三浦水軍の一大軍港

浦賀城

うらがじょう Uraga-Jo

別名:

神奈川県横須賀市東浦賀町

 

城の種別

平山城(海城)

築城時期

不明(15世紀末〜16世紀初頭?)  

築城者

不明(三浦氏?)

主要城主

三浦氏、北条氏

遺構

曲輪、土塁、堀切

浦賀城から眺める浦賀水道と房総半島 <<2002年08月10日>>

歴史

築城時期等の詳細は不明だが、城下の専福寺が永正元(1504)年、東福寺が大永三(1523)年、法幢寺が明応二(1493)年の創建と伝えられることから、15世紀末から16世紀初頭にかけて、三浦道寸(義同)によって築かれたものと思われる。永正十三(1516)年、北条早雲の攻撃により三浦道寸の立て籠る新井城が陥落し、道寸・義意父子が自刃して三浦氏が滅亡すると、浦賀城も北条氏の属城となり、海賊衆は「浦賀定海賊衆」として、玉縄城の北条左衛門大夫綱成の配下で「玉縄衆」に組み入れられ、江戸湾対岸の里見水軍と対峙した。

弘治二(1556)年十月、里見義堯の嫡男・義弘を総大将として里見水軍の兵船八十艘が城ヶ島に上陸、北条軍は三崎城に清水上野介、梶原備前守、出口五郎左衛門尉らを配置、援軍に金子兵部少輔、富永三郎左衛門、遠山丹波守らが参陣して海戦となった。合戦の帰趨は諸書によってまちまちだが、里見水軍優勢で、三崎城新井城が里見氏に占拠され、三浦四十郷を領有したとされる(三崎・三浦海戦)。この海戦では浦賀城には山角紀伊守が配置され、浦賀定海賊衆も迎撃に出陣したものと思われる。

この頃、北条水軍は大規模な再編が行われ、浦賀定海賊衆の将として愛洲兵部少輔、高尾修理、小山三郎右衛門らが配置され、舟方には諸役を免除されて里見水軍の来襲に備えさせた。浦賀城は三浦水軍を束ねるのみならず、紀州から高給で雇われた安宅水軍などを取り込んで一大水軍基地となった。また北条氏の家財奉行である大草康盛が任ぜられ、軍船の建造および船具づくりも行っている。

天正十八(1590)年の小田原の役では浦賀城の水軍も伊豆水軍の援軍として下田城防衛などに派遣されたが、北条氏の滅亡とともに廃城となった。

嘉永六(1853) 年、アメリカ大統領の親書を携えた東インド艦隊司令長官・ペリー率いる蒸気船サスケハナ号、ミッシシッピー号、帆船プリマス号、サラトガ号の黒船艦隊4隻が浦賀へ来航、久里浜付近に上陸し、 大砲(空砲)で脅しをかけながら、江戸幕府に開国を迫った。翌年に日米和親条約を締結し、開国の端緒となった。

破竹の勢いで関東を席捲し、あたかも「関八州独立国家」を目指すが如きに見えた小田原北条氏。この北条氏にとって、最も頭の痛かった問題が江戸湾の対岸から押し寄せてくる里見水軍だったでしょう。大永年間から約60年間、里見水軍と北条水軍は江戸湾の制海権を賭けて、たびたび干戈を交えました。記録に残る大きな合戦のほかにも、小競り合いなどは日常茶飯事だったことでしょう。もともと三浦半島には三浦一族に属する土着の海賊衆、三浦海賊衆がありましたが、三浦氏の滅亡後は北条氏の勢力下で水軍戦力の中核となりました。しかし、安房土着の安西氏や東条氏、三浦氏系といわれる正木氏らを主力とした里見水軍はなかなか手ごわく、三浦海賊衆、三崎海賊衆などの土着の海賊衆だけでは太刀打ちできないと判断した北条氏によって、大々的に海賊衆が再編されました。この「浦賀定海賊衆」の中核となったのは、北条氏によってスカウトされた紀伊、志摩、駿河などの海賊衆、いわば「海の傭兵たち」でした。その拠点となったのがこの浦賀城であり、かつ北条にとって最大の造船所でもありました。

同じような位置付けにある三崎城あたりと比べてみると、三崎城が前面に城ヶ島を控え、狭い海峡と湾によって防御されたいわば「陰の城」であるのに対し、この浦賀城は真っ直ぐに房総半島に対峙し、里見水軍を迎え撃つと同時に房総半島への敵前上陸を敢行する「陽の城」とでも言える位置付けにあるようです。実際、主郭であったといわれる標高55mの明神山に登ってみると、眼前に手にとるように浦賀水道と内房総の沿岸を眺めることができます。

近現代史は専門外である僕ですが、ここは勝海舟が咸臨丸で太平洋を横断する直前に、航海の安全を祈念するために断食を行った場所でもあるんだそうで、その関係の解説が結構目に入ります。もっと有名なのはペリーの黒船来航の地として、ですね。「サスケハナ号」以下の米海軍軍艦が威嚇の艦砲射撃を行ったことにより、幕末の日本は「日米和親条約」締結、開国に至るわけで、好意的に捉えれば、日本の近現代の幕開けの地、近代日本の夜明けを飾る地でもあるわけです。しかし、圧倒的な軍事力で自国の利益と「パックス・アメリカーナ」を強要する今のアメリカさんのやり方も、自国の要求を呑ませる為に大砲をぶっ放して脅しをかけた約150年前のペリーの時代と、ちぃ〜っとも変わっておらんのう。。。

へたっぴぃなパノラマですいません。でも里見水軍に相対する浦賀城の位置付けは、この写真で伺えるのではと思います。対岸の左から右へ三船台佐貫城造海城金谷城と明鐘岬・鋸山、妙本寺砦岡本城などが見渡せます。手前の湾が浦賀港、手前右手の丘の向こうが久里浜港です。

浦賀港の対岸から見る明神山。里見水軍に相対する水軍基地であると同時に、三浦水軍の造船所でもありました。 明神山の麓、岬の突端付近にある東叶神社。勝海舟断食の井戸などもあります。

明神山の上は比較的広い曲輪。ここからの眺望は最高です。 明神山から明鐘岬、鋸山と金谷城を見る。もちろん当時は望遠レンズなどあるわけがありませんが、そんなものが無くても怪しい動きがあれば十分目視できたでしょう。
明神山の上には土塁や帯曲輪らしきものもありますが、勝海舟関連の社や石碑などで結構地形は改変されているように思えます。 専福寺、東林寺方面の尾根、この地形なら絶対あるだろうと藪に踏み込むと、案の定大きな堀切がありました。
久里浜の港と対岸の金谷港の間には「東京湾フェリー」があって、里見水軍と北条水軍が激しく闘った江戸湾からの光景が楽しめます。詳しくは「里見水軍の道を往く」のページもご覧下さい。

 

 

交通アクセス

横浜横須賀道路「佐原」IC車20分。東京湾フェリー「久里浜」港より車10分。

京浜急行線「浦賀」駅より徒歩15分。

周辺地情報

三浦道寸が壮絶な自刃を遂げた新井城、もうひとつの水軍基地・三崎城など。

関連サイト

里見水軍の道を往く」の項もご覧下さい。

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「房総里見水軍の研究」(千野原靖方/崙書房)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、別冊歴史読本「検証 戦国城砦攻防戦」 (新人物往来社)、「後北条氏の海上防備と浦支配」(下山治久・「千葉県の歴史13」/千葉県に収録)、現地解説板

参考サイト

北条五代の部屋

埋もれた古城 表紙 上へ