里見氏の「天文の内乱」で里見義堯らが立て籠もったとか、真里谷武田氏の内紛で百首の和歌で開城したとか、のちに里見氏の一大水軍基地になったとか、とかく上総の歴史を語る上で出現する城なのですが、なんつうか、「藪」です。ハイ。一応、概念図なども持っていったのですが、藪が深すぎて自分が今いる場所がわかりません。主郭から三浦半島が一望できる、とのことでしたが、その主郭がどのあたりなのかも分からず、遭難の危険さえあったので引き返してきました(第一回目の訪問)。
2002年3月10日、安房・上総方面を攻めてきた際に竹岡漁港付近に立ち寄りました。「十二天神社」方面からの登り口がある、とのことだったので、ちょっと様子を見てきました。白狐川河口に「十二天橋」という歩行者専用の橋があり、そこを渡った海側からアプローチできるようでしたが、ハッキリ言って危険です。右手は海、しかも足もとは切り立った崖になっていて、足を滑らせようものなら荒波押し寄せる海にまっ逆様です。数箇所、人工的にくり抜いたような竪堀状の穴があり、もしかしたら小型船を格納しておく場所だったかもしれません。まあとにかく、こっち方面はオススメできません。やはり燈篭坂大師方面から藪こぎするルートしかないのか?そっちも決して安全な道じゃないけど(というより獣道)(第二回目の訪問)。
秋深まり行く2003年11月15日、『上総激ヤバ城郭ツアー』と称して、「常総戦隊ヤブレンジャー」のメンバーと再訪しました(三回目の訪問)。相変わらずヤブが酷いのですが、それでもまあ主要部分はほぼ見切りました。と思ったら、いくつか見落としがあることに気づき、冬枯れの12月21日に再々訪、こんどは丸半日をかけて詳細に調べてきました(四回目)。さすがに冬枯れでヤブも多少は薄らいでいる上、ヤブレンジャー隊が歩いた道筋も残っているので、比較的楽に歩くことが出来ました。おおよそスケッチできた、と喜んでいたら、実はまだ見逃していた遺構もあったようです(「木出根」や延命寺附近)。なかなか一城まるごと踏査ってのは難しいもんです。。。
もともと上総武田氏(真里谷氏)の支城であったようですが、武田氏は組織的な水軍戦力を持っていなかったようで、実質的には内房正木氏の勢力範囲であったようです。内房正木氏は三浦氏系の一族と考えられ、一時は北条氏に与していた時期もありましたが、やがて内房正木氏が里見氏の傘下に入ったことで、造海城は里見水軍の一大拠点となります。江戸湾岸での里見水軍の基地となったお城は時代によっても消長がありますが、館山城、岡本城、勝山城、金谷城などがあり、一概に海賊城とはいえないものの佐貫城なども海との関わりを持つと考えられます。そんな中でも造海城はその施工規模、遺構の高度さなどで他とは一線を画するものがあります。ある意味、里見氏系統の城郭の中でも最も秀逸な遺構を残すお城であるともいえそうです。さらには近世に至り、江戸湾を異国船から守るための台場としても用いられるなど、海の番所として重要視される位置にありました。
ちなみに上記の「百首開城」は、「里見軍記」などでは文明三(1471)年のこととされ、寄せ手も伝承では「里見義実・義成父子」となっていて年代的にも整合性がありません。やはり伝承、というか、軍記物らしい修飾として捉えるべきでしょう。
遺構面では岩盤を掘り割った横堀とともに、山城としては珍しい、黒々とした水を湛えた水堀が素晴らしいです。木々の間から突然目の前に現れた時には、あまりに神秘的で一瞬鳥肌が立ちました。この水堀、どれくらいの深さがあるのか、手近に落ちている木の枝で突付いてみたのですが底まで届きません。で、3mほどの倒木で試したところ、1mちょっとで底につくのですが、そこからさらに泥の層が50cmほどあります。底なし沼みたいなもので、落ちたら自力ではまず這い上がれないでしょう。この水堀周囲には城内で最も整った石垣遺構などもあり、訪れる方はぜひとも頑張ってここまでたどり着いてほしいところです。石垣・石積みは至るところに見られ、見事な岩盤掘削の削崖とともにこちらもしっかり見てほしいところ。面白いのはところどころに石段が残っていることで、とくに支尾根を分断する垂直切通しなどに顕著です。しかし、これは幕末の台場設置のときのもの、あるいはここに寺院があったという伝承もあり、はたまた一部に農地転用の痕跡も見えることから、後世の改変であるかもしれません。この台場関係の遺構としては、南西側の海に面した比較的広い曲輪に四基の塚のようなものがあるのですが、これがまさに台場そのものなのだそうです。近世のものではありますが、これも立派な歴史的遺産でありましょう(十二天社附近にも砲台跡があるそうです)。
さて、今回の調査のもうひとつの目的は水軍拠点としての造海城の遺構を探そう、というもの。狙いを定めたのは城山の南西麓、萩生集落側の海岸線。ここには岩場が転々としているため、「もしかして」と思い行ってみたのですが、案の定、岩場に転々とピット(柱穴)痕がありました。ちょうど散歩のおじいちゃんがいたので色々話を聞いてみたところ、この附近は一時期石切が行われた時期があり、そのときに積み出し用に桟橋を組んだ名残ではないか、あるいは幕末の砲台に伴うものではないか、とのことで、直接里見水軍に結びつくような確証は得られませんでした。しかし、城山の北側、白狐川河口附近と南側の萩生周辺の海岸線の、ふたつの舟溜りを持っていたことが考えられるので、断定はできないものの水軍の痕跡の可能性アリ、ということにしておきます(結構いい加減)。
そういうわけで詳細に見ていくと、この造海城は素晴らしい遺構に恵まれたお城なのですが、地形的には険阻な岩山である上、尾根上はかなり起伏が激しく、崖状の場所や崩落危険箇所が数箇所あることや、燈籠坂大師からの大手道が途中で崩落してしまっていること、全山が藪化している上に、危険な遺構もあったりで見学には十分な注意が必要なお城ではあります。なんでも地元でも一時期、「展望台でも作るか」という案もあったらしいのですが、あまりの険しい地形に断念したとか。しかし、遺構から見ても歴史的な位置づけから見ても、整備保存する価値は十分にあるでしょう。景色もよさそうだし、ぜひいつか実現して欲しいですね!
■造海城の構造
造海城は別名「百首城」としても知られ、房総通史のなかでもたびたび登場する重要城郭である。基本的に内房正木氏の持城であるが、内房正木氏が里見氏の配下に入ってからは里見水軍の主要な水軍基地として特に重要視された場所である。近世初頭に至っても海関として機能し、幕末には異国船打ち払いの砲台としても転用されている。
里見水軍の城は、単なる海賊城としての港湾警備所的な性格だけでなく、地域の拠点的城郭としての性格を持っているものが多い。山城としても完成された姿を持っている。むしろ、陸上の拠点的城郭よりも優れた遺構を残す城が少なくない。その中でも造海城は施工規模といい、遺構の高度さといい出色である。しかも残存度が極めて高い。もちろん幕末の砲台構築による改変もあるであろうが、基本的なプランは変わっていない筈である。ただし、遺構残存度は高いものの全くの未整備であり、場所によっては笹薮の酷さや崩落などで歩行が困難な場所や危険な場所も多い。後述する水堀や井戸などもきわめて危険である。踏査には十分な注意を払い、できれば単独行動は避けるべきであろう。
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造海城鳥瞰図(左)、平面図(右)
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白狐川河口の竹岡漁港に面した半独立峰、通称「城山」一帯が城域である。現在国道127号線の城山トンネルや内房線のトンネルが通っている丘陵部が唯一の尾根続きで、大手口は燈籠坂大師附近だったという。燈籠坂大師裏手には切通しの虎口があり、城山までの細尾根にはいくつかの削平地や切通し、岩を削り残して意図的に道を屈曲させる構造などが見られる。この大手道は、幕末の砲台として転用されていた期間も大手道として用いられていたようだ。
「城山」は標高96.6mと101.2mのふたつのピークを持ち、その間の鞍部はさらに堀切られて尾根上の移動を困難にしている。この鞍部によって城山は大きく二つの地区に分断され、一城別郭的な構造を持っている。
まとまった広さを持つ主尾根上の曲輪は5つ認められる。T曲輪は防御的にも広さとしても主郭とは言い難い。これは白狐川河口を睨む、物見的な要素が強いだろう。最高所であるU曲輪を含むU〜Wにかけての区画は、尾根上、尾根下とも充実した遺構が認められるため、このブロックが主郭群と考えられる。どの曲輪が主郭か、というよりも、これらの曲輪は一連の主郭群であると考えてみた。この主郭群の西側には前述の水堀、岩盤掘削横堀、石垣・石積みなどの秀逸な遺構群が見られる。X曲輪は単独の曲輪というよりは、W曲輪および主郭群に対する虎口曲輪として機能していただろう。この虎口は切通し状で周囲を石積みで固められ、この城郭でも最も明瞭な虎口遺構である。
南西側の萩生方面の尾根にもまとまった曲輪群Y、Zが見られる。これらは造海城の出丸群と位置づけられる。むろん、その狙いは萩生方面の舟溜りの掌握であろう。]曲輪には五つの塚が並ぶ。この塚が幕末の砲台の跡であるという。従って、この附近は幕末の改変による影響も多分に考えられる。むろん、砲台遺構が良好に残る貴重な遺跡でもあるわけだが、曲輪自体はおそらく中世造海城の時代から存在したものであろう。南側の港湾を指揮するには最も適した場所である。
尾根の西側の斜面には海に面して多くの曲輪が並んでいる。ここでは支尾根に分断された区画によって、[〜]の三区画の曲輪群として捕えた。この西側曲輪群には石積み、井戸、横堀などの秀逸な遺構が多く見られる。なかでも\曲輪群の水堀状遺構は素晴らしい。比高の高い山城の山頂近く、それも海に面した海賊城にこれほどの水堀遺構があるケースはきわめて稀であろう。ただ、これに近い水堀状の遺構は同じ海賊城としての性格を持つ岡本城、また里見氏の西上総における本拠のひとつでもある佐貫城などでも類例が見られる。あるいは里見氏系城郭に特徴的な遺構なのかもしれない。性格としては水堀としての用途の他に、湛水施設としての用途が考えられる。この水堀は本文中に記したように、現在の水深は1m程度ながら、底に厚い泥の堆積があり、トータルは1.5m以上あるであろう。底の泥に足を取られたら、自力で這い上がるのは不可能である。くれぐれも落ちないように気をつけて欲しい。なお、この周囲の曲輪には状態のいい石積みが多く見られる。W曲輪の西側の横堀も出色である。これは両側の垂直切岸の高さが10m近くもあり、非常に威圧感がある。この底には時に水が溜まって水堀状になることもあるようだが、基本的には空堀と切通しの通路を兼ねたものであろう。]曲輪群にはかなり深い井戸がある。石ころを放り込んでみたところ、深さはおそらく10m前後はあるらしく、約1秒後に水の音が聞こえた。ここは何の遮蔽物も無く、しかも切通し状の通路の経路上にあるため、草木に覆われていたりするとかなり危ない。落ちたら貞子になることは必定である。注意してほしい。
これらの曲輪は言うまでもなく海を意識したものである。ただし、[曲輪群や]曲輪群の先端にはいつの時代のものか不明ながら、祭壇のような構造や排水用の土管なども見られる。また、支尾根を分断するように切通し1、2などが存在し、その周囲や切通し内部には明瞭な石段が設けられている。さらに、T曲輪からU曲輪にかけては、険阻な尾根道を避けるように西側に巻き道が存在している。これらを総合して考えると、近世に寺社として利用された跡であるかもしれない。一説に中世に大万寺という寺院があったともいい、その関連も考えられるところである。また[曲輪群附近は地形や植生から、農地転用があった可能性も指摘しておく。切通し遺構自体は中世城郭に伴う堀切である可能性もなくは無いが、その位置や構造を考えると、これらを完全に中世城郭遺構として捉えるのはやや無理があるかもしれない。
もうひとつ、水軍拠点としての造海城の遺構を探ってみたい。造海城には北側の白狐川河口域と、萩生側の岩場の二箇所の軍船溜りを持っていたと考えられる。このうち、現在の竹岡漁港となっている北側はおそらく軍民共有の湊であっただろう。残念ながらこの方面は漁港の建設により景観が大きく変わってしまい、当時の様子を窺い知ることはできない。ただ、現在十二天社の建つ附近が港湾機能としての中核であったであろう。この西側の狭い浜に面した岩場には数箇所の洞窟がある。いずれも海蝕による自然地形であろうが、小型船のドックとして用いられていた可能性もある。
南側の萩生地区は狭い砂浜に岩場が突出している。この岩場にはわずかではあるが、柱穴(ピット)が認められる。これらは中世に遡るものかどうかはわからない。砲台建設時のもの、あるいは一時城山から岩石の切り出しを行った時期もあり、その際の臨時桟橋として用いられたものである可能性もある。しかし、位置的・地形的にこの岩場は主に小型船の繋留ポイントとして用いるのに絶好のものである。柱穴の存在を無視しても、この岩場は水軍の拠点として用いられていたものであると考えたい。
最後に造海城の出城であるが、周囲にそれに該当する城はない。しかし、竹岡漁港北方に位置する丘陵や、東側の「竹岡CC」となっている丘陵には何らかの物見の施設程度は設けられただろう。前者はここに物見がないと北方沿岸域の見通しが利かない。また竹岡の湊全体を防衛するためにも、ここには何らかの施設があったはずである。後者の丘陵は燈籠坂大師への尾根がさらに伸びて繋がる、唯一の尾根続きであることに加え、ほぼ同標高で城内を見透かされる位置にある。内房正木氏が里見氏に敵対していた時代には、里見軍の襲来に備えるためにもこの丘陵を防衛する必要があったであろうし、細々と通じていた陸路の街道を押さえる意味でも何らかの施設がありそうなものである。残念ながらゴルフ場の造成によって、その出城が存在したかどうかを確かめることは不可能である。
[2004.03.02]