小弓公方、自滅の丘

相模台城

さがみだいじょう Sagamidai-Jo

別名:岩瀬城

千葉県松戸市岩瀬

(相模台公園周辺)

 

城の種別

平山城

築城時期

建長元(1241)年

築城者

北条長時

主要城主

北条氏、芳賀氏、新田氏、高城氏

遺構

ほとんどなし

相模台合戦の碑と経世塚<<2002年07月06日>>

歴史

建長元(1241)年、房総三国守護で第六代執権となった北条長時が館を構えたことに始まるという。その子久時、久時の子守時と続き、嘉暦年間に十五代執権で北条得宗家最後の執権となった北条相模守高時が入道して崇鑑と号し、この地に居住したため「相模台」と呼ばれるようになった。

鎌倉陥落後、相模台城も陥ち、延文四(1359)年、足利尊氏の家臣で下野出身の芳賀兵衛入道が在城したが、翌五年には新田義徳に奪われ、その後和睦して一時廃城になった。

永禄七(1538)年の第一次国府台合戦では、国府台城付近に布陣する小弓公方軍に対し、北条氏綱・氏康父子の軍は「松渡の渡し」付近から渡河し、松戸城に布陣した。北東の谷津を挟んだ対岸の相模台城に布陣していた小弓軍先鋒は、義明に渡河中の攻撃を進言するが用いられず、結局相模台城周辺で激戦となり、足利義明は討ち死に、小弓公方は滅亡した。

その後は小金城の支配下となったが、天正十八(1590)年の小田原の役まで城郭として取り立てられていたかどうかは定かではない。

発展し続ける松戸の街。その松戸駅の目の前の小高い丘が、あの小弓公方・足利義明が奮戦ののちに討ち取られた、相模台城であることを知る人は多くは無いでしょう。

「第一次国府台合戦」は、房総諸将の勢力を背景にした小弓公方・足利義明と、北関東諸侯や小田原北条氏を後ろ盾にした古河公方の対決でもありました。北条氏綱・氏康父子はいわば古河公方の名代、対する小弓軍に従軍していた里見義堯や真里谷氏は、かならずしも戦意盛んではなく、血気盛んに突進する小弓公方を半ば見捨てるように兵を返します。肝心の小弓公方・足利義明は、先鋒の椎津隼人佐をはじめ村上・堀江・鹿島ら50騎がこの相模台城から北条軍の渡河作戦を見て、渡河中の攻撃を進言するにもかかわらず、それを退けて決戦に挑みます。しかし策戦を誤った小弓軍に利無く、御曹司義純、舎弟基頼を討たれ、義明も馬廻り衆が止めるのも聞かず、単騎敵中に突入します。義明は馬上で太刀を古い、北条軍の安藤備前らを討ち取りますが、結局三崎城代で弓の名手であった横井越前守神助の強弓に討たれ、落馬したところを松田弥次郎に首級を挙げられます。こうして決戦は小弓公方のひとり相撲により、公方自らをはじめ馬廻り衆の多数を失い、小弓軍は壊滅、関東は新たな時代に突入するのです。この「第一次」の決戦の舞台がこの相模台城の周辺であると言われ、「相模台合戦」ともいわれています。

現在、この相模台の丘陵上は松戸中央公園、相模台公園や法務局、地方裁判所、聖徳大学や相模台小学校などが建ち並び、往時を偲ばせるものはほとんどありません。わずかに聖徳大学構内に「相模台戦跡碑」の石碑と、この合戦での落命した義明親子兄弟を弔ったと言われる「経世塚」(他の場所から移転したものですが)があるのみです。

市街地化した谷津を挟んだ対岸の松戸城から見る相模台城。「第一次」はこの指呼の間で先陣どうしが対陣しました。 聖徳大学校内に建つ「相模台戦跡碑」と、義明父子らを弔ったと言われる経世塚。学校の敷地内ですが警備の人にことわれば見学させてもらえます。
ここも激戦の地であったであろう松戸駅前の松戸中央公園。激戦など忘れたかのように、市民の憩いの場として賑わっています。 相模台の台地南端には、松戸中央公園とは対照的にほとんど誰もいない「相模台公園」があります。このあたが主要な曲輪、周囲の土居は土塁でしょうか。
法務局周辺の土塁の残欠?この法務局から相模台小学校にかけての付近が主な城域だったでしょう。 法務局前の道路はいかにも空堀跡に見えます。しかし、真偽のほどは不明です。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「三郷」ICから車15分。

JR常磐線・新京成電鉄「松戸」駅より徒歩5分。

周辺地情報

第一次国府台合戦で北条軍が渡河した松戸城がすぐ近く。二回の国府台合戦の舞台となった国府台城とあわせて見学。

関連サイト

 

 
参考文献 「房総の古城址めぐり(下)」( 府馬清/有峰書店新社)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「関東三国志」(学研「戦国群像シリーズ」)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭

 

埋もれた古城 表紙 上へ