さらにこのオッサンは何を思ったか、景虎を相続せしむるべし、と主張するのです。「オイオイ、景虎はアンタを追っ払った、氏康の子だぜぇ」とフツーなら思いますよね。そして戦もたけなわの頃になって、「ヨッコラショ」とばかり和議に向けて腰を上げたところを、敢え無く殺されて(自害とも)しまうのです。ああ、哀れなり、哀れなり・・・。
この御館の発掘調査(昭和三十九年)によると、落城時のものと思われるベッコウの櫛やかんざしなどもたくさん出土したという。多くの婦女子も御館、景虎、そして憲政オヤジと運命をともにしたらしいです。合掌。

肝心の遺構は全く無く、前述の通り、子供どころか犬の一匹もいない公園になってしまいました。かつての御館が一年もの攻防に耐えたことを考えると、どんな館だったのかかなり興味あります。まあ、現状が現状ですので、城郭ファンにはイマイチでしょう。例の「蜃気楼」ファンなど、熱心なマニアと春日山城見学のついでにたまたま通る人以外には、あまりお奨めしませんね。ときには空想の世界だけのほうが幸せなことも・・・。

うむむ、なんともうら寂しい。越後を二分した大乱の舞台は人っ子一人いない公園に。墓石のような標柱がわずかに当時を語ってくれるのみ。 こちらは近くにある十念寺、通称「浜善光寺」。川中島合戦での戦乱を避けるため、謙信が本尊をここに移したという。

 

交通アクセス

JR信越本線・北陸本線「直江津」駅徒歩10分。

北陸自動車道「上越」IC車10分。  

周辺地情報

やはり春日山城こそ行くべき場所でしょう。

関連サイト

 

 
参考文献 「上杉謙信と上杉鷹山」(花ヶ前盛明・横山昭男/河出書房新社)、「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地石碑ほか
参考サイト  

 

埋もれた古城 表紙 上へ