砕けて後はもとの土くれ

新井城

あらいじょう Arai-Jo

別名:

神奈川県三浦市三崎町小網代

城の種別

平山城(海城)

築城時期

不明 

築城者

三浦氏

主要城主

三浦氏、北条氏

遺構

曲輪、堀切、土塁

油壺湾から見上げる新井城<<2002年08月10日>>

歴史

築城時期は不明だが、宝治元(1247)年に鎌倉幕府執権・北条時頼が三浦一族を滅ぼした「宝治合戦」で、三浦氏一族でありながら時頼に加勢した佐原盛時が三浦介を嗣ぎ、三浦半島南部を領有したが、その頃の居城であるとの説がある。

三浦時高は実子に恵まれず、扇谷上杉定正の兄・高救の子を養子として迎え、この養子は義同と名乗った。しかし時高に晩年実子・高教が生まれると時高と義同の関係が悪化、義同は一時、小田原城の大森氏を頼って相模国足柄総世寺に遁世し道寸と号した。しかし、義同の武勇を慕う三浦家の家臣団に擁立され、明応三(1494)年、義同は養父の時高を新井城に攻め滅ぼし、本人は岡崎城を居城とし、新井城には嫡子の義意を置いた。しかし近年、この闘いは史実ではないとの説が有力である。

この頃、伊豆の韮山城に本拠を置く伊勢新九郎(北条早雲)は大森藤頼の小田原城を急襲しこれを奪取した。山内・扇谷両上杉氏は対立を続けていたが、早雲に対抗するため永正二(1505)年に和睦した。早雲は一旦は両上杉と和睦するが、永正九(1512)年八月、古河公方家・山内上杉家の内紛に乗じて和睦を破棄、扇谷上杉氏方で相模における最大勢力であった三浦義同の岡崎城を急襲しこれを奪取した。義同は岡崎城から逃れ住吉城に立て籠るがこれも陥とされ、義同らは新井城、三崎城に立て籠った。早雲は力攻めでは陥とすことができないと考え、翌永正十(1513)年十月に三浦半島の付け根に玉縄城を築き次男の氏時を城主に任じ、糧道を断つ作戦に出た。永正十三(1516)年、扇谷上杉朝興は三浦義同救援のために派兵したが、早雲は新井城の押さえに二千騎を残し、玉縄城北方に四、五千騎を陣取らせて上杉朝興に対峙させた。この結果、上杉氏は新井城の三浦義同・義意父子の救援に失敗、道寸は家臣の大森越後守、佐保田河内守らから上総に逃れ再起を図ることを進言されるがこれを拒否、城門を開いて討って出、新井城は陥落、義同・義意は自刃し三浦氏は滅亡、相模一国は北条氏の手中に落ちた。

北条氏傘下においては玉縄城の管轄下で「玉縄衆」に組み入れられ、城代として横井氏らが配置された。弘治二(1556)年には里見水軍が三浦半島に来襲、東条六郎、木曽又五郎らの活躍により里見軍は三浦四十郷を占拠、新井城を修復し城代に里見右京を置いたと「房総軍記」に記述があるが、合戦ならびに三浦半島の占拠については史実は定かではない。

相模の名族・三浦氏。鎌倉幕府創設前夜に多大な貢献がありながらも、三浦義明は相模衣笠城で壮絶な最期を遂げ、残った一族は鎌倉幕府有力御家人として再興するも「宝治合戦」で敗れて断絶、さらに再々興されながらも、押し寄せる戦国の動乱のなかで養子の入道道寸(義同)は養父の時高を討ち、その道寸も伊勢新九郎、そう、あの北条早雲に討たれ、この新井城で最期を遂げます。

討つものも討たるゝものもかはらけよ 砕けて後はもとの土くれ

波瀾に満ちた己の人生への無常観なのか、勝てなかった己への自嘲なのか、何となくヤケクソ気味な雰囲気の漂う辞世の句です。ともあれ、相模に君臨した名族三浦氏はここに滅亡、早雲は晩年間近にして相模一国を手中にし、来るべき戦国大名の時代、「国盗り」の時代への扉を開きます。この後、早雲は上総茂原へ出兵し真名城を攻めた記録がありますが、高齢の本人が参陣したかどうかは疑問ですし、いずれにせよ早雲にとって大きな闘いはこの新井城攻略戦が生涯の締めくくりになったと見ていいでしょう。その後の北条氏五代百年の繁栄は皆さんもよくご存知のところです。それにしても、三年もの間、新井城を囲みつづけてひたすら時を待った早雲、そして最後の最後まで抵抗を続けた三浦道寸、どちらも凄まじいまでの執念ではないですか!「死べき所にて死ざれば後代の恥辱たり」。道寸も、その道寸に最後までつき従った城兵も、ここを先途とばかりに討って出て、文字通り「かわらけ(土器)」の如く砕け散り、油壺湾に消えてゆきました。この闘いで命を落とした城兵の血で海が赤く染まり、あたかも油を流したように見えたことから「油壺」の名が付いたと言われています。

その後の新井城は、城代が置かれ、玉縄城の管轄下での水軍基地のひとつであったようですが、次第に第一線の水軍基地としての役割は、里見水軍と直接対峙する三浦半島の先端部、三崎城浦賀城に移っていったようです。弘治年間には里見水軍の来襲を受け、一時この新井城も占拠されていたようです(「里見水軍の道を往く」の項参照)。

現在の城跡には東大地震観測所、東大臨海実験所などの施設や、油壺マリンパークをはじめとしたマリンレジャー施設、旅館などが建ち並んでいて、そこに城があったことを思わせてくれるものはごくわずかです。ただ有名な「引き橋(内の引き橋)」付近には、思ったよりはっきりと堀切の跡が認められ、この半島台地がそこだけ非常に狭まっているのがよくわかりました。その他、断片的ではありますが土塁や堀切などの残欠が認められます。まあ細かい遺構を云々しても始まらないので、海城としての地形を感じながら当時の姿を思い浮かべてみるのがいいでしょう。

ところで、このあたりは関東大震災の際にかなり隆起しているらしく、地形は結構変わっているらしいです。それでも三方を海と断崖に囲まれた、天嶮の地であることは充分に感じられます。驚いたのはたまたま見つけた「引き橋」。これは城のそばにある「内の引き橋」ではなく、3kmも離れた所にあるもので、地名・交差点名にもなっています。この引き橋がいわゆる大手口にあたるようですが、いわゆる「惣構え」みたいな大掛かりなものがあったとは考えられません。今はなかなか想像するのが難しいのですが、前述の地震による隆起以前はどうやらその引き橋付近が、油壺方面への唯一の陸路であったらしく、両側から崖が迫った丘陵の狭い尾根を断ち切って、台地全体を防衛していたようです。

油壺湾から見上げる新井城。三方を海と断崖に囲まれた堅城でした。三浦道寸は三年にも及ぶ籠城戦を戦い抜き、「犬死せんより命の限の戦して弓矢の義を専らにすべし」と討って出て、壮絶な自刃を遂げました。 かつて城兵の血で染まり、あたかも油を流したように光っていたことから名づけられたと言う油壺湾。今はもう凄惨な過去を忘れたかのように、平和なヨットハーバーになっていました。
「内の引き橋」。城内主要部への唯一の虎口にあたります。深い堀切にその名の通り曳き橋が架かっていました。 引き橋の下にはかつての堀切が意外によく残っていました。新井城と背後の台地を断ち切って、早雲の軍勢と三年間に渡って対峙した最前線です。
油壺湾に臨むハイキングコース脇に残る土塁。主郭方面は東大地震観測所、東大臨海実験所などになっていて、立ち入りはできません。 ハイキングコース脇に残る主郭の空堀。写真は失敗ですが、意外によく残っています。立ち入り禁止なのが残念。

荒井浜に面した小高い場所。かつての物見であっただろう雰囲気が伝わります。このフェンスのところも堀切だったかも知れません。

城内の大部分を占める油壺マリンパーク。はっきり言ってここは夏は城を見に来る場所じゃないです。

横堀海岸と胴網海岸の間、小網代湾に面した小高い場所にある三浦道寸の墓。波瀾に満ちた生涯を終えてここに眠る。

その道寸の墓の横には大きな堀切が。「横堀海岸」という地名もこの堀に因んでいるのかも?

小網代湾に面した横堀海岸。「内の引き橋」から北側に下ります。周囲はマリンレジャーの人ばかり。カメラをぶら下げて城を見て喜んでるのは僕くらいでしょう。はっきり言って不審者そのものでした(^^;) 新井城から3kmも離れたところにある「引き橋」。新井城の、というより、この台地全体の大手口にあたります。ここを断ち切ってしまえば、陸路での侵入は不可能だったみたいです。
内の引き橋から検潮所のある油壺湾岸に降りた場所、撮影には絶好のポイントなんですが、ものすごいフナムシの大群。このテの小動物が嫌いな方はここはやめておいた方がいいかも。それにしても、マリンレジャーで賑う真夏の油壺、はっきり言ってカメラをぶら下げて城を見て廻るのはなんとなく不審者っぽくて居心地悪かったですね〜。別に悪いことしてるわけじゃないけど、そそくさと退散。

 

交通アクセス

横浜横須賀道路「佐原」IC車30分。

京浜急行線「三崎口」駅よりバス?または徒歩60分。

周辺地情報

あまり遺構はありませんが三崎城が近い。

関連サイト

特別編に掲載した「里見水軍の道を往く」の項もご覧下さい。

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、「房総里見水軍の研究」(千野原靖方/崙書房)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、現地解説板

参考サイト

北条五代の部屋

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