城攻めの天才、謙信も攻めきれず

臼井城

(付・臼井田宿内砦)

うすいじょう Usui-Jo

別名:

千葉県佐倉市臼井田

城の種別 平山城(丘城)     

築城時期

文久二(1114)年 

築城者

臼井氏

主要城主

臼井氏、原氏、酒井氏

遺構

曲輪、土塁、空堀、虎口、石垣

主郭虎口の土橋と堀<<2003年03月21日>>

歴史

永久二(1114)年、千葉常兼の子・常康が臼井に居を築き臼井氏を称した。このころの居館がこの臼井城であったかどうかは定かではない。

文明十(1478)年十二月、長尾景春の乱に応じて上杉氏と対立した千葉孝胤を討つため、太田道灌、千葉自胤らは下総国府台城に布陣し、十二月十日に千葉孝胤軍と境根原で激戦となった(境根原合戦)。この合戦で敗北した千葉孝胤らは臼井城に籠城、文明十一(1479)年一月、太田道灌、弟・太田持資、資忠の軍が臼井城を攻めた。道灌は臼井城が容易に落城しないのを見て、千葉自胤に庁南城真里谷城、海上城などを攻めさせ開城させた。道灌軍は七月五日、臼井城を落城させたが、太田図書資忠ほか五十余名が戦死、千葉自胤は臼井城に城代を置いたがまもなく千葉孝胤に奪還された。

小弓城の足利義明が勢威を増すと、千葉氏、原氏ら一族は古河公方方として小弓公方と対峙したが、臼井城主の臼井景胤は小弓公方に味方した。天文七(1538)年の第一次国府台合戦で足利義明が戦死すると千葉氏に帰参したが、弘治三(1557)年、景胤の死にあたり、遺言により久胤の後見として生実城主・原胤清の子、胤貞が臼井城に入り、実質上原氏の支配下に入った。永禄四(1561)年、臼井久胤のとき、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城主・正木大膳に攻められ一旦落城し、臼井久胤は結城城の結城晴朝を頼って脱出した。永禄七(1564)年には千葉氏の家老職にあった原胤貞により奪還された。

永禄九(1566)年三月、関東出陣の上杉謙信と里見義堯・義弘父子らが臼井城を攻めた。臼井城には千葉胤富らの援軍が立て籠もり、三月二十日には「実城堀一重」の落城寸前まで追い込んだが、北条氏の加勢である松田孫太郎の後方攪乱作戦により間一髪で落城を免れる。原氏は本拠・生実城が元亀元(1570)年に里見勢により落城、以後、臼井城が原氏の本拠となる。

天正十八(1590)年の小田原北条討伐戦で徳川の房総別働隊に敗れ、徳川譜代の酒井家次が三万石で入封するが、文禄二(1593)年に城内より出火し灰燼に帰す。その後酒井家次の移封に伴い慶長九(1604)年に廃城。

臼井城は印旛沼沿岸に多くの支城網を持つ、本佐倉城の千葉氏の一級支城でした。というより、戦国末期には千葉本宗家は勢威が衰え、実質的に家老職であった原氏によって牛耳られていましたので、臼井城が原氏ならびに千葉一族の本拠、といっても言い過ぎではないでしょう。それは同時に下総における北条氏の一級支城であることも意味します。謙信が千葉胤富の本拠・本佐倉城ではなく、この臼井城を攻めているのがなによりこの臼井城の重要さを端的に顕しているような気がします。

臼井城の主要部は現在は城址公園になっています。お城の周囲は深い堀と急崖、そして印旛沼に守られた要害でした。現在は印旛沼の水位が低くなっていますので、沼は遠く離れていますが、本丸からはよく見渡すことが出来ます。城攻めの名人・謙信もさすがに攻めあぐねたようです。周囲には同じような舌状台地がせり出しており、支城として機能していたと思われます。というより、周囲の台地全体を取り込んだ、ある種の惣構え的な発想を盛り込んだ、千葉氏系城郭の中でも有数の規模を誇る大城郭であったようです。ただ、周辺は宅地化が激しく、こうした惣構えや衛星状に配置された支城網はほとんど見る影はありません(注:遺構の良く残る臼井田宿内砦を見てきました)。それでも、臼井城の主要部である城址公園を訪れると、その曲輪の広さや、堀の規模などはさすが、と思わせるものはあります。余談ですが、佐倉市周辺はこうした中世城館がたくさん残っていて、とても好きなエリアです。

遺構は、二郭の外堀や主郭と二郭の間の堀は深さも幅も見事なのですが、最初の訪問時は真夏でしたので堀の底には雑草が生い茂り、あまりいい写真が撮れませんでした。再度12月に訪問した際には雑草も刈り取られ、綺麗に遺構を確認することが出来ました。二郭周囲の堀の深さは絶品です。

印旛沼沿岸から望む臼井城。かつては沼が城の直下を洗う、下総有数の堅城でした。 住宅地の背後に聳える臼井城の塁壁。ここに入る道はちょっと分かりづらいです。
二郭を取り巻く深〜い堀。地元の方によるものなのか、綺麗に下草が刈られていました。もともとの臼井城は現在公園化されている、この二郭まで程度のお城だったでしょう。 この車一台ギリギリの車道が二郭と外城(三郭)を結ぶ土橋です。写真右手は深い堀、左手は天然の深い谷津が食い込んでいます。

堀底に降りてみると、その規模の大きさがよ〜く分かります。スゴイです。素晴らしいです。

堀底から。以前はどこぞの阿呆が捨てていった原チャリが転がっていた。今回は事務用の椅子や、ペットボトル等の廃棄物が。せっかく綺麗に下草刈ってくれる人もいるのに心無い・・・。許せん!

広大な二郭。家族やイヌの格好の遊び場ですが、この日は誰もいませんでした。綺麗なトイレもあり、公園としても安心して訪れることができますね。

二郭から主郭へと向かう虎口の土橋。両側は大きな堀となっています。遺構保護のため土盛りがされて、表面はコンクリ舗装されています。

二郭と主郭を区切る堀。これも遺構保護の観点、あるいは事故防止の観点からか、埋められているようです。 主郭の北側の腰曲輪を廻って、主郭の堀切を見る。もともとはこれくらいの規模があったんでしょう。
主郭虎口は両側から高い土塁が狙っています。謙信が攻めたとき、「実城堀一重」まで攻め込んだといいますが、このあたりでの攻防もあったんでしょうか。 主郭の北西の土塁。高さは3mほどあり、一段低い二郭から見ると非常に威圧感があります。
印旛沼に突出していた主郭。今では周囲はぐるりと宅地が囲っています。周囲は武者走り状の低い土居に囲まれています。 城嶺夕照、西日が翳る本丸曲輪。「城嶺夕照」とは、江戸期にこの地を訪れた臼井氏の子孫が、遠い祖先の栄華を想って詠んだ詩です。
主郭より青く横たわる印旛沼を見下ろす。かつては沼が城のすぐそばまで迫り、最大の要害であったと同時に、支城網とのネットワークを形成していました。 主郭北の腰曲輪群。この手の千葉氏系城郭で、これほど腰曲輪が折り重なっている姿は、ここでしか見たことがありません。
主郭北、搦手への虎口にある石垣。近世のもので、小規模ではありますが、石垣遺構の少ない千葉県の城址としては貴重な遺構です。 台地下に繋がる搦手。危急時の非難口であるとともに、籠城時の糧道や、印旛沼水運ともかかわりの深い場所でしょう。

広大な外郭、三郭にあたる外城。写真付近はかつて堀切があったであろうと思われる場所。 外城の台地鞍部から、谷津へと通じる堀切。
外城にある星神社、千葉氏一族のお城でおなじみの妙見宮です。屋根には月星の紋が輝いています。 二郭の堀のそばに残る太田資忠(太田図書・太田道灌の弟)の墓。文明十一(1479)年に千葉孝胤を討つため臼井城を攻め、この地で53人の部下とともに討ち死した。

臼井田宿内砦へ

 

 

交通アクセス

東関東自動車道「佐倉」IC車20分。

周辺地情報

佐倉市内には近世城郭・佐倉城、となり町の酒々井町には千葉氏の中世城郭・本佐倉城があります。どちらもオススメ。見て面白いかどうかはともかく、「謙信一夜城」なるモノもあります。印旛沼対岸の支城・師戸城も良好な状態の遺構が見られます。

関連サイト

 

 
参考文献 「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「房総の古城址めぐり(下)」( 府馬清/有峰書店新社)、「さとみ物語」(館山市立博物館)、『臼井城をめぐる攻防戦』(祖田浩一/「戦国の房総を語る」収録、房総歴史文学会/暁印書館)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)、 「上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)、「千葉県中近世城跡研究調査報告書 第4集」(千葉県教育委員会)、「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会/国書刊行会)、現地解説板

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭千葉氏の一族

 

埋もれた古城 表紙 上へ 臼井田宿内砦