二度の国府台合戦と並んで、北条と里見のもうひとつの運命の決戦「三船山合戦」。北条の大軍は、この三船山に陣取り、佐貫城方面の里見勢と対峙しましたが、里見氏の乾坤一擲、というか、「窮鼠猫を食む」の逆転勝利で北条氏は上総南部から撤退します。この頃、里見氏の危機は相当に深刻で、永年同盟関係にあった勝浦正木氏、万木土岐氏が離反、池和田城や秋元城などの上総中央部、一時は本拠の久留里城まで北条に占領され、存亡の危機を迎えていました。第二次国府台合戦の敗北からその後、立ち直って徐々に勢力を回復した里見氏ですが、やはり危機にあったことは確かでしょう。その里見氏に引導を渡すべく、北条氏政が三万の大軍で陣取ったのがこの三船山です。しかし、正木大膳(後述)らの巧みな用兵により、北条軍は障子谷の深田で身動きが取れなくなり、死傷者2,500名という大敗を喫し、西上総からの撤退を余儀なくされました。もしこの時、北条が勝っていたら、里見氏は滅亡したかもしれません。房総半島にとって「その時歴史が動いた」瞬間でした。やっぱり、勝負は下駄を履くまでわからん、とか、勝って兜の緒を締めよ、じゃないですが、北条の一瞬の油断なんでしょうねえ。結局里見氏はこの戦いには勝ったものの、頼みの綱の上杉謙信が北条氏康と和睦、その後もたびたび上総を攻められて、終に里見義弘はこの北条氏との果てしない戦いに終止符を打ち、「相房和睦」に至ります。実質的には里見氏の「体力負け」でしょう。
ところで、この三船山合戦で活躍した「正木大膳」、従前は「槍大膳」の異名を持つ、後期里見氏随一の臣(というか同盟者)の正木時茂であるといわれてきましたが、この正木大膳は永禄四(1561)年に死亡しているらしいことがわかったそうです。(「新編房総戦国史」千野原靖方/崙書房、「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」川名 登/図書刊行会 等)ということはこの「正木大膳」はのちに大多喜城で暗殺される正木憲時だったのでしょうか。それとも軍記物の粉飾なのでしょうか。
また、この戦いでは、あの岩槻城主、父・太田三楽斎資正を追って北条に寝返った太田氏資が戦死しています。小田原城にたまたま伺候した氏資は、北条氏政に挑発され、わずか52名の士卒を従えてろくに仕度もできぬまま渡海、混戦の中で殿軍を務め、主従ともに討ち死にします。この後、岩槻城と岩槻太田氏は北条氏政の弟、氏房が嗣ぎ、実質的に北条氏の直轄となります。まあ、利用されるだけ利用されて捨てられたというか、犬死にというか、太田氏にとっても悔やみきれない戦になりました。この息子の氏資に岩槻城を追われて、佐竹氏の客将として片野城にいた父・三楽斎資正はこの悲報を、どんな思いで聞いたのでしょうか。
その三船山は富津市と君津市を隔てる東西に長い緩やかな山で、ソメイヨシノが多数植林され、いまでは絶好のハイキングコースになっていました。堀切などもあるらしい、ということでしたが、特に人工的なものはこのハイキングコース以外、見当たりませんでした。もっとも、NTTの中継施設がある尾根の方には行っていませんので、こちらの方に何か遺構があるのかもしれません。富津方面への眺望もこの中継施設寄りの尾根の方がいいはずで、ハイキングコース歩くより、こっちを目指した方が良かったのかも。山頂はなだらかな平場が広がっていて、なるほど大軍の着陣には適している感じがしました。富津市方面も見えるともっと良かったんですけどね。