決戦の「渡河点」を見下ろす丘

松戸城

まつどじょう Matsudo-Jo

別名:松渡城

千葉県松戸市松戸

(戸定が丘歴史公園)

 

城の種別

平山城

築城時期

不明(寛正六・1465年ごろ?)

築城者

不明(原信濃入道?)

主要城主

原氏、里見氏、高城氏

遺構

曲輪、空堀の一部、土塁の一部

葛飾橋から見る松戸城遠景と江戸川<<2002年09月08日>>

歴史

確かな築城時期は不明だが、「古河足利氏世紀」に「寛正六年六月、千葉氏族原信濃入道とその子八郎が上杉氏に叛いて下総松渡城に拠って二総を計略し・・・」とあることから、寛正六(1465)年ごろには原氏によって築かれていたものと思われる。文明年間には太田道灌の配下に属し、永正から永禄に至る時代には里見氏や高城氏に属した。

永禄七(1538)年の第一次国府台合戦では、国府台城付近に布陣する小弓公方軍に対し、北条氏綱・氏康父子の軍は「松渡の渡し」付近から渡河し、「松どのたいといふ山」に先陣を上げた。この「松戸台」が松戸城であるとされる。北東の谷津を挟んだ対岸の相模台城に布陣していた小弓軍先鋒は、義明に渡河中の攻撃を進言するが用いられず、結局相模台城周辺で激戦となり、足利義明は討ち死に、小弓公方は滅亡した。

その後は小金城の支城として、高城筑前守が在城した。天正十八(1590)年の小田原の役で、小金城の開城とともに廃城になったと推測される。

明治時代に入ってから、第十五代将軍徳川慶喜の舎弟で水戸徳川家第十一代、徳川昭武の別邸が置かれ、昭和二十六(1951)年、昭武の子息武定によって土地・建物が松戸市に寄贈され、現在は「戸定が丘歴史公園」「戸定邸」として開放されている。

南関東に二十数年にわたって君臨してきた「小弓公方」足利義明が、一瞬にして屠り去られた「第一次国府台合戦」。江戸川(太日川、当時の利根川)の西岸に着陣した北条氏綱・氏康父子の軍勢は、国府台城の小弓軍の北側、「松渡の渡し」付近、現在のJR松戸駅周辺を敵前渡河します。このとき、松戸城とは指呼の間の距離にある相模台城に布陣していた小弓軍の先鋒、椎津隼人佐らは義明に、「敵が渡河中に討って出るべし」と進言します。しかし義明は「わが軍の士気高く、その必要もなし」、敵の渡河をやすやすと許し、北条軍は難なく対岸の松戸城に陣取ります。この策戦の失敗は明白で、その後義明は御曹司義純、実弟基頼を相次いで失い、半ば自暴自棄だったのか、単騎敵中に突入し、奮戦の挙句に終にその首級を挙げられます。それは、「小弓公方」の滅亡であると同時に、来たるべき北条の関東席捲を予感させる出来事でもありました。

この「第一次国府台合戦」は実際には相模台城周辺が主戦場となったようで、その相模台城に隣接し、しかも北条軍の渡河点を見下ろすこの松戸城は重要な位置を演じました。丘の上、「戸定邸」庭園からは葛飾橋、葛飾大橋付近がよく見晴らせ、戦略上の重要拠点であったことがわかります。なぜ北条が敵前渡河が可能だったか、なぜ小弓軍がより川に近い松戸城に布陣せず、やや奥まった相模台城に布陣したかはよくわかりませんが、おそらく高城氏や原氏など、北条に与する軍勢が先にこの松戸城の丘を占拠していたのでしょう。「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)が説明してくれているように、この当時は「原信濃入道」が立て籠もったといわれる松渡城は廃城となっており、第一次国府台合戦の後に、小金城の高城氏によって再び取り立てられ、戦国城郭の松戸城になったものと思われます。

ここは明治の時代に、水戸徳川家の別邸があり、「戸定台」とも呼ばれています。この「戸定」とは「外城」のことだと言われます。現在は「戸定の丘歴史公園」として整備され、徳川昭武が過ごした「戸定邸」などを見学することもできます。近現代史は僕の守備範囲外ですが、徳川家の好意でこうした場所が市民の憩いの場として、また歴史に触れる場として提供されたことは喜ばしいことです。反面、戦国期の城郭としての松戸城に関しては殆ど案内も無く、遺構も明瞭なものは残りません。常磐線に面した西側斜面にわずかに腰曲輪や堀切・土塁であったであろう残欠などがおぼろげに確認できる程度です。あるいは、現在千葉大学園芸学部校舎の建つ付近(赤発毛台地付近)から国道六号のトンネル付近までは城域であったと比定する考えもあります。(「国府台合戦を点検する」千野原靖方/崙書房)

最初に見学に行ったとき、芝生公園のあづまやで一組の男女が白昼堂々と「セッ○ス」中で、普通に城郭見学をしたかった僕にはおかげでいいものが見られました見学の妨げになりました。こら〜!家帰ってからにしてくれ〜!

江戸川対岸より見る松戸城の丘。「第一次」の北条軍はこのやや上流、松戸の渡しを渡河し、松戸城の丘に布陣しました。 「戸定の丘歴史公園」の萱葺き門。都市化の進む松戸駅前の市街地のすぐそばにあります。
徳川昭武の別邸、戸定邸。ここに来る人はほとんどがココ目当てでしょう。明治の建造です。 戸定邸の廊下。あまりこういう建築物には詳しくありませんが明治の文豪のような気分が味わえます。身近なお散歩スポットとしてはオススメです。
戸定邸の庭園から見下ろす江戸川の葛飾橋付近。この景色がこの場所の戦略的価値を如実に物語っていると言えるでしょう。北条軍は川の向こうから続々と渡河してきました。 戸定邸の庭の隅、近寄れないので詳しくはわかりませんが、土塁の残欠らしきもの。

戸定邸のさらに先にはあづまやの建つ広い芝生公園があります。ここが主郭だったのでしょうか。

公園の南西側斜面の地形。これを堀切と見るかどうかは微妙です。

西側斜面の曲輪跡らしきもの。この下を常磐線の電車がひっきりなしに走っていて、静かに往時を偲ぶ、というわけにはいかないです。

これも西側斜面の地形。腰曲輪に見えますが果たして??

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「三郷」ICから車15分。

JR常磐線・新京成電鉄「松戸」駅より徒歩15分。

周辺地情報

第一次国府台合戦の激戦地、相模台城がすぐ近く。二回の国府台合戦の舞台となった国府台城とあわせて見学。

関連サイト

 

 
参考文献 「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

余湖くんのホームページ

 

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