築城時期ははっきりしないが、千葉一族の椎津三郎が在城し、のちに上総真里谷・庁南に居を構えた武田氏の一族が姉崎湊の警護のため取り立てたといわれる。
武田信保は足利義明を奉じて小弓城を奪取し、小弓公方・足利義明と古河公方・足利高基が対立、永正十六(1519)年には足利高基の命で下総結城城の結城氏をはじめとした軍勢に攻撃を受けた。しかし天文三(1534)年には足利義明と武田信保は不和になり、信保はこれがもとで憤死し、その跡目をめぐって武田氏の内紛が勃発、嫡子信応に真里谷城を追われた庶子長男の信隆が籠る椎津城に対して義明が攻め寄せ、信隆は峰上城に、その子信政は造海城に落ち延びて立て籠ったが、足利義明と義明に味方についた里見義堯らに攻められ、北条氏を頼って落去した。
天文七(1538)年の第一次国府台合戦で足利義明が戦死すると、信隆・信政は椎津城に戻り居城とした。天文二十一(1552)年、信隆の没後、北条氏康が椎津城の武田信政と万木城の土岐頼定を甘言で引き入れようとしたが、土岐氏が拒絶して里見に注進したため、里見義堯・義弘父子は万木城主・土岐頼定、大多喜城主・正木大膳亮時茂らを先鋒に押し寄せ、信政は自刃、里見義堯は椎津城に木曾左馬助を城代に置いた。永禄七(1564)年の第二次国府台合戦で里見氏が大敗、余勢をかった北条氏は上総に侵攻し、椎津城代・木曾左馬助は城を追われ、北条氏は城代として白幡六郎を置いた。天正十八(1590)年の小田原の役では浅野長政率いる別働隊の攻撃を受けて落城、白幡六郎は追撃され白塚村で討ち死にした。