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小糸川対岸から、鹿野山を背後に控えた秋元城。見た目は小城ですが、地形は天嶮そのものでした。南には粟倉砦があります。 |
北側から見る秋元城。どこから見ても貧弱そうな丘にしか見えないのですが、これがなかなかスゴイお城なのですよ! |
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昭和三十六年、秋元氏の子孫である秋元順朝氏建立の顕彰碑。登城路そばのバス停付近に建ちます。遠い祖先を慕い敬う美しさに思わず目頭が・・・。 |
三ノ丸ぶあたる「根古屋」([曲輪)。数段の段差がありますが、後世に農地として転用されていた名残でしょう。 |
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「根古屋」に建つ石碑は、後で地元の方に聞いたところによると「人柱おげん」を祀った青鬼大神(このお城の別名にもなっている)だそうです。もともとは大手口方面にあったものを、昭和の耕地整理で移されたとのことでした。 |
谷戸部を縄張りに取り込んだZ曲輪「千駄蔵」。千駄蔵とは食料庫のことでしょう。周囲の尾根も周到に垂直削崖が施されています。 |
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大手道の途上にある虎口B。こうした小規模な切通し虎口が数箇所にあります。見学路は綺麗に下草が刈られて歩きやすい。 |
虎口Bの北側の谷部。図では崩落崖のように描いたものの、岩盤には削崖が施されているようにも見え、堀であったかもしれません。 |
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思わずビックリの巨大堀切1(虎口C)。周囲はほぼ垂直に削崖されています。この堀切は切通し虎口を兼ねています。 |
千駄蔵より続く谷戸。谷戸まで綺麗に伐採されていて、地形を掴む上では有難いです。なんといってもこのお城は谷戸をうまく縄張りに取り込んでいるのですから! |
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出丸風のW曲輪へと向かう虎口。削り残し土塁による食い違い虎口となっています。この程度の小曲輪でこれほど厳重な虎口はこの辺りではちょっと珍しい。 |
そのW曲輪には稲荷社・金毘羅社が祀られています。ここは大手道を頭上から監視する目的の曲輪でしょう。 |
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主郭へのアプローチとなる堀切2から虎口Dへのコース。堀切の断面に切通し虎口が開く、ちょっと珍しい構造。 |
虎口Dは切通しを上がると、三方を土塁に囲まれた枡形風の空間に出ます。完全な枡形ではないですが、やはりこの地方にはやや珍しい構造といえます。 |
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城内最大の曲輪、通称「千畳」(U曲輪)から見た本丸の「西向三段」はじめは土塁かと思いましたが近づいてみると三段に削平された曲輪でした。 |
「西向三段」より見る千畳。城内で最も枢要な曲輪とみていいでしょう。ここでは発掘調査も行われています。 |
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西側から見た西向三段。実際には一番下段の「御殿」を含めて5段ほどあります。 |
主郭であるTa曲輪の山腹斜面側には垂直に切り立つ土塁。掻き揚げではなく、削平時に削り残したものでしょう。この向こう側はほぼ垂直な崖です。 |
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土塁の崩れた箇所から主郭直下の垂直削崖を見下ろす。ここの土塁の崩れのおかげで、下まで降りることができます(急斜面ですが)。 |
下から見上げる主郭周囲の垂直削崖。高いところで10m、平均5mくらいかな。しかし、テカテカするほど磨き上げられた削崖は人間の力では絶対に登れない。 |
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主郭から見る鹿野山。このお城は鹿野山からは丸見えの位置にありますが、あんまりそれは気にしていないような感じがします。 |
主郭崖下の見事な横堀6。機能的には尾根を断ち切る堀切、というよりは緩斜面を分断する横堀でしょう。 |
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横堀6の中に開口する虎口E。岩盤の切通し虎口で、一部石積みらしきものもあります。ここはYの曲輪群への通路となるものでしょう。 |
南側の幅1mもない細尾根から崖を覗く。落ちたらもう、あの世直行便のファーストクラスにすぐ乗れるでしょう(−−) |
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一応堀切と見た堀3とそこに架かる土橋。ここからは鹿野山に向けての尾根となります。 |
尾根上に削り残された土塁。この手の削り残し土塁(一部掻き揚げ)としてはかなり規模が大きい。しかし向こうは崖なのになぜここに土塁が? |
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山城の生命線である井戸。このお城には谷戸を利用した池もあり、水の手には困らなかったかもしれません。 |
鹿野山への尾根上にある、一段高いV曲輪。尾根伝いの敵を監視迎撃する物見・櫓台と推定。ここにも尾根土塁と、八幡社の小さな祠があります。 |
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尾根をぶった切る巨大堀切4。大きすぎてカメラに入らない。 |
ロープにつかまりながら撮影した堀8の岩盤畝堀。ここはスゴイ。体を張って見に行こう! |
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堀8は延長30mほどある岩盤箱堀。畝が三箇所と、大きな段差が数箇所あります。しかし、この方面は敵が来そうもないのに、なぜ? |
同じく堀8の畝を反対側から。これって里見氏の技法なの? |
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と思ったものの、畝に挟まれたこの風呂桶状の横堀を見ると、どうも水堀の一種に見える。里見氏系でよくある、岩盤水堀遺構の一種かな。それとも北条の改修かな。どっちだろ。 |
堀8の、コの字状段差。段差は現状でも2m以上ある。これはまともに進めない。 |
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堀8はさらに北西に向かって伸びていました。この部分は通路を兼ねているようにも見えるし、一体どういう遺構なんだろう? |
堀切5のさらに城外側を断ち切り堀切8。垂直な崖を、こんなロープと腐りかけた木の根っこを伝って降りねばならないのだ。。。 |
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祠から千畳へ、尾根下の湿地帯(「今田」)を進むと、池跡があります。いまでも水を湛えていて、山林火災に備えた水源にもなっているとのことでした。 |
城址入り口付近の県道から降りた沢。岩をくり抜いて道祖神が祀ってあります。この通称「湯沢」は、頼朝が負傷した部下を入湯させたという頼朝伝説もあります。 |
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秋元城の、南500mほどにある粟倉砦。道路開通により改変され、遺構らしきものはありませんでした。 |
粟倉砦の曲輪内部。シイタケの栽培地になっていました。 |
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粟倉砦先端の通称「大手口」。ただ、小糸・清和市場集落には惣構えと呼べるものはないようです。 |
城下の妙喜寺の秋元氏墓所。秋元城の落城の際、秋元義正はこの妙喜寺で自刃したと云われる。 |