里見を悩ませた房州逆乱の拠点

峰上城

みねがみじょう Minegami-Jo

別名:上後城

千葉県富津市上後

城の種別 山城

築城時期

天文二(1533)年

築城者

武田信武

主要城主

真里谷武田氏、吉原玄蕃助(二十二人衆)

遺構

曲輪、土塁、堀切、虎口、井戸、池跡

七ツ堀切<<2002年03月10日>>

歴史

真里谷武田氏が、上総西南部の拠点として築城した。天文三(1534)年、真里谷武田氏の中で信保入道恕鑑の跡目をめぐって内紛が発生、小弓公方・足利義明を後楯に「嫡子」信応と対立した「庶子長男」の信隆とその子信政は真里谷城を追われ、北条氏の後ろ楯を得て信隆が峰上城、信政は造海城に立て籠った。義明は里見義堯に命じて造海城を、自らは峰上城を攻め、信隆は造海城に退いた後、北条氏を頼り武蔵金沢に落ち延びた。

天文七(1538)年の第一次国府台合戦では、峰上城主・真里谷義房は小弓公方軍に加わったが戦死し、佐貫城の武田義信が進駐した。天文二十三(1554)年頃には特定の城主が存在せず、内房正木氏配下の吉原玄蕃助ら「尾崎曲輪二十二人衆」と呼ばれる不定集団の本拠地となり、北条氏に通じて里見氏に大規模な叛乱を起こし(房州逆乱)、里見氏は峰上城から安房妙本寺方面にかけての海岸線と制海権を失った。峰上城と内房正木氏を廻る不安定な状態は、天正五(1577)年の里見義弘と北条氏の和議まで続いた。和議成立後は内房正木氏の主力は造海城に移り、峰上城は廃城になったと思われる。

いわゆる直線連郭式の山城です。標高もさほど高くなく、曲輪取りもゆったりしていて、山城というよりは平山城に近い形態を持っているのですが、断崖絶壁を取り込んだ縄張り、尾根上を堀切でざっくりと断ち切る手法は山城そのものだと言えるでしょう。ただ、各郭の間には堀切等は無く、虎口も櫓台風の土塁を伴う坂入虎口で、さほど技巧的とも堅固とも思えません。ただ、土塁虎口を崖に面した場所に配置した、いわゆる崖縁入路になっていて(一郭・二郭虎口)、古風ながらも基本に忠実な印象を受けました。

ここは真里谷武田氏の上総西南部掌握のための主城的な位置付けで、真里谷氏の内紛では後に北条氏を頼る信隆が籠城し、里見義堯に攻められています。また、その里見義堯は、北条氏の手引きによる房州大乱に苦しめられるのですが、その乱の首謀者はここ峰上城を中心とする吉原玄蕃「二十二人衆」と呼ばれる集団でした。のちに内房正木氏の属城になったと思われます。この吉原玄蕃助を中心に、内房正木氏らや二十二人衆と呼ばれた在地土豪は北条氏に通じて安房から上総にかけて大規模な叛乱を起こし、上総を計略して北進を狙う里見氏には大きな打撃になりました。一時期、この峰上城ちかくの上総湊から造海城金谷城妙本寺周辺の内房の要衝地帯を北条氏と叛乱軍に制圧されたため、里見氏は上総中央部まで勢力が後退し、結果翌天文二十三、二十四年(1554,55)と二度に渡る久留里城包囲などの苦境に立たされることになり、上杉謙信が関東制圧に乗り出す永禄三(1560)年までこの状況が続きます。この一連の苦境の中で、里見義堯は北条氏康と徹底的に抗戦することを心に誓います。

主郭にあたる「実城」、二郭にあたる「中城」は藪化していて、全体像は掴めません。わずかに武者走り状の土居上に道があります。この土居の下は非常に高さのある、垂直な崖になっていまして、見学の際は足元に十分注意が必要です。また、主郭奥の櫓台跡(環神社)裏の「七ツ堀切」といわれる連続堀切も見事で(これは7つどころじゃないらしい)、最大の見所といえますが、足もとは非常に危なっかしく、一人の見学はオススメできません。「殿井戸」周辺も岩盤剥き出し、しかも井戸からの水や覆流水で岩盤が濡れているため、超危険地帯です。このあたりは落ちたらケガじゃすまないので、尾根上から見るだけにしておいた方が無難です。
また、三郭周辺には数件の民家がありますので、見学の際は失礼の無いように気を使いましょう。道端で出会ったら挨拶くらいしましょうね。

扠亦、「常総戦隊ヤブレンジャー」の三名(オレンジャー、オカレンジャー、ソレガシ)にて、『上総激ヤバ城郭ツアー』(2003.11.16)を敢行しました。ツアーの名前からして普通じゃないのですが、この峰上城のヤバさといったら・・・所謂「七ツ堀切」(全部見て来た)のヤバさもさることながら、尾崎曲輪周辺の崖のスゴさといったらもう、数ある上総・安房の「落ちたらヤバイ」系城郭の中でもピカイチのヤバさでしょう。上から覗き込むと、まるで奈落の底に引き込まれるよう・・・・。

■峰上城の構造

峰上城の立地する丘は比高は最高でも60mほどながら、南北に痩せ尾根が繋がっている他は周囲を断崖絶壁に囲まれており、天険の要害であると言える。しかも、台地上は広い平坦地が広がっており、あたかもテーブルマウンテンのようでもある。「余湖くんのホームページ」(峰上城の頁)でも触れられているように、まさに城になるために生まれてきたような地形である。

峰上城鳥瞰図

(クリックすると拡大します)

この台地の周囲の絶壁は高いところで20m以上ある。特に尾崎曲輪周辺や「殿井戸」附近の絶壁は強烈である。それ以外も、もともと絶壁に近い斜面をさらに垂直に削崖することにより、屏風のような7〜10mの垂直な壁を造りだしている。7mなどというと大したことがないようにも聞こえるが、実際に7mの垂直な崖などは昇り降りは全く不可能である。とにかくこの城の垂直削崖のすさまじさは筆舌に尽くし難い。ある意味、数ある房総の城郭の中でも最も危険な城ともいえるだろう。

北側と南東側には痩せ尾根が繋がっている。この痩せ尾根を断ち切ってしまえば、まともに取り付くことは非常に困難である。案の定、この細尾根は執拗なまでに掘り切られ、特に南側尾根は通称「七ツ堀切」(堀切4-10)と称されている。堀切は岩盤を叩き割るように削り込まれ、場所によっては完全に垂直で、尾根上の通行は全くに不可能である。さらに山腹も垂直切岸によって狭められているため、尾根全体として通行は非常に困難である。ただし、防衛の拠点となる曲輪なども無いため、無理やり取り付いた敵を迎撃するのもまた困難である。防衛拠点となり得るのは主郭最頂部にあたる環神社であるが、ここまで敵が寄せ付けるようであれば七つも堀切を設ける意味があまりない。執拗なまでの堀切を見せることで、敢えて敵が怯んで取り付かない、というのを前提にしているようにも見える。一方、北側の尾根にも大規模な堀切(堀切1-3)や垂直削崖を設け、こちらも取り付きをほぼ不可能にしている。

台地上の曲輪はその山容からは想像できないくらい広く平坦である。主要な曲輪はT〜Vの三つで、各曲輪には2‐3mの段差があり、切通し虎口によって繋がっているが、曲輪間の途絶は全く完全ではない。というより、この台地上の曲輪群に敵がたどり着く事など不可能であるという前提のもとに縄張りされたとしか思えない。

支尾根では、尾崎曲輪(曲輪W)附近の垂直削崖は強烈である。堀切12や13などは、上から恐る恐る覗き込むような場所である。「富津市史」掲載の図などを見ると、さらに先にも堀切が連続しているようだが、とてもではないがこの先には進めない。究極の危険地帯である。

その他、特徴的なこととしては、水の手が比較的豊富であることが挙げられる。「殿井戸」「馬洗井戸」などは現在も現役で、ポンプを用いて台地上の民家に水が供給されている。そのほかにも数箇所の湧水ポイントが見られる。尾崎曲輪には湧水が引き込まれて水田になっているし、周囲の崖も湧水で濡れている。ただでさえ急崖なのに濡れていてはさらに危ない。一見孤立した岩盤上の台地であるため水の手に苦労しそうだが、岩肌から染み出る湧水が結構あるのだろうか。

[2004.03.03]

上後の集落から見た峰上城。ほんとうはこの写真の奥方向に伸びる尾根上に展開しているので、正しい全容とは言えませんが、撮影ポイントが確保できなかったもので・・・。一見、何の変哲も無い丘陵、しかしこれが究極の要害だった!

主要部へ向かう細い道路わきに残る見落としそうな小さな堀切1。ここから北尾根には三条の堀切が連続します。

ここも小屋のせいで見落としそうですが、大きな堀切(堀切2:「大橋」)です。 北側尾根最大の堀切(堀切3)。おなじみ、オレンジャー殿のオープンカーと比べると大きさがよく分かるでしょう。しかし、オープンカーに泥だらけの男三人、なんとアヤシイ・・・。

大橋脇にある石井家墓所。真里谷義房の娘を娶り、縁戚関係にあたるそうです。 鍛治曲輪と呼ばれる付近からの眺望。湊川の支流・志駒川流域の平地が見渡せます。

通称「大門」。大手門にあたりますが、何の変哲も無い切通しの坂虎口です。 農地になっているV曲輪「要害」附近。ここには三軒の家がありますが、やはり峰上城主の関係の方であるそうです。

U曲輪虎口は崖縁入路で、かつ尾崎曲輪へ向かう尾根との分岐点でもあります。 これはT曲輪虎口をゆくオレンジャー殿。曲輪は主郭に向かって段々に高くなりますが、各曲輪の虎口は枡形等の構築は見られず、切通し風の原始的なものです。曲輪を仕切る土塁や堀も無いようです。ここは今思えば多少食い違い虎口といえなくも無いかな・・・。

T曲輪西側の土居上を歩きます。この写真の左は急崖。 主郭先端最高部にある環神社。削り残しの土塁に囲まれているように見えますが、これは神社に伴うものかも。ここから「七ツ堀切」へと向かいます。

環神社の裏の尾根は、「これでもか」というくらいの堀切が連続します。通称「七ツ堀切」。これは環神社寄りの最大規模のもの。崖を降りるのが大変だ! 「七ツ堀切」ふたつ目。立て続けに堀切が現れる、最大の見所でもあります。周囲が急傾斜で歩くのは大変。環神社から降りるのも命がけ(ちょっとオーバー)。

三つ目の堀切を歩くオレンジャー殿。さすがのヤブレンジャーもこの連続堀切には驚くやら、呆れるやら。 六つ目。中央左手にオカレンジャー殿が立っているので、大きさをくらべてみてください。

最後の七つ目。ここまで本当に来るとは・・・。七つ目ともなると、なんとなく手抜き工事の雰囲気もチラホラ見えています。 台地を囲む垂直削崖。もともと崖なんでしょうが、執拗に削りたてたその塁壁はまともに上り下りするのは困難を極めます。まさに究極の要害。

ここが搦手らしい。崩れていて原型を留めていないが、石積みを用いた坂入虎口で、佐貫城の搦手と構造が似ています。 殿井戸は今でも水が湧いているようです。なぜビニールシートが、と思ったら、どうもポンプで汲んでいるらしい。つまり、今でも現役の井戸なんですね。

殿井戸周辺の超急崖を上から覗く。岩盤が濡れている上、断崖絶壁なので危険極まりない。 殿井戸方面の尾根を西に進むと尾崎曲輪。これはその手前の池跡。このあたりは湧水も多いようです。

尾崎曲輪は水田になっていました。ここが里見氏を苦しめた房州逆乱の中心地。以前はここまでで引き上げましたが、この先のヤブに突き進んでみると・・・。 おお、コワ!ほとんど垂直な堀切12.写真じゃその怖さが伝わらないでしょうが、これ以上端へは近寄れない。

それでもなんとか強引に降りて撮影した堀切12。堀切というより、岩盤を強引に叩き割った切通しのように見えます。 こちらも強引に突き進むオカレンジャー殿。岩の隙間をくぐるように進む。足元は急崖なのだ。

折れを伴った堀切13附近で崖を覗き込むオレンジャー殿。ここの崖はほんとにスゴイ。この後、オレンジャー殿は峰上城の夢を見たそうです(笑)。 東側の「東井戸」、こちらも現役。この附近にはもうひとつ、「馬洗井戸」があります。意外と水には困らないお城だったのかも。

現在も住宅がある場所なので史跡としての整備は難しいかもしれませんが、案内板くらいあってもいいと思いますね。危険箇所が多いので、安全な歩道整備や立ち入り禁止区域を設ける等の対策も欲しいところです。武田氏・里見氏系の城郭は削崖が多く規模も大きく急なので、くれぐれも転落には気をつけて、「危ないな」と思ったら近寄らない勇気も必要です。 

 

 

交通アクセス

JR内房線「上総湊」駅バス10分。

館山自動車道「木更津南」IC車一時間。

周辺地情報

上総湊の天神山城がなかなか良い。ヤバ系が好きな人は造海城なども。

関連サイト

 

 

参考文献

「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」(川名登 編/国書刊行会)

「さとみ物語」(館山市立博物館)

「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)

「房総の古城址めぐり(上)」( 府馬清/有峰書店新社)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会/国書刊行会)

「千葉県中近世城跡研究調査報告書 第12集 −峰上城跡測量調査報告書−」(千葉県文化財センター)

参考サイト

余湖くんのホームページ内房正木氏を捜そう会

 

 

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