安田氏は毛利時元を祖とする越後毛利氏の北条丹後守憲広の次男、修理亮憲朝に発する。憲広は憲朝に鵜川荘安田条を分与し、将軍足利義満は康暦二(天授六、1380)年六月二十八日、その所領を安堵している。
安田氏は同族の北条城主・北条氏とともに越後守護の上杉氏の配下となったが、安田氏と北条氏はたびたび紛争を起こしていたという。永正四(1507)年に越後守護の上杉房能と守護代の長尾為景が対立、房能は関東に向けて敗走中に天水越で自刃した。これ以降の越後国内の動乱では安田城主の安田広春はつねに為景と行動をともにし、永正十七(1520)年八月の為景による越中侵攻の際は陣中から妻と家臣に自分が討ち死にした場合の仕置を置文にしたためて送っている。その子景元も為景に従い、天文三(1534)年五月二十一日には上条城主・上条定憲と納下で交戦して勝利し、為景より感状を受けた。
天文二十三(1554)年、北条高広が武田信玄に通じて北条城で挙兵すると、景元はこれをただちに直江実綱に報じた。長尾景虎(のちの上杉謙信)は弘治元(1555)年一月十四日、上条城と琵琶島城に援兵を送り、二月には自ら善根に出陣し、北条城を包囲、北条高広は三月頃に降伏した。
天正六(1578)年三月十三日、謙信が春日山城内で死去すると、上杉景勝と北条氏より養子入りした三郎景虎の間に相続争いが起こった(御館の乱)。この乱では安田顕元、能元兄弟は景勝に味方し戦功を挙げた。この乱の際に顕元は、去就が定まっていなかった新発田城主・新発田尾張守長敦、その弟の五十公野城主・五十公野源太治長、その妹婿の長沢道如斎らを景勝陣営に誘い、大いに戦功を挙げたが、乱後の論功行賞では長敦の死や景勝の馬廻衆の反対などで、新発田領が安堵されただけであった。顕元はこれを再三諌めたが聞き入れられず、景勝宛に諌書をしたためて自刃したという。この後、新発田重家の乱にあたっては、跡を嗣いだ能元が景勝に味方して天正十一(1583)年の「放生橋合戦」で重症を負ったが、天正十五(1587)年十月二十五日には新発田城の搦手を突破し城内に攻め込むなど奮戦し戦功を挙げた。
慶長三(1598)年の上杉景勝の会津移封に従い安田城も廃城となった。