村上城の前身、揚北の雄・本庄氏の居城

本庄城

ほんじょうじょう Honjou-Jo

別名:村上城、舞鶴城

 

新潟県村上市一之町

(臥牛山山頂/国指定史跡「村上城」

城の種別

中世山城

築城時期

不明(鎌倉初期?)

築城者

本庄氏

主要城主

本庄氏

遺構

曲輪、土塁、空堀、水堀、竪堀、虎口

東南側の長大竪堀<<2003年01月01日>>

歴史

鎌倉時代初期、武蔵国秩父郡から秩父(畠山)行長・為長兄弟が越後国瀬波郡小泉庄の地頭職に任じられたのが始り。兄・行長は本庄に入り本庄氏を称し、弟の為長は色部条に入り色部氏(平林城)を称した。このころの本庄氏の本拠地はこの本庄城ではなく猿沢城であった可能性もある。

本庄繁長は春日山城の長尾景虎(上杉謙信)に属したが、永禄十一(1568)年五月、武田信玄の調略で謙信に叛旗を翻し同族の鮎川氏の居城、大葉沢城を攻めるが、十一月から包囲を受ける。信玄の後詰めがないことを悟った繁長は翌年三月、嫡子顕長を謙信に人質として差し出し降伏した。

天正十九(1591)年、出羽山形城の最上義光の訴えで繁長は秀吉の勘気を買い蟄居の身となり、城代春日元忠、大国但馬守が任じられた。慶長二(1598)年、上杉景勝の会津移封に伴い城主に村上周防守義明(頼勝)が任じられ、以降、近世村上城として整備された。

実質的には村上城そのものです。ここは村上氏入封前には、本庄氏の居城でした。本庄繁長は雄将として知られ、謙信の関東出陣時には上州の諸城の城代なども任されましたが、北条高広などと同じく、おだてられるとすぐ乗って反抗しちゃう人らしく、武田信玄の調略に乗せられて謙信に叛旗を揚げて攻め込まれたりもしています。山形県県境も近く、本庄氏は出羽庄内出陣時の先鋒でもありました。

あえて「村上城」と言わずに「本庄城」としたのは、ここが中世の本庄氏居城の居館跡だからです(近世村上城はこちらをどうぞ)。一般に知られている「村上城」は村上義明、堀氏入封後の近世城郭遺構で、山上の壮大な石塁群、西北方面に残る居館跡と城下町はすべて近世のものです。それに対して本庄城は、根小屋地域は近世村上城の裏側、東北方面にありました。ここは近世村上城における家臣団の屋敷地でもありました。現在は国道7号線沿いに立ち並ぶ郊外型大型店舗の裏山の藪の中に埋もれていますが、館跡、堀跡などは辛うじて残っています。虎口、門跡は藪が深く確認できませんでした。こっちも少しは整備してくれ。

何よりも、国道周辺の開発により、城址の遺構が失われていく事が心配です。

<再訪:2003年1月1日>

2003年元日の朝、越後の正月としては珍しいほどスカッと晴れ渡り、「こりゃ元日の村上城も映しておぐかぇ」とばかり、デジカメひとつ抱えて出陣しました。天守台には日の丸が掲揚されていました。で、石垣の写真をさんざん撮った後、なんとなくすんなり帰るのも勿体無いので、世間はお正月であるにもかかわらず「ていやぁぁぁぁ!」とばかり、道なき道に突入しました。この日は本丸埋門から真下に見える腰曲輪群に照準を当てて歩きました。その結果、腰曲輪群に井戸と、なんともカッコイイ長大な竪堀を発見しました。この竪堀は深さ3m、長さは100mにも及ぼうかという、実に豪快なものです。しかも、下草も木の葉っぱもない、スッパダカの長大竪堀は異様な迫力がありました。当然、あらかじめ決まっていたかの如く竪堀を降り始めました。山麓に出てまたビックリ、東南側の麓にはおびただしい曲輪、横堀、竪堀、土塁が交錯していました。竪堀には竪土塁までセットで付属しています。土塁と堀を組み合わせた食い違い虎口遺構なども見られます。また、豊富な湧水によって、山麓線は今でも膝までうずまる泥濘地となり、最外郭の堀にはその水を引き込んでいます。以前から、東側斜面に屋敷地があるのは知っていましたが、北東側の一部しか見ていませんでした。しかし、東南麓の遺構の方が遥かにスゴイです。この東側斜面は城下町・村上と山の反対側にあたり、近世にも若干の家臣団武家屋敷があったようですが、東南側の遺構はあきらかに手法が中世城郭のもの、まさに本庄氏時代の「本庄城」遺構です。

場所は国道七号線沿いの大型店舗が並ぶ裏手で、杉の植林地となっていて、「国指定史跡・村上城」の指定区域からは外れていますが、ここは絶対見ものです。冬でもそれなりにヤブなので、夏場は厳しいかもしれませんが、ここはオススメの場所です。東南部の遺構群は国道七号線沿いの大型店舗「アテーナ」附近から、因幡神社の参道を経て植林地に突入するルートが、東北部の遺構群は同じく国道七号線沿いに建つガソリンスタンド裏手から植林地に進入するルートが見学しやすいでしょう。

 

※中世本庄城の姿について考察してみました。「中世本庄城の姿を探る」の頁をご覧下さい。

村上(本庄)城概念図(平面・左)および低空鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します。

すべてはここから始まった。村上城本丸埋門下の腰曲輪群。この腰曲輪自体が、村上城の、というより、中世本庄城の遺構なのでしょう。 さてその腰曲輪群を進むと、素晴らしい竪堀が。深さは3m、全長は100mにも及ぼうかという竪堀が藪も落ち葉もないスッパダカの状態で。素晴らし過ぎる!
前記の竪堀の横には不明瞭ながらももう一つの竪堀の可能性がある窪みが。連続竪堀だった、とか? 上写真の竪堀を歩いて降りる。下から見上げてもスゴイ。
竪堀に平行して竪土塁があり、これは山麓で屈曲して通常の横方向の土塁になります。 東南側の山麓には中世城館の形態を残す多くの曲輪群があり、息を呑みます。
この土塁の切れ目が虎口。小さいながらも枡形構造をしています。明らかに近世に手を加えられていない、純然たる中世城郭遺構です。 ちょっとわかりにくいですが左写真の虎口を反対j方向から。左右は堀、中央の土橋を渡って左写真の土塁虎口に至ります。
東南側曲輪群の最高位の曲輪下には浅いながらも横堀があり、曲輪の塁壁をさらに高いものにしています。 虎口の土橋から見た横堀と土塁。
土橋の北側の堀は鋭い薬研の堀で、斜面を下って谷部に落ち込んでいきます。 左写真の堀の先は自然地形の谷部ですが、周囲を囲うように竪土塁があります。
東側山麓は冬でもスネまで埋まる湿地帯。豊富な湧水や雪解け水によって、天然の水堀となっていたでしょう。 因幡神社参道附近の堀。本庄城の外郭に当たるのでしょう。前述の豊富な湧水によって小さな流れになっています。もともとの天然地形に手を加えたものでしょう。
右上写真の外郭堀。最初は天然地形かとも思いましたが、高いところから見ると規則正しい折れを持っていることや、高い塁壁が存在することから、外郭の堀と判断しました。 こちらはやや北に離れた大山祇神社附近の削平地の虎口。削平地は広く高い場所にあるため城主居館とも比定されますが、この附近は近世村上城においても藩士屋敷などがおかれたため、断定はできません。
城主居館比定地附近には「村上城址」のコンクリの碑が。植林地になって忘れ去られたかと思いましたが、ここもお城の一部であることをひそかに主張しているかのようです。 北側に張り出した峰の上が出丸。笹が茂る藪になっていて、城郭遺構らしきものは見当たりません。近世村上城時代には放棄されていたでしょう。
近世三ノ丸から見下ろす東北側の竪堀。村上城の石垣修復用の資材運搬レールが敷設されています。 近世三ノ丸北西にも竪堀があります。こちらは明瞭です。これは近世の遺構というよりも、やはり中世本庄城の遺構と考える方が合理的でしょう。

 

交通アクセス

JR村上駅より徒歩30分(村上城井戸曲輪経由)。

日本海東北道「中条」IC車40分。

周辺地情報

とりあえず素直に村上城を見ていってください。こちらも素晴らしいです。
参考文献 「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

関連サイト

 

 
参考文献 「図説中世の越後」(大家健/野島出版)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)、「疾風 上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)、「日本の城 ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)
参考サイト  

 

埋もれた古城 表紙 上へ 復元本庄城