千葉宗家、無念の滅亡

志摩城

しまじょう Shima-Jo

別名:島城

千葉県香取郡多古町島

 

城の種別

平山城

築城時期

不明  

築城者

不明(千葉氏一族?)

主要城主

不明(千葉氏一族?)

遺構

なし

志摩城遠景<<2002年04月27日>>

歴史

築城時期、主な城主は不明。千田荘は千葉氏の一族、円城寺氏らの所領と思われ、志摩城は一族の城館である多古城の出城だったものと思われる。

永享十(1438)年の永享の乱と永享十二(1440)年の結城合戦で一時断絶した鎌倉公方だが、宝徳元(1449)年関東の諸将の要請で足利持氏の遺児、足利成氏(永寿王丸)が鎌倉公方として擁立された。千葉胤直ら千葉氏も成氏を擁立したが、成氏は父を滅ぼした上杉氏に遺恨を持ち、対立した。千葉胤直ははじめ成氏についていたが、再三の諫言にも応じず享徳三(1454)年、成氏が配下の武田信長らに命じて関東管領・上杉憲忠を誅殺したことから成氏と離反し、幕府を後ろ楯にした上杉派に鞍替えした。しかしこの時、千葉氏の一門衆、小弓城主の原胤房、馬加城主の馬加康胤らが千葉胤直と対立し成氏方へ奔った。康正元(1455)年三月、原胤房は千葉胤直の本拠、亥鼻城を急襲、焼き討ちした。胤直とその嫡子胤宣、胤直の弟胤賢らは千田荘に逃れ、胤直は志摩城に、胤宣は多古城に立て籠った。原胤房は志摩城を包囲、馬加康胤は多古城を包囲して開城を呼び掛けた。胤直・胤宣父子は上杉氏の援軍を要請したが敵わず、胤宣は八月十二日、多古城下の阿弥陀堂で自刃、落城した。志摩城は八月十四日に落城、胤直らは城下の如来堂に入ることを許され、そこで自刃し千葉氏宗家は滅亡した。胤直の弟、胤賢とその子実胤・自胤兄弟らは小堤(おんずみ)城に落ち延び、胤賢は小堤城で自刃したが、実胤・自胤兄弟は市川城に立て籠った後、扇谷上杉氏を頼り赤塚城、石浜城に拠って武蔵千葉氏の祖となった。千葉宗家は馬加康胤が嗣いだが、康胤は翌康正二(1456)年、幕府追討軍の東常縁に攻められ敗死、宗家は孫の輔胤が嗣いだ。

志摩城のその後、廃城の時期等、詳細は不明。

多古城と並んで、ここも千葉氏滅亡に関わる悲劇の地ですが、それらしきものは何もありません。ただ多古城と違って大幅な宅地造成などがない分、水田に浮かぶ「島」のような地形(地名もズバリ「島」である)の面影を残しています。かつてはこの周囲は深い沼田で、田舟が唯一の交通手段だったとか。現在はその沼田も普通の水田に生まれ変わっていますが、湿地帯に守られた天然の要害であっただろうことは十分に感じられます。

城址はおそらく、現在八幡大神社が祭られている台地付近にあったのでしょうが、明瞭な遺構に乏しく、断定するにはいたりませんでした。台地上は神社のほかは畑になっていて、休耕期なのか草刈もされておらず、こちらも積極的に遺構を探したわけでもなく、なんとなく眺めただけで帰ってきました。まあ多古町はあまりこういうものを重視していないようなので、城の遺構を見る、というよりも、わずかに残る地形の面影を見つつ、在りし日の千葉氏の栄華盛衰を偲ぶ、というのが精一杯のところです。そもそも志摩城という城が恒久的な築城であったかどうかも疑問で、千葉氏の内訌で逃れてきた千葉宗家軍が臨時の砦として取り立てただけかも知れず、もともと土塁などのハッキリした構造物はあまりなかったかもしれません。

千葉氏の内訌は、当主の千葉胤直と弟の胤賢、胤賢の子の自胤・実胤がこの志摩城に籠り、胤直の子の胤宣は多古城に籠ります。志摩城の寄せ手は原胤房。もともと、鎌倉公方(古河公方)と関東管領・上杉氏の対立からはじまった「享徳の大乱」ですが、千葉氏の内訌はそれを契機に原氏、馬加氏らと円城寺氏らの重臣どうしの権力争いにその根本があったようで、そのためか原胤房は胤直らに対し、再三降伏を呼び掛けます。主と仰いだ千葉氏を断絶させるのが忍びなかったのでしょうか。結局千葉氏は抗戦の末、八月十二日に多古城に籠る胤宣が自刃、志摩城も八月十四日に落城し、胤直はじめ池田豊後守胤相、円城寺因幡守、木内左衛門尉、池田蔵人らの家臣団、妻妾たちは城下土橋の如来堂に移る事を許され、八月十五日に自刃します。ここに千葉宗家は三百年に渡る栄華に幕を下ろすことになります。寄せ手の原胤房はさすがに主を滅ぼしたことで良心の呵責があったのか、城下の東覚院で仏事供養を行った後、千葉の大日寺に骨を集め、五輪塔を建立して主の菩提を弔ったといいます。

もはやそこに城があったことも悲劇があったことも示してくれるものは何も無く、その名のとおり「島」のような地形だけが悲劇の舞台となった当時を忍ばせています。

沼田に浮かぶ島のような地形。ここで千葉氏宗家は滅亡した。 南西1kmの多古城を望む。多古城には息子の胤宣が籠っていましたが、父に先立って自刃しました。

城址にあった八幡大社。城と関係あるかどうかはわかりません。

台地上は神社と畑になっていて、とくに遺構らしいものは見当たりませんでした。

 

 

交通アクセス

東関東自動車道「大栄」ICから車30分。

JR成田線「成田」駅、JR総武本線「八日市場」駅よりバス。

周辺地情報

千葉胤宣が自刃した多古城がすぐ近くですが、遺構は破壊され尽くして全くなし。

関連サイト

 

 
参考文献 「房総の古城址めぐり(下)」( 府馬清/有峰書店新社)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、『千葉氏の本流、多古、志摩合戦で敗滅』(府馬清、「戦国の房総を語る」収録/暁印書館)

参考サイト

千葉氏の一族余湖くんのホームページ北総の秘めたる遺跡

 

埋もれた古城 表紙 上へ