・・・・・・(呆然)。
里見氏の歴史にとっても、房総の歴史にとっても、非常に重要な場所であったと思うのですが、現状は「無残」の一言です。二郭付近は某保険組合のスポーツセンター建設で見る影も無く地形が改変され、城の南側斜面は土取りでざっくりと山体がえぐられ、唯一残った主郭周辺には到達する手段なし・・・。いや、そのスポーツセンター奥に通路があるのだが、カギが掛かっていて入れない。そのスポーツセンター敷地内には、石組みを伴った「四脚門」が発掘されたことが「すべて分かる戦国大名里見氏の歴史」などに写真付きで出ていて、せめてそれだけでも、と思ったが、なんとそれも埋め戻し、といえば聞こえは良いが、要するに破壊されてしまったらしい。
この時は実に腹が立ち、プンプンした文章を書いてしまったものです。しかし、もともとスポーツセンターが建つ前からレジャー施設や土採りでだいぶ荒らされていたらしいので、今更この施設を責める気はありません。
ただ、自分のスタンスとしては「すべて残せ」とは言わない、でも、どういう基準かは人それぞれかもしれないけれども、ここは「残すべき史跡」であったような気がします。そして、今でも柵に囲まれて入れない場所には、多少なりとも遺構があるはずなのです。せめてこれを大切にして欲しい、ということと、なんらかの形でこの施設関係者以外の、一般の見学者にも観る機会を与えて欲しい、と願うばかりなのです。そして、この金谷城をはじめ、失われてはいけないものを失ってしまった過ちを繰り返さないことを、未来に祈るばかりです。
この金谷城は上記の「歴史」で記したように、多彩な歴史に彩られています。「天文の内乱」、「房州逆乱」、そして里見水軍の基地としての役割。そんななかでちょっと興味を引いたのは「房州逆乱」のときのエピソード。この当時、妙本寺の住職・日我は戦乱を避けてこの金谷城に寺宝や、自分が編纂していた「いろは辞典」などなどを山ほど疎開させていたのですが、なんとこの金谷城が焼かれてしまったのです。そして日我の大切な家財一色、苦心して編纂をかさねた「いろは辞典」も灰燼に・・・。日我という人は里見義堯と歳もひとつ違いで、僧であると同時に義堯のブレーンでもあり、心おきなく話せる友でもあったようです。
「すまぬ、日我よ。貴僧の寺宝や書物を守れなんだのは、わしの力不足であった。許されよ。」
「義堯殿、焼けてしまったものを悔やんでも詮無き事、すべては御仏の思し召すところにござろうて。」
「しかし、いろは辞典は貴僧の苦心の作であったであろう。わしは貴僧に顔向けが出来ぬ。」
「何を申されるか。殿は関八州を斬り従える器量を持った当代稀なる英傑でござる。経典、書物はまた書けばいいのでござる。拙僧のことなど、ささいなこと、それよりも殿は、必ずや北条を倒し、失われた領地を取り戻すことこそお考え下され。」
明鐘岬を見上げながら、そんな会話が交わされていたかもしれません。日我はその後、勝山城沖の浮島などを転々としながら難を逃れたそうです。
【再訪:2003.09.27】
その後、「奥州城壁癖」の稲用さんから、「四脚門跡は埋め戻されているが、模擬礎石のようなものが置かれ、解説板も設置してある」という情報を頂いていました。この日、「安房里見氏と青岳尼ツアー」で訪れたソレガシたちは、このスポーツセンターにダメもとで見学を申し入れると、快く応諾を頂きました。この四脚門は二ノ丸の虎口にあたり、もともとは金山城の東虎口にも似た岩盤掘削の技法が見られる本格的なもので、「四脚門」と呼ばれるところからわかるように、四本の柱の柱穴が確認されています。ここは現在、建物の裏手、パターゴルフ場の脇になっていまして、頂いた情報の通り、模擬の礎石と解説板が設置されていました。情報を頂いた稲用様、見学許可を頂いたスポーツセンターの方に改めて御礼申し上げます。
また、その後で行った鋸山からは、高いところから見た金谷城の姿を見ることができました。南側は無残にも土採りで山体が崩壊し、辛うじて尾根附近が残っている様子がよくわかりました。でもこれじゃ危険すぎて、尾根附近が立ち入り禁止なのも納得せざるを得ませんな・・・。