義ノ為ニ殉ズ

柏崎安田城

やすだじょう Yasuda-Jo

別名:

新潟県柏崎市安田

 

城の種別 平山城

築城時期

室町時代中期

築城者

安田(毛利)氏

主要城主

安田氏

遺構

曲輪、堀切

安田城主郭<<2003年08月16日>>

歴史

安田氏は毛利時元を祖とする越後毛利氏の北条丹後守憲広の次男、修理亮憲朝に発する。憲広は憲朝に鵜川荘安田条を分与し、将軍足利義満は康暦二(天授六、1380)年六月二十八日、その所領を安堵している。

安田氏は同族の北条城主・北条氏とともに越後守護の上杉氏の配下となったが、安田氏と北条氏はたびたび紛争を起こしていたという。永正四(1507)年に越後守護の上杉房能と守護代の長尾為景が対立、房能は関東に向けて敗走中に天水越で自刃した。これ以降の越後国内の動乱では安田城主の安田広春はつねに為景と行動をともにし、永正十七(1520)年八月の為景による越中侵攻の際は陣中から妻と家臣に自分が討ち死にした場合の仕置を置文にしたためて送っている。その子景元も為景に従い、天文三(1534)年五月二十一日には上条城主・上条定憲と納下で交戦して勝利し、為景より感状を受けた。

天文二十三(1554)年、北条高広が武田信玄に通じて北条城で挙兵すると、景元はこれをただちに直江実綱に報じた。長尾景虎(のちの上杉謙信)は弘治元(1555)年一月十四日、上条城琵琶島城に援兵を送り、二月には自ら善根に出陣し、北条城を包囲、北条高広は三月頃に降伏した。

天正六(1578)年三月十三日、謙信が春日山城内で死去すると、上杉景勝と北条氏より養子入りした三郎景虎の間に相続争いが起こった(御館の乱)。この乱では安田顕元、能元兄弟は景勝に味方し戦功を挙げた。この乱の際に顕元は、去就が定まっていなかった新発田城主・新発田尾張守長敦、その弟の五十公野城主・五十公野源太治長、その妹婿の長沢道如斎らを景勝陣営に誘い、大いに戦功を挙げたが、乱後の論功行賞では長敦の死や景勝の馬廻衆の反対などで、新発田領が安堵されただけであった。顕元はこれを再三諌めたが聞き入れられず、景勝宛に諌書をしたためて自刃したという。この後、新発田重家の乱にあたっては、跡を嗣いだ能元が景勝に味方して天正十一(1583)年の「放生橋合戦」で重症を負ったが、天正十五(1587)年十月二十五日には新発田城の搦手を突破し城内に攻め込むなど奮戦し戦功を挙げた。

慶長三(1598)年の上杉景勝の会津移封に従い安田城も廃城となった。

安田城北条城とならぶ越後毛利氏の居城です。越後毛利氏はこの安田城を居城とする安田氏と、北条城を居城とする北条氏に分派しましたが、この二家はごく近い同族でありながら、あんまり仲が良くなかったみたいで、しょっちゅう小競り合いというか、揉めごとを起こしてたみたいです。北条高広が北条城で謙信に対して挙兵した事件の裏にも、同族の対立があったといいます。なんか越後は同族の争いの多いところだなぁ・・・・。

安田城主の安田顕元は「御館の乱」に際しては景勝に味方をします。これも北条景広が景虎擁立派の中核的な存在となったことに対抗して、のことかもしれません。この頃、安田顕元はその帰趨が定まっていなかった新発田長敦、長沢道如斎らを口説いて景勝勢に引き入れることに成功し、長敦らは軍事に外交に大活躍し、景勝勝利の原動力となったといっても言い過ぎではなかったかと思います。しかしながら乱後の論功行賞では、景勝の直臣団である上田衆が外様たる新発田勢らへの多大な恩賞を渋ったこともあり、上田衆ばかりが加増され、新発田勢はわずかに新発田重家が病死した兄・長敦の遺蹟を嗣ぐことと、長沢道如斎に五十公野氏を嗣ぐことを許されただけでした。やんぬるかな重家、さして功もなき上田衆ばかりが加増され、自分は兄の遺蹟を安堵されるのみ、どころか道如斎の持っていた三条の利権をも失ってしまった。景勝頼むに足らず・・・やがて「新発田重家の乱」として爆発する不満が鬱積されていきます。困ったのは安田顕元、このままでは重家らに申し訳が立たない。再三にわたって景勝に重家の加増を取り成すも聞き入れられず、重家らに対する申し訳を立てるために終には景勝に一通の諌書をしたためて自刃したという・・・。毛利氏というとその租、大江広元や有名な毛利元就など、「権謀術数」のイメージが強いのですが、顕元のような義に殉ずる人物もいたのですね(決して毛利氏の悪口ではありませんよ〜)。

安田城の周辺には低い丘陵が連なっており、ぱっと見たらどれが安田城かよくわかりません。安田「城ノ組」集落の背後、比高差わずか30mかそこらの丘陵端が安田城です。一応、農村公園として整備されてはいますが、墓地の造成や一部は土採りの痕跡があり、さらに背後の三郭以降は水道施設の建設などで破壊され、際立った遺構はあまりありません。一応北条城と似た雰囲気は持っているのですが、はるかに小さなお城という印象です。

安田の集落背後、比高30mほどの低い丘陵が安田城。高い山ならほかにも沢山ありそうなもんですが・・・。 あんまり目立たない農村公園入口。ここから城内に入ります。

城内に造成された墓地の横には堀切がありました。地形が改変されているため断言できませんが、横堀状に伸びており、また尾根上には土塁も配置しているようです。 二郭には子供の遊具などがあり、一応公園の体を為しています。が、例によって例のごとく、人っ子ひとりいませんでした。

尾根上の主郭。城址碑が建っています。なんとなく北条城と雰囲気が似てるかな。 低い丘陵なので絶景!というわけにはいきませんが、一応それなりに眺望は得られます。手前の斜面や墓地は結構改変されていそうな感じです。

主郭背後の大堀切はさすがに規模が大きい。遺構面での一番の見所。しかし、連続空堀はわからなかった・・・。 三郭以下はなにやら貯水用の施設などが建っています。無理して藪コギすれば先にも進めたんでしょうが、クモの巣だらけで撃退されました。

 

交通アクセス

北陸自動車道「柏崎」IC車10分。

JR信越本線「安田」駅徒歩10分。

周辺地情報 同族・北条氏の北条城がオススメ。
関連サイト 新発田重家の乱」の頁もご覧下さい。

 

参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「上杉謙信と春日山城」(花ヶ前盛明/新人物往来社)、「菖蒲城物語」(角田夏夫/北方文化博物館)、「図説中世の越後」(大家健/野島出版)
参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ