「越後の虎」十四歳の旗揚げ

栃尾城

とちおじょう Tochio-Jo

別名:鶴翼城

新潟県長岡市栃尾町

城の種別

中世山城

築城時期

天平年間(729-748)?

築城者

不明

主要城主

本庄氏

遺構

曲輪、堀切、竪堀、土塁、狼煙台、井戸跡 他

栃尾城遠望<<2001年05月05日>>

 

伝承では天平年間(729-748)に防人の在営地として築かれたと伝えるが、北日本の蝦夷を治めるための前進基地において防人と言ったかどうかは疑問がある。鎌倉期には佐々木氏、執権北条氏の一族が居住したらしい。南北朝期には北朝の拠点となり城郭として整備された。

室町期に上杉氏が越後守護として入国すると、守護代長尾氏がはじめ蔵王堂(新潟県長岡市)に配置され、のちに守護勢力が弱まると長尾氏の一族、古志長尾氏が栖吉城に入り、栃尾城は在地土豪支配のための支城として整備され、城代に本庄実仍が任ぜられた。

永正四年(1507)、顕定の弟で越後守護の上杉房能が春日山城主・守護代長尾為景と対立し敗走中に自刃、関東管領の山内上杉顕定は養子、憲房とともに永正六(1509)年越後に出陣、一時為景勢を越中に敗走させたが、翌永正七(1510)年六月二十日、為景の襲撃で顕定は長森原で自刃した(長森原合戦)。これによって長尾為景は事実上越後国主の実権を掌握したが、天文五(1536)年八月に為景は嫡子・晴景に家督を譲り、天文十二(1543)年十二月に没した。晴景は国人領主たちの叛乱を鎮圧することが出来ず、当時春日山城下の林泉寺にいた弟の虎千代(長尾景虎、のちの上杉謙信)を還俗させ栃尾城に配置した。謙信はこの栃尾城下で、敵対する三条城主・長尾俊景らの攻撃を退けたと言われる(刈谷田川合戦)が、史実であるという確証は無い。この一連の栃尾城付近での叛乱鎮圧戦が当時十四歳の景虎の初陣と言われる。景虎はその後も黒滝城の黒田秀忠の謀反討伐などで武勇を示し、揚北や越後中郡の諸将の支持を得た。これに危機感を抱いた晴景は景虎討伐軍を発したが、景虎は米山合戦で大勝し春日山城下に迫った。この内紛を憂いた守護・上杉定実が両者を調停し、天文十七(1548)年、景虎は晴景の養子となって守護代長尾家を嗣ぐ事となり、栃尾城から春日山城に移った。

謙信の治世下では、本庄実乃は春日山城下に移り、栃尾城には本庄玖介、宇野左馬充が栃尾城代として配備され、「栃尾衆」が編成された。天正三(1575)年には栃尾衆は計240名の軍役を負っている。

天正六(1578)年三月、謙信は春日山城内で急死し、上田長尾氏出身の景勝と、小田原北条氏から養子に入った三郎景虎が家督をめぐって対立した(御館の乱)。この乱では栃尾城主の本庄秀綱は三郎景虎方につき、天正六(1578)年五月には景勝方の直江信綱を攻め、八月には南魚沼に出兵、九月には御館に入城した。十月二十四日の戦闘で景勝軍が勝利すると、秀綱は十一月に栃尾城に帰り、援兵を待った。しかし三郎景虎は天正七年三月に御館を脱出、堀江宗親を頼り鮫ヶ尾城に逃れたが、堀江の寝返りにより三月二十四日、鮫ヶ尾城で自刃した。天正八(1580)年四月、景勝は三郎景勝方の残党討伐のために春日山城を出立し、三条城を平定した後に四月十五日、栃尾城を攻めに向かい、四月二十二日には城下を焼き払った。本庄秀綱は栃尾城を棄て、会津に落ち延びて、栃尾城は陥落した。

栃尾城が陥落後、上杉景勝は上田荘出身者を栃尾に配備、佐藤甚助忠久を城主に任じた。慶長三(1598)年の上杉景勝会津移封により、廃城となった。

我等が御屋形様、景虎様の旗揚げの地にして、のちの「越後の虎・上杉謙信」への偉大なる一歩を踏み出した、記念すべき城であります。この「刈谷田川合戦」は「天と地と」にも描かれていますが、あくまでもフィクションだということでした。でもそういうふうに考えるとロマンがないし、景虎がこの栃尾城に派遣され、越後中郡の在地土豪たちを鎮圧したのは事実なので。ここはひとつ、後の謙信公が羽ばたいた第一歩の地である、ということで行きたいと思います。

この栃尾城での活躍で景虎はその武勇を認められ、続いて黒田秀忠の討伐戦など、守護代の兄・晴景を援けて大活躍します。のちの謙信公がまだティーンエイジャーだったころの話です。しかし、景虎がその武勇を認められ、国人領主たちの間で景虎擁立の声が高まってくると、晴景は次第に景虎を疎んじ、ついには討伐軍を繰り出します。そこで景虎は米山の合戦などで晴景軍を散々に追い散らし、春日山城下まで進軍します。晴景は病弱で、越後という大国を治めるだけの器量にも恵まれていなかったのでしょう。結局、守護家の仲立ちで景虎は栃尾城を離れ、春日山城で晴景の跡を継ぎ、守護代に収まります。この瞬間、長く後世に語り継がれる「越後の虎」「毘沙門の化身」が誕生します。その後の活躍はご存知の通りです。栃尾城で景虎を向い入れた本庄実仍はその後も景虎の股肱の臣として付き添います。七歳のときに父を亡くした景虎にとっては、「おやじ」のような存在であったのでしょう。

たいしたこと無いように見えて、実はフロントサスペンション&ステアリング系を大破。JAFに助けてもらって応急処置で麓まで降りたものの、この傷が原因でわが愛馬は討ち死にしました。

 

 

実はこの日(2001年8月13日)は二回目の見学。一回目(2001年5月5日)は、砂利道の林道で調子に乗りすぎて車を側溝に落としてしまい大破、見学を諦めスゴスゴ帰ったのでした。そういう意味ではリベンジですな。栃尾の町から見た比高はそれほど高く感じないのですが、千畳敷を越えた要害地区はかなりの急坂で、異常に高かった気温とも相まってかなり体力を使いました。主郭部にあたる実城は前面にあたる東側が削り落としたような急斜面になっていて、大手道はこの急斜面の真下を屈曲しながら通ります。この構造は越後の城郭では比較的多く見られるような気がします。実城裏手の尾根筋の遺構も見ごたえがあって、細い尾根を断ち切る堀切が次々と現れて、中世山城マニアの目を喜ばせてくれます。しかしこの尾根筋で道に迷いまたしてもクタクタに。あと、藪がひどくて実城の本曲輪を支える腰巻状の石垣、城内を二分する大堀などは見られませんでした。こんどは夏以外の季節に行こう・・・。

城下町の片隅、諏訪神社からの道が大手道だったらしい。 大手道の坂を登り切ると金井曲輪。金井、というのは重臣の名前でしょうか?

馬場はご覧のようにすっかり山林化し、藪となってしまいました。池跡などもありますが、写真を見ても何がなにやらさっぱり「?」なので掲載しません。 城内を真っ二つに二分する大堀。これによって「一城別郭」ともいえる構造になっています。当城最大の見所のひとつですが、時期が悪くご覧の通りの藪に。。。

三ノ丸に相当する広大な千人溜り(千畳敷)。ここから実城方面には急坂と腰曲輪が連続します。 大手道わきにある金銘泉。山城に欠かせない、水の手の一つでしょう。

実城区画も大きく二つに分かれています。南側の曲輪が二郭に相当し、小さなあづまやが建てられています。 二郭から南側を見下ろす。謙信が見た山、謙信が見た川、謙信が見た景色・・・。

細長い実城本曲輪。近世の天守台に相当する曲輪です。腰巻の石垣などもあるそうですが、夏草に阻まれみることはできませんでした。 本曲輪から東側の栃尾市街を見る。山に囲まれた盆地状の地形です。

大手道の金銘泉付近から見上げる実城。大手道を襲う敵兵はこの急斜面上から矢玉、投石などの攻撃をかわさない限り、実城に取り付くことはできません。 実城より見下ろす大手道(左下)。大手道を実城の削崖下に通す手法は越後系城郭に多い手法であると思います。

西に伸びる尾根には、中世の山城らしい堀切や小さな曲輪が連続します。二郭背後の写真の堀切はその中でも最大級の規模でした。

堀切を越えて「びわ丸曲輪」へ。この名前も気になりますね。謙信はここで琵琶など奏でながら、盃を空けていたのでしょうか?

馬つなぎ周辺の堀は深さ、幅は小規模ですが、竪堀となって斜面を降りていきます。 その馬つなぎ場の堀にかかる土橋。なんてことのない遺構ですが、こういう定番の遺構を見つけると嬉しいですね。
「狼煙台詰曲輪」と呼ばれる曲輪。山の上とは思えない、非常に重厚な土塁があります。この周辺の区画は、戦時に領民を避難させる目的もあったようです。 狼煙台手前の堀切。

尾根伝いの端にあたる狼煙台。ここまではよかったんだが、ここから下山するときに道に迷ってしまった。

やっと「長峰林道」に出ました。僕の愛車がクラッシュした林道です。実城の真裏の平場が館跡であったと伝えられます。

館から実城へ向かう急坂の途中にある池。「御馬井戸」といわれているらしい。 帰りがけに見つけた、枡形のような空間。

栃尾の街は、古い町並みと、雪国らしい雁木の道が残る。静かでいい街ですよ。 十四歳の謙信が押し寄せる国人領主たちと戦った刈谷田川。栃尾城を守る天然の堀でもあります。
いいお城なんですが、時期が悪かったですね。交通の便があまり良くは無いので、車で行くことをオススメします。

 

交通アクセス

関越自動車道「長岡」IC車30分。

JR上越線・信越本線「長岡」駅よりバス。

周辺地情報

長岡方面であれば栖吉城、蔵王堂城など。ファミリーコースなら悠久山公園。ただし公園内の長岡城は単なる資料館です。本物の長岡城は長岡駅前。遺構はありません。

関連サイト

 

 
参考文献 「図説中世の越後」(大家健/野島出版)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)、「疾風 上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)、「栃尾発 戦国の聖将 上杉謙信」(栃尾謙信公奉賛会)、現地解説板
参考サイト  

 

埋もれた古城 表紙 上へ