関東各地で八面六臂の活躍を演じていた名将・太田道灌がとうとう下総にやって来ました。
この合戦に到る経緯は関東の複雑な戦国史を反映してなかなかややこしいのですが、根本には関東公方(古河公方)勢力と関東管領・上杉氏の対立構図があり、ここに幕府の思惑や在地豪族の家督相続問題などが絡んでいます。この境根原合戦では、康正年間の千葉氏の内訌に端を発する対立に、長尾景春の乱や、反上杉勢力の中核である古河公方・足利成氏の思惑などが絡んでいます。当時、足利成氏と上杉氏は一時的に和睦状態にありましたが、千葉孝胤は上杉氏に従うことを潔しとせず、長尾景春と結んで上杉氏に対立します。一方、太田道灌は長尾景春の蜂起に関東一円を奔走しますが、下総あたりで景春与党に蜂起されちゃタマラン、ということで下総国府台城に陣取ります。またこのとき、道灌は千葉氏の内訌で敗れた千葉自胤ら(武蔵千葉氏)を庇護する立場にもありました。千葉自胤にとっては、旧領回復の決戦でもあったのですね。
合戦の詳細は残念ながらよく分かりませんが、結局千葉孝胤勢は大きな損害を出して臼井城に退却します。道灌は弟の太田図書らに臼井城攻略を託し、自らは江戸城の守りを固めます。千葉自胤らは臼井城の後詰を絶つべく、庁南城、真里谷城などを制圧、じりじりと臼井城を包囲します。結局、臼井城の奪取には成功するものの、太田道灌は自らの片腕と頼んでいた太田図書をはじめ五十数騎を失い、臼井城を奪取した千葉自胤もまもなく千葉孝胤らの反撃で臼井城を明け渡すことになってしまいます。
現在の境根原古戦場は大型の住宅団地となっていますが、「首塚」と伝えられる塚が残されており、簡単な解説板が設置されています。合戦の際の主たる激戦地は麗澤大学前あたりの谷津であったらしいです。