築城時期等の詳細は不明だが、永正十(1513)年の足利政氏書状に「於三崎要害励戦功」とあることから、戦国時代に新井城の支城として三浦氏により築城されたものと見られる。永正十三(1516)年、北条早雲の攻撃により三浦道寸(義同)の立て籠る新井城が陥落し、道寸・義意父子が自刃して三浦氏が滅亡すると、相次いで三崎城も落城し、残った城兵は城ヶ島に立て籠って抵抗したという。
北条氏の支配下では、玉縄城の北条左衛門大夫綱成の配下で「玉縄衆」に組み入れられ、三崎海賊衆を傘下に取り込み、横井越前守らを城代に、船手大将の梶原備前守、出口五郎左衛門尉ら三崎十人衆を配して対岸の里見水軍と対峙した。
弘治二(1556)年十月、里見義堯の嫡男・義弘を総大将として里見水軍の兵船八十艘が城ヶ島に上陸、北条軍は三崎城に清水上野介、梶原備前守、出口五郎左衛門尉らを配置、援軍に金子兵部少輔、富永三郎左衛門、遠山丹波守らが参陣して海戦となった。合戦の帰趨は諸書によってまちまちだが、里見水軍優勢で、三崎城、新井城が里見氏に占拠され、三浦四十郷を領有したとされる(三崎・三浦海戦)。
その後は北条氏政の弟、氏規が城主となった。氏規は外交に長け、天正十(1582)年の本能寺の変後は旧武田領の領有をめぐり徳川家康と対立した際に外交交渉を担当、のちの人脈を作った。天正十六(1588)年八月、氏規は関白豊臣秀吉に謁見のために上洛、豊臣氏と北条氏の仲が緊張状態にあっても和平派を貫いたが、北条氏政ら主戦派に押し切られ天正十八(1590)年開戦、氏規は伊豆韮山城に籠城したが、徳川家康の説得で降伏・開城し、小田原城開城のために奔走し、のちに河内に二千石を与えられ近世狭山藩の基礎を作った。三崎城は氏規家老の山中氏が在番していたが降伏開城した。
徳川家康の関東入封後は、天正十(1582)年に滅亡した武田氏の水軍(武田水軍)から徳川氏に仕えた向井水軍の将、向井正綱の屋敷となった。その後、江戸幕府の下では三崎一帯は天領となった。