失われた里見氏政権交代劇の舞台

金谷城

かなやじょう Kanaya-Jo

別名:明鐘城

千葉県富津市金谷

城の種別

山城(海城)

築城時期

不明

築城者

不明

主要城主

 里見実堯、正木時忠、正木淡路守

遺構

不明

鋸山より金谷城と金谷港、対岸の三浦半島を<<2003年09月27日>>

歴史

天文二(1533)年から翌年にかけての里見家の内訌(天文の内乱)直前の段階で、里見実堯が在城していたと見られる。伝承や軍記物では久留里城在城となっているが、金谷城であった可能性が最も高い。実堯は当時、正木氏と組んで海上に勢力を伸ばしていたが、当主である里見義豊に誅殺されたことから、里見氏を二分する内乱となった。実堯の嫡男・義堯は造海城に立て籠って北条氏の援軍を得た上、妙本寺の合戦、滝田城周辺の犬掛での合戦で勝利して義豊を討ち、前期里見氏は滅亡し、義堯から始まる後期里見氏の流れが誕生した。

一時期、勝浦正木氏の属城となったが、北条氏と手切れの後はたびたび北条氏の侵攻を受けた。北条氏康が天文二十二(1553)年、北郡の正木兵部太輔、峰上城の吉原玄蕃助ら峰上二十二人衆を手引きして安房・西上総に内乱を起こさせた(房州逆乱)際に、北条綱成が妙本寺付近に上陸し、妙本寺住職・日我は金谷城に避難している。金谷城は天文二十四(1555)年落城し、その後は内房正木氏の正木淡路守の属城になった。内房正木氏はこの頃、里見に帰順している。金谷城周辺の支配権を勝浦正木氏から譲渡される条件であったらしい。

天正五(1577)年、里見義弘が北条氏と講和してからは造海城が主たる拠点となり、廃城になったと思われる。

・・・・・・(呆然)。
里見氏の歴史にとっても、房総の歴史にとっても、非常に重要な場所であったと思うのですが、現状は「無残」の一言です。二郭付近は某保険組合のスポーツセンター建設で見る影も無く地形が改変され、城の南側斜面は土取りでざっくりと山体がえぐられ、唯一残った主郭周辺には到達する手段なし・・・。いや、そのスポーツセンター奥に通路があるのだが、カギが掛かっていて入れない。そのスポーツセンター敷地内には、石組みを伴った「四脚門」が発掘されたことが「すべて分かる戦国大名里見氏の歴史」などに写真付きで出ていて、せめてそれだけでも、と思ったが、なんとそれも埋め戻し、といえば聞こえは良いが、要するに破壊されてしまったらしい。

この時は実に腹が立ち、プンプンした文章を書いてしまったものです。しかし、もともとスポーツセンターが建つ前からレジャー施設や土採りでだいぶ荒らされていたらしいので、今更この施設を責める気はありません。

ただ、自分のスタンスとしては「すべて残せ」とは言わない、でも、どういう基準かは人それぞれかもしれないけれども、ここは「残すべき史跡」であったような気がします。そして、今でも柵に囲まれて入れない場所には、多少なりとも遺構があるはずなのです。せめてこれを大切にして欲しい、ということと、なんらかの形でこの施設関係者以外の、一般の見学者にも観る機会を与えて欲しい、と願うばかりなのです。そして、この金谷城をはじめ、失われてはいけないものを失ってしまった過ちを繰り返さないことを、未来に祈るばかりです。

この金谷城は上記の「歴史」で記したように、多彩な歴史に彩られています。「天文の内乱」、「房州逆乱」、そして里見水軍の基地としての役割。そんななかでちょっと興味を引いたのは「房州逆乱」のときのエピソード。この当時、妙本寺の住職・日我は戦乱を避けてこの金谷城に寺宝や、自分が編纂していた「いろは辞典」などなどを山ほど疎開させていたのですが、なんとこの金谷城が焼かれてしまったのです。そして日我の大切な家財一色、苦心して編纂をかさねた「いろは辞典」も灰燼に・・・。日我という人は里見義堯と歳もひとつ違いで、僧であると同時に義堯のブレーンでもあり、心おきなく話せる友でもあったようです。

「すまぬ、日我よ。貴僧の寺宝や書物を守れなんだのは、わしの力不足であった。許されよ。」

「義堯殿、焼けてしまったものを悔やんでも詮無き事、すべては御仏の思し召すところにござろうて。」

「しかし、いろは辞典は貴僧の苦心の作であったであろう。わしは貴僧に顔向けが出来ぬ。」

「何を申されるか。殿は関八州を斬り従える器量を持った当代稀なる英傑でござる。経典、書物はまた書けばいいのでござる。拙僧のことなど、ささいなこと、それよりも殿は、必ずや北条を倒し、失われた領地を取り戻すことこそお考え下され。」

明鐘岬を見上げながら、そんな会話が交わされていたかもしれません。日我はその後、勝山城沖の浮島などを転々としながら難を逃れたそうです。

【再訪:2003.09.27】

その後、「奥州城壁癖」の稲用さんから、「四脚門跡は埋め戻されているが、模擬礎石のようなものが置かれ、解説板も設置してある」という情報を頂いていました。この日、「安房里見氏と青岳尼ツアー」で訪れたソレガシたちは、このスポーツセンターにダメもとで見学を申し入れると、快く応諾を頂きました。この四脚門は二ノ丸の虎口にあたり、もともとは金山城の東虎口にも似た岩盤掘削の技法が見られる本格的なもので、「四脚門」と呼ばれるところからわかるように、四本の柱の柱穴が確認されています。ここは現在、建物の裏手、パターゴルフ場の脇になっていまして、頂いた情報の通り、模擬の礎石と解説板が設置されていました。情報を頂いた稲用様、見学許可を頂いたスポーツセンターの方に改めて御礼申し上げます。

また、その後で行った鋸山からは、高いところから見た金谷城の姿を見ることができました。南側は無残にも土採りで山体が崩壊し、辛うじて尾根附近が残っている様子がよくわかりました。でもこれじゃ危険すぎて、尾根附近が立ち入り禁止なのも納得せざるを得ませんな・・・。

「東京湾フェリー」から見る鋸山。ソレガシが勝手に「これこそが房総の景色」と思っている、美しい山です。ここが上総・安房の国境にあたります。 荒波打ち寄せる金谷港より。鋸山の麓、海に突き出た明鐘岬の北側の小山が金谷城。背後の岬の向こうはもう安房です。

金谷港より対岸の三浦半島。現代の安宅船・東京湾フェリーは対岸の久里浜とわずか35分で連絡しています。

二ノ丸以下は諸々の施設でほぼ湮滅。この時はがっかり、というより、かなりカッカカッカしてましたね。

金谷城より見る金谷港の美しい景色。静かな漁村ですが、今も三浦半島との間をフェリーで結ぶ重要拠点、海の玄関口であり続けています。 金谷港に面したこの細長い谷津がかつての根古屋に該当する部分ですが、ここは改変が激しく、どのような風景であったか、想像するしかありません。

施設の受付にお願いして見せてもらった二ノ丸虎口、四脚門跡。現在は埋め戻されています。いずれ、日の目を見ることもありましょう、何十年後か、何百年後かに・・・。 この階段の先は本丸方面、尾根の方に向かっているはずなのですが、施錠されていて通れません。残念だけど、危ないからなあ・・・。

いつもはボケーっと見上げるだけだった鋸山とロープウェイ。ついに頂上まで行ってきました。 これが鋸山山頂駅附近からの金谷城と金谷港。山の半分がざっくり削られているのがわかります。これじゃ尾根を歩くのは危なすぎて無理かも・・・。

まぢめな話、里見氏の上総侵攻、北条氏の房総半島侵攻などに大きな位置を占めたこの城は要害であると同時に、三浦半島方面への絶好の物見でもあり、また内房に2-5km間隔で点々と存在する港を守る防衛施設としても、非常に重要な城ですね。だからこそ、史跡を壊すのではなく「活用」してほしかった。それが惜しまれてなりません。ところで鋸山には城郭関連施設はなかったんでしょうか??

【補足】

金谷港から久里浜港までの「東京湾フェリー」に乗ってきました。「里見水軍の道を往く」の項をご覧下さい。また、金谷城、鋸山をはじめとした南房総のオフ会の模様は「安房里見氏と青岳尼ツアー」の報告頁でぜひご覧ください。鋸山からのパノラマ写真もありますよ。

 

 

交通アクセス

館山自動車道「君津」ICより車40分。久里浜港よりフェリー35分。

JR内房線「浜金谷」駅徒歩10分。

周辺地情報

距離的に近いのは造海城、遺構は多いが藪だらけです。見所が多いのは佐貫城岡本城など。里見ファンなら妙本寺砦もオススメ。

関連サイト

 

 
参考文献

「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」 ( 川名 登・編/国書刊行会)

「さとみ物語」(館山市立博物館)

「房総の古城址めぐり(上)」(府馬清/有峰書店新社)

「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)

「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)

「房総里見水軍の研究」( 千野原靖方/崙書房)ほか

参考サイト

余湖くんのホームページ

埋もれた古城 表紙 上へ