江戸湾を挟んだ宿敵の果てなき闘い

里見水軍の道を往く

 

 

千葉県富津市金谷

神奈川県横須賀市久里浜

 

東京湾フェリーの船上より久里浜を望む<<2002年08月10日>>

歴史

大永年間前後から、小田原城を本拠に武蔵・下総方面に侵出を目論む北条氏は古河公方・足利高基と連携を強め、対する上総・安房の武田氏、里見氏は小弓城で勢威を奮っていた小弓公方・足利義明と提携、北条氏とは江戸湾を挟んで何度も対峙した。

大永六(1526)年五月には、里見義豊・武田信保らは江戸城下の港湾都市、品川に侵攻、またこの年の十二月十日には、里見実堯は水軍を率いて三浦沖へ侵攻、城ヶ島沖での海戦の後、城ヶ島から三崎付近に上陸し三崎城新井城を攻略、十二月十五日に鎌倉に進軍し、北条の援軍と戦った。この際に鶴岡八幡宮は兵火にかかって焼失、のちに北条氏綱が十年の歳月をかけて再建した(大永鎌倉合戦)。ただし合戦の日時、勝敗、細部においては諸説あり史実ははっきりしない。総大将も里見実堯ではなく義豊であるとする説もある。

天文二(1533)年から翌年にかけての里見氏の内訌(天文の内乱)で里見氏を嗣いだ義堯は、北条氏綱の庇護を受けたこともあり一時北条に近づくが、やがて小弓公方の勢力に合力し北条氏との同盟を破棄、天文七(1538)年の第一次国府台合戦後の天文十三(1544)年には北条氏は水軍を立てて吉浜の妙本寺付近に上陸、さらに天文二十三(1554)年、玉縄城主の北条綱成は峰上城の吉原玄蕃助らの乱(房州大乱)に呼応して保田・吉浜付近に上陸、妙本寺砦に陣取り、妙本寺住職の日我は金谷城に逃れているが金谷城も放火され、日我が著した「いろは字」をはじめ寺伝の書物の多くを焼失した。この時は北条氏は里見氏の本拠である久留里城下まで侵攻した。

弘治二(1556)年の三浦・三崎海戦では、里見義堯の子・義弘を総大将に勝浦城の正木時忠、小糸城の秋元民部少輔ら兵船80余艘で三崎付近へ進撃、城ヶ島に陣取り、三崎城新井城などを攻めて、一時三浦四十郷を領有したと言われるが、この合戦についても日時や回数、勝敗、里見氏による三浦領有の真偽などについては異論がある。

里見氏と北条氏は度々相互の領土に侵攻を繰り返していたが、永禄十(1567)年の三船台合戦で一時北条氏は房総半島西南部から撤退した。しかし、天正四(1577)年、里見義弘は北条氏政と和睦した。

天正十八(1590)年の小田原の役で北条氏は滅亡、里見義康は豊臣秀吉軍に着いて三浦半島に上陸、鎌倉等に禁制を出したが、参陣の遅れと義康の禁制が「関東惣無事令」違反として咎められ、上総を没収された。

里見水軍の道」とはいうものの、別にそういうものがどこかにあるわけではなく、単に「東京湾フェリー」という船に乗っただけのことなのですが、いつもとちょっと趣向を変えて、その模様をレポートしたいと思います。

その前に、東京湾フェリーというモノを説明しましょう。内房総の「金谷」港から三浦半島の「久里浜」港までを35分で結ぶカーフェリーで、「かなや丸」「しらはま丸」「くりはま丸」の三隻が就航しています。僕が乗った「かなや丸」は排水量3580t、速力約7.2ノット(13km/h)、一般車なら約100台を積載する能力を持つ、なかなかの船でした。便数も片道20便ほどあり、日中は35-40分間隔で就航しているためなかなか利便性も良く、観光シーズンのみならず、日常でも結構使う人は多いらしいです。

で、これのどこが「里見水軍の道」なのかというと、まずこの金谷港自体が里見水軍の基地のひとつだったこと。そして里見水軍の向かう先は、約7km先の三浦半島、闘う相手は言わずと知れた宿敵・北条氏でした。そういうわけで、この東京湾フェリーの航路が当時の里見水軍の出撃路と「だいたい重なるだろう」という、実にアバウトな考え方で行ってきました。もちろん三浦半島の城もついでに見てきました。まあ神奈川方面に行くだけなら陸路の方が全然近いとは思いましたが、海の上からの明鐘岬&鋸山、金谷城をはじめとした里見水軍の基地の城々、近づいてくる三浦半島、そんな景色が見たかった、という、ただそれだけであります。

江戸湾における里見水軍の主要な基地は金谷城の北は竹岡港を有する造海城、南は安房国境を越えて勝山港の勝山城、さらに岡本城館山城と続き、また金谷城の南には、内房には数少ない広い砂浜が広がる保田・吉浜の浜と要害として取り立てられた妙本寺がありました。これらの港と城はその時の里見の勢力によって主力港が変化したりします。対する北条軍の水軍基地としては三崎城、城ヶ島、浦賀城などがあり、これらは「玉縄衆」として玉縄城の管轄下にあり、里見水軍と対峙しました。里見軍は「大永鎌倉合戦」や「城ヶ島沖海戦」「新井城侵攻戦」などで度々三浦半島に襲撃、一時は三浦半島南部を支配下に置いたりもしています(異説あり)。対する北条も妙本寺から金谷付近にかけて、あるいは椎津城下の姉崎港から上陸戦を繰り返し、久留里城包囲戦や房州大乱の手引き、三船台への侵攻など、こちらも度々里見領に侵攻を繰り返しました。どちらが勝ったか、等はその時々によってまちまちで、記録が少ないため個々の勝敗や合戦の経過などが不明な部分も少なくありません。前述の「大永鎌倉合戦」などのように、比較的規模の大きい軍事作戦のほかにも、記録に残らないような小競り合いは日常茶飯事だったと思われます。ごく大雑把に言えば、個々の局地戦では里見水軍の方が勝り、逆に大きな目で見た場合には北条水軍の方が戦略的に優位に立っていたと思います。前述の通り、直線距離はわずか7km程度で、風向きや潮流にもよりますが、当時は概ね3-4時間で行き来していたようです。

この日、8月10日は夏休み本番ということもあり、内房の道路はどこも海水浴渋滞。これを避けて早朝6:00過ぎに家を出たのですが、結局港に着いたのは9:00を過ぎていました。その割にフェリーはガラガラでしたけど。反対に途中ですれ違った久里浜からの船にはたくさんの人が乗っているのが見えました。洋上にいる時間はたった35分なので、ほとんどデッキ周辺で景色をみたり写真を撮ったりしていて、客室にもちょっと入っただけですが、なかなか快適で気持ちのいいクルージングでした。値段も「アクアライン」より800円ちょっと高いだけですし、人間だけなら片道たった500円ですから、ちょっとしたレジャーコースとして皆さんにもオススメしたいですね。

さて、それではそろそろ参りますか。「目指すは久里浜、永年の怨敵・北条を討たん!」。

まずは金谷港から金谷城と明鐘岬を見る。本日、天気晴朗なれども波高いのう。船は揺れぬのか?(注:この程度の波ではほとんど揺れません) これが今回乗り込む大安宅船、「かなや丸」。名前からして里見の船であるらしい。鉄馬100頭、兵員580名を積載、3,580tの優秀な船でござる。ほかに「しらはま丸」「くりはま丸」が就航しておるそうじゃ。鉄馬一頭とワシで3,880円じゃ。

いざ、乗船!目指すは宿敵・北条の港じゃ。はて、しかし、里見水軍に安宅船などあったかのう?(注:多分ありません) 出撃じゃ。無事に還ってこれるかのう?どんどん遠くなる金谷の港と明鐘岬。金谷城で在番の衆、しっかり留守番たのむぞ!

あれが目指す三浦半島じゃ。浦賀城三崎城の水軍の応戦を受けるやも知れぬ。ゆめ油断するまいぞ。

こちらは造海城方面、ここも我が里見水軍の重要拠点じゃ。安房岡本城と並んで、里見全盛の頃の主力水軍基地じゃな。しかし藪ばかりじゃが・・・。

こちらは妙本寺方面、明鐘岬より南はもう安房の国じゃ。妙本寺付近は北条の奴腹が何度も上陸しておる。石橋山合戦で敗れた頼朝公が逃れてきた龍島や、ちょいと霞んではおるが大房崎も見えるぞ。

左は富津岬、右は北条の奴腹が陣を布いた三船台じゃ。あの時は起死回生の一撃で北条を撃退してやったわい。

どんどん遠くなる鋸山。房総の山々はいつ見ても美しいのう。海の上から見るのもまた格別じゃ。この美しい山河を守るのもワシらの使命じゃ。

少々かすんではおるが姉崎湊方面じゃ。椎津城もかつては北条に占領されたこともあったのじゃが、今では我らが手に取り戻したわい。

こちらは怨敵・北条の領土である三浦半島。見る見る近づいてくる。さて、北条をどう料理してくれようか。ワシも武者震いがするわい。

おおっ、敵の舟か?と思いきや、「しらはま丸」であった。友軍の正木水軍か?

大安宅船の最上甲板じゃ。少々風は強いが心地好いぞ。前方の櫓では舵取りをやっておる。ここにはワシも入れん。

これは兵員がくつろぐ区画じゃ。大きな窓があって、180度のパノラマで敵を監視できるのじゃ。なかなか居心地のいい部屋じゃが、今日はあまり兵員がおらぬのう・・・。

こちらは鉄馬を繋ぐ厩じゃ。ほんとは100頭ほども繋いでおけるのじゃが、今日はワシの鉄馬を含めて10頭しかおらぬ。これで北条に勝てるのか?不安じゃのう。。。

久里浜はもうすぐそこ。これは「東京電力久里浜火力発電所」なるモノだそうじゃ。随分大きいのう。東京電力は関八州に電気を売っておる。ワシももちろん買っておる。

久里浜が近づくにつれ、北条の小早舟と見られる連中が群がり始めた。しかし我らが大安宅に恐れをなしたか、通り過ぎていくばかり。

「くりはま丸」、今度こそ正真正銘、北条の安宅船じゃ。火矢で応戦しようとしたが、我らには目もくれず金谷に向かった。あとは金谷城の在番衆に撃退してもらうより他はない!しかしあっちは兵の数が多いぞ・・・。

敵前上陸!いよいよ久里浜に入港じゃ。ワシも具足を付けて、鉄馬に乗って上陸のときを待つ。

いざ、上陸!このあとワシは北条の城を攻めに走ったのじゃが、放火・略奪・ポイ捨ては軍律違反じゃ。違反する者は斬る!

当然のことながら、船は天候次第で欠航もあり得ます。また、車での乗船には車検証が必要です。普通は車に積んでいると思うけど、念のため。

 

交通アクセス

金谷港:館山自動車道「木更津南」ICより車80分。JR内房線「浜金谷」駅徒歩5分。

久里浜港:横浜横須賀道路「佐原」IC車15分、JR横須賀線「久里浜」駅、京浜急行「京急久里浜」駅徒歩15分。

周辺地情報

金谷港のすぐそばには金谷城がありますがほぼ潰滅、造海城は藪。

久里浜港はすぐ近くに浦賀城があります。

関連サイト

東京湾フェリーのサイト。発着時刻、料金等を確認してください。

 
参考文献 『後北条氏の海上防備と浦支配』(下山治久/「千葉県の歴史13」千葉県企画部県民課)、「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」(川名 登/図書刊行会)、「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「さとみ物語」(館山市立博物館)、「房総里見水軍の研究」(千野原靖方/崙書房)、『つねに北条海賊を破った無敵里見水軍』(府馬清/「戦国の房総を語る」暁印書館)、ほか

参考サイト

余湖くんのホームページ

 

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