玉縄城は神奈川県や戦国北条氏、関東全体の歴史の中でも特異な位置を占める重要な城であったはずで、航空写真によれば昭和30年代まではかなり良好な残存度を誇っていたはず。しかし今や、その中心部には女子高が建ち、厳重な警備で近づくことも憚られるほど。以前はここに、その事を批難する文章を長々と書いていましたが、今はもう文句はいいません。もちろん、現在の学校関係者には何の罪も無い話です。
つらつら慮るに、一自治体、一教育施設の問題ではなく、要するにここが開発された昭和の時代の日本人にとって、「史跡」というものの価値を認める、などという心の余裕などどこにもなかったことを象徴する場所と言えるでしょう。土地利用も開発も時の流れとはいえ、経済性と効率のみが重視される時代にあって、失ってはいけないものが失われてしまった、その典型的な例と言えるのではないでしょうか。きっと学校教育では、歴史教育も行われていることと思いますが、机上に歴史を学びながら、その足許の遺跡を省みることが無い、そんな教育であっていいわけがありません。それが「鎌倉」という由緒ある街のことだけに、なおさら悔やまれてなりません。
というわけで現状は見るべきものはなにもありません。城址碑があるらしいのですが、あまりの厳しい警備にカメラを持って近づくことすら憚られて遠慮してしまいました。住宅地となった「早雲台」も城跡のイメージには程遠く、やはりここもカメラを持ってうろつくのは憚られる雰囲気。周囲の山林に突入しようにも、宅地・マンションに阻まれてそれすらも叶わない。期待は全くしていなかったけど、期待をはるかに下回る絶望感に打ちひしがれました。わずかに周囲には「早雲台」「城廻」「相模陣」などの、当時を偲ばせる地名が残るのみ、です。
失われた玉縄城を偲ぶこともさることながら、これをひとつの教訓として、今後の史跡保護に生かして欲しい、と願うばかりです。
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こんな遠くから眺めるのが関の山。名城・玉縄城は何処へ行ってしまったのか?早雲が嘆いているぞ。撮るべき写真もなく、不本意ながら表紙には有名な航空写真を使わせてもらうことに。 |