下総の雄、千葉氏全盛の三百年を物語る城です。上の写真にあるような模擬天守は当然、存在しませんでした。歴史的な意義の深い場所だけに、こういうところに天守風の建物を建てちゃうのはどういうもんでしょうか?子供たちが見て誤解するんじゃないかなあ?とはいうものの、資料館そのものは60円で入れるし、この日は「千葉介の時代から現代まで」展という興味深い催しをやっていたので、ついつい入ってしまいました。面白かったのが模擬天守前の千葉介常胤公の像。鏑矢を放つ姿を銅像化したものですが、矢が城の方を向いてます。自分の城に矢を放つなって(笑)。それとも、「こんなところに模擬天守なんか建てるんぢゃね〜よ!」というメッセージなのでしょうか?
この千葉常胤という人物は、源頼朝が石橋山合戦で敗北し、安房龍島に流れ着いた後、頼朝を庇護して信頼を得、下総だけでなく奥州や九州にまでその所領を拡げます。常胤は「質実剛健」坂東武者の鑑のような人物であったそうで、頼朝は事あるごとに常胤の例を引き合いに出しては、ときに華美に走る御家人たちを諌めたと言います。この後、いわゆる戦国期に至る前夜の康正元年、「享徳の大乱」に連動した家中対立により千葉本宗家は滅亡、その千葉氏の滅亡にあたりこの亥鼻城も炎上し、歴史の表舞台から消えていきます。後を嗣いだ後期千葉氏もやがて北条氏の庇護の下で大木が枯れるように徐々に衰えていきます。名族といえど、戦国期に常胤なみの「スーパースター」に恵まれなかったことが不幸だったのでしょうか。
亥鼻城は、廃城の時期が早いため、遺構そのものはあまり残っていません。というよりも、戦国後期と違ってあまり大規模なものは最初からなかったかもしれません。が、都市化が進む千葉市内、それも千葉県庁の目と鼻の先というど真ん中にあって、この一画が残ったのは奇跡に近いです。上の写真の郷土資料館・亥鼻公園が主郭らしいですが、城域は現在の千葉大学医学部方面までを含む大規模なものでした。急崖に囲まれた地形だけが往時を偲ばせてくれます。
<<追記>>
「新編房総戦国史」(千野原靖方)によると、上総茂原の真名城で、三上氏が叛乱を起こした「三上の乱」でこの亥鼻城が登場します。真名城の三上氏は足利政氏・扇谷上杉朝良に属しており、足利高基派の千葉氏家臣が籠る亥鼻城を攻めたといいます。その後も北条方の原氏・千葉氏の勢力と里見氏勢力のぶつかり合う緊張地帯であったらしく、戦国末期にも原氏により取り立てられていたらしい。とすれば亥鼻廃城の時期は大幅に繰り下がります。戦国末期の大規模な改修が行われたような形跡はありませんが、砦として、あるいは戦時の応急手当として古城の跡を利用したのでしょうか?