築城時期等の詳細は不明だが、城下の専福寺が永正元(1504)年、東福寺が大永三(1523)年、法幢寺が明応二(1493)年の創建と伝えられることから、15世紀末から16世紀初頭にかけて、三浦道寸(義同)によって築かれたものと思われる。永正十三(1516)年、北条早雲の攻撃により三浦道寸の立て籠る新井城が陥落し、道寸・義意父子が自刃して三浦氏が滅亡すると、浦賀城も北条氏の属城となり、海賊衆は「浦賀定海賊衆」として、玉縄城の北条左衛門大夫綱成の配下で「玉縄衆」に組み入れられ、江戸湾対岸の里見水軍と対峙した。
弘治二(1556)年十月、里見義堯の嫡男・義弘を総大将として里見水軍の兵船八十艘が城ヶ島に上陸、北条軍は三崎城に清水上野介、梶原備前守、出口五郎左衛門尉らを配置、援軍に金子兵部少輔、富永三郎左衛門、遠山丹波守らが参陣して海戦となった。合戦の帰趨は諸書によってまちまちだが、里見水軍優勢で、三崎城、新井城が里見氏に占拠され、三浦四十郷を領有したとされる(三崎・三浦海戦)。この海戦では浦賀城には山角紀伊守が配置され、浦賀定海賊衆も迎撃に出陣したものと思われる。
この頃、北条水軍は大規模な再編が行われ、浦賀定海賊衆の将として愛洲兵部少輔、高尾修理、小山三郎右衛門らが配置され、舟方には諸役を免除されて里見水軍の来襲に備えさせた。浦賀城は三浦水軍を束ねるのみならず、紀州から高給で雇われた安宅水軍などを取り込んで一大水軍基地となった。また北条氏の家財奉行である大草康盛が任ぜられ、軍船の建造および船具づくりも行っている。
天正十八(1590)年の小田原の役では浦賀城の水軍も伊豆水軍の援軍として下田城防衛などに派遣されたが、北条氏の滅亡とともに廃城となった。
嘉永六(1853)
年、アメリカ大統領の親書を携えた東インド艦隊司令長官・ペリー率いる蒸気船サスケハナ号、ミッシシッピー号、帆船プリマス号、サラトガ号の黒船艦隊4隻が浦賀へ来航、久里浜付近に上陸し、
大砲(空砲)で脅しをかけながら、江戸幕府に開国を迫った。翌年に日米和親条約を締結し、開国の端緒となった。