多古城と並んで、ここも千葉氏滅亡に関わる悲劇の地ですが、それらしきものは何もありません。ただ多古城と違って大幅な宅地造成などがない分、水田に浮かぶ「島」のような地形(地名もズバリ「島」である)の面影を残しています。かつてはこの周囲は深い沼田で、田舟が唯一の交通手段だったとか。現在はその沼田も普通の水田に生まれ変わっていますが、湿地帯に守られた天然の要害であっただろうことは十分に感じられます。
城址はおそらく、現在八幡大神社が祭られている台地付近にあったのでしょうが、明瞭な遺構に乏しく、断定するにはいたりませんでした。台地上は神社のほかは畑になっていて、休耕期なのか草刈もされておらず、こちらも積極的に遺構を探したわけでもなく、なんとなく眺めただけで帰ってきました。まあ多古町はあまりこういうものを重視していないようなので、城の遺構を見る、というよりも、わずかに残る地形の面影を見つつ、在りし日の千葉氏の栄華盛衰を偲ぶ、というのが精一杯のところです。そもそも志摩城という城が恒久的な築城であったかどうかも疑問で、千葉氏の内訌で逃れてきた千葉宗家軍が臨時の砦として取り立てただけかも知れず、もともと土塁などのハッキリした構造物はあまりなかったかもしれません。
千葉氏の内訌は、当主の千葉胤直と弟の胤賢、胤賢の子の自胤・実胤がこの志摩城に籠り、胤直の子の胤宣は多古城に籠ります。志摩城の寄せ手は原胤房。もともと、鎌倉公方(古河公方)と関東管領・上杉氏の対立からはじまった「享徳の大乱」ですが、千葉氏の内訌はそれを契機に原氏、馬加氏らと円城寺氏らの重臣どうしの権力争いにその根本があったようで、そのためか原胤房は胤直らに対し、再三降伏を呼び掛けます。主と仰いだ千葉氏を断絶させるのが忍びなかったのでしょうか。結局千葉氏は抗戦の末、八月十二日に多古城に籠る胤宣が自刃、志摩城も八月十四日に落城し、胤直はじめ池田豊後守胤相、円城寺因幡守、木内左衛門尉、池田蔵人らの家臣団、妻妾たちは城下土橋の如来堂に移る事を許され、八月十五日に自刃します。ここに千葉宗家は三百年に渡る栄華に幕を下ろすことになります。寄せ手の原胤房はさすがに主を滅ぼしたことで良心の呵責があったのか、城下の東覚院で仏事供養を行った後、千葉の大日寺に骨を集め、五輪塔を建立して主の菩提を弔ったといいます。
もはやそこに城があったことも悲劇があったことも示してくれるものは何も無く、その名のとおり「島」のような地形だけが悲劇の舞台となった当時を忍ばせています。