相模の名族・三浦氏。鎌倉幕府創設前夜に多大な貢献がありながらも、三浦義明は相模衣笠城で壮絶な最期を遂げ、残った一族は鎌倉幕府有力御家人として再興するも「宝治合戦」で敗れて断絶、さらに再々興されながらも、押し寄せる戦国の動乱のなかで養子の入道道寸(義同)は養父の時高を討ち、その道寸も伊勢新九郎、そう、あの北条早雲に討たれ、この新井城で最期を遂げます。
討つものも討たるゝものもかはらけよ 砕けて後はもとの土くれ
波瀾に満ちた己の人生への無常観なのか、勝てなかった己への自嘲なのか、何となくヤケクソ気味な雰囲気の漂う辞世の句です。ともあれ、相模に君臨した名族三浦氏はここに滅亡、早雲は晩年間近にして相模一国を手中にし、来るべき戦国大名の時代、「国盗り」の時代への扉を開きます。この後、早雲は上総茂原へ出兵し真名城を攻めた記録がありますが、高齢の本人が参陣したかどうかは疑問ですし、いずれにせよ早雲にとって大きな闘いはこの新井城攻略戦が生涯の締めくくりになったと見ていいでしょう。その後の北条氏五代百年の繁栄は皆さんもよくご存知のところです。それにしても、三年もの間、新井城を囲みつづけてひたすら時を待った早雲、そして最後の最後まで抵抗を続けた三浦道寸、どちらも凄まじいまでの執念ではないですか!「死べき所にて死ざれば後代の恥辱たり」。道寸も、その道寸に最後までつき従った城兵も、ここを先途とばかりに討って出て、文字通り「かわらけ(土器)」の如く砕け散り、油壺湾に消えてゆきました。この闘いで命を落とした城兵の血で海が赤く染まり、あたかも油を流したように見えたことから「油壺」の名が付いたと言われています。
その後の新井城は、城代が置かれ、玉縄城の管轄下での水軍基地のひとつであったようですが、次第に第一線の水軍基地としての役割は、里見水軍と直接対峙する三浦半島の先端部、三崎城、浦賀城に移っていったようです。弘治年間には里見水軍の来襲を受け、一時この新井城も占拠されていたようです(「里見水軍の道を往く」の項参照)。
現在の城跡には東大地震観測所、東大臨海実験所などの施設や、油壺マリンパークをはじめとしたマリンレジャー施設、旅館などが建ち並んでいて、そこに城があったことを思わせてくれるものはごくわずかです。ただ有名な「引き橋(内の引き橋)」付近には、思ったよりはっきりと堀切の跡が認められ、この半島台地がそこだけ非常に狭まっているのがよくわかりました。その他、断片的ではありますが土塁や堀切などの残欠が認められます。まあ細かい遺構を云々しても始まらないので、海城としての地形を感じながら当時の姿を思い浮かべてみるのがいいでしょう。
ところで、このあたりは関東大震災の際にかなり隆起しているらしく、地形は結構変わっているらしいです。それでも三方を海と断崖に囲まれた、天嶮の地であることは充分に感じられます。驚いたのはたまたま見つけた「引き橋」。これは城のそばにある「内の引き橋」ではなく、3kmも離れた所にあるもので、地名・交差点名にもなっています。この引き橋がいわゆる大手口にあたるようですが、いわゆる「惣構え」みたいな大掛かりなものがあったとは考えられません。今はなかなか想像するのが難しいのですが、前述の地震による隆起以前はどうやらその引き橋付近が、油壺方面への唯一の陸路であったらしく、両側から崖が迫った丘陵の狭い尾根を断ち切って、台地全体を防衛していたようです。