南関東に二十数年にわたって君臨してきた「小弓公方」足利義明が、一瞬にして屠り去られた「第一次国府台合戦」。江戸川(太日川、当時の利根川)の西岸に着陣した北条氏綱・氏康父子の軍勢は、国府台城の小弓軍の北側、「松渡の渡し」付近、現在のJR松戸駅周辺を敵前渡河します。このとき、松戸城とは指呼の間の距離にある相模台城に布陣していた小弓軍の先鋒、椎津隼人佐らは義明に、「敵が渡河中に討って出るべし」と進言します。しかし義明は「わが軍の士気高く、その必要もなし」、敵の渡河をやすやすと許し、北条軍は難なく対岸の松戸城に陣取ります。この策戦の失敗は明白で、その後義明は御曹司義純、実弟基頼を相次いで失い、半ば自暴自棄だったのか、単騎敵中に突入し、奮戦の挙句に終にその首級を挙げられます。それは、「小弓公方」の滅亡であると同時に、来たるべき北条の関東席捲を予感させる出来事でもありました。
この「第一次国府台合戦」は実際には相模台城周辺が主戦場となったようで、その相模台城に隣接し、しかも北条軍の渡河点を見下ろすこの松戸城は重要な位置を演じました。丘の上、「戸定邸」庭園からは葛飾橋、葛飾大橋付近がよく見晴らせ、戦略上の重要拠点であったことがわかります。なぜ北条が敵前渡河が可能だったか、なぜ小弓軍がより川に近い松戸城に布陣せず、やや奥まった相模台城に布陣したかはよくわかりませんが、おそらく高城氏や原氏など、北条に与する軍勢が先にこの松戸城の丘を占拠していたのでしょう。「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)が説明してくれているように、この当時は「原信濃入道」が立て籠もったといわれる松渡城は廃城となっており、第一次国府台合戦の後に、小金城の高城氏によって再び取り立てられ、戦国城郭の松戸城になったものと思われます。
ここは明治の時代に、水戸徳川家の別邸があり、「戸定台」とも呼ばれています。この「戸定」とは「外城」のことだと言われます。現在は「戸定の丘歴史公園」として整備され、徳川昭武が過ごした「戸定邸」などを見学することもできます。近現代史は僕の守備範囲外ですが、徳川家の好意でこうした場所が市民の憩いの場として、また歴史に触れる場として提供されたことは喜ばしいことです。反面、戦国期の城郭としての松戸城に関しては殆ど案内も無く、遺構も明瞭なものは残りません。常磐線に面した西側斜面にわずかに腰曲輪や堀切・土塁であったであろう残欠などがおぼろげに確認できる程度です。あるいは、現在千葉大学園芸学部校舎の建つ付近(赤発毛台地付近)から国道六号のトンネル付近までは城域であったと比定する考えもあります。(「国府台合戦を点検する」千野原靖方/崙書房)
最初に見学に行ったとき、芝生公園のあづまやで一組の男女が白昼堂々と「セッ○ス」中で、普通に城郭見学をしたかった僕にはおかげでいいものが見られました見学の妨げになりました。こら〜!家帰ってからにしてくれ〜!