秋元城と同じく、永禄七年の第二次国府台合戦で手痛い大敗北を喫した里見氏を追撃した北条軍に陥とされた悲劇の城です。この第二次国府台合戦の敗北は里見氏にとってかなり深刻であったようで、上総中部奥深く、この池和田城や久留里城までもが一時北条の手に渡っています。
この城攻めに当たっては「房総里見軍記」などに記述があり、いくつかの挿話が伝わっています。寄せ手の氏政らは周囲を崖と深田に囲まれた池和田城を攻めあぐね、周囲の民家を打ち壊し、その廃材や矢を堀切の埋め草として撃ち込ませたが、城将の多賀蔵人兄弟や正木大膳亮らの防戦に多くの死傷者を出しなかなか陥とせなかったこと、城内に相州生まれの吉山七郎太郎という者がいて、蔵人に対して恨みを抱いていたのを察知し調略、内応させ深夜に放火、城が陥落したこと、などです。このとき、誰かの手で
正木にてゆひたる桶の多賀きれて水もたまらぬ池の和田かな
という落首が立てられたとか。その後、多賀兄弟と正木大膳亮が城を奪回、今度は
正木にてゆひたる桶の多賀強く水も漏らさぬ池の和田かな
とやり返したとか。この辺はいかにも軍記物っぽくてあんまり信用できませんけどね。また、多賀蔵人の奥方と侍女は城を脱出し矢田まで落ち延びたが、トウモロコシの葉の音を追手と思い込み自害した、という悲話も伝わり、この地方の人々は明治・大正の頃までトウモロコシを栽培しなかった、などという話もあります。ただ、肝心の池和田城合戦がいつあったのか、ということに関しては諸説あるようです。ここでは第二次国府台合戦直後、という説をとりました。
地勢的には養老川の崖と盆地状の平地に囲まれ、真里谷城と庁南城の中間に位置する上、大多喜街道や茂原方面への街道などが交差する交通の要衝で、なるほどいかもに城を建てたくなる場所ではあります。築城は古く鎌倉時代の和田氏といわれますが、その後は上総武田氏の支城として取り立てられていたようです。半島状の舌状台地の頂部を主郭に、背面の尾根を堀切で断ち切り、先端部の斜面を腰曲輪で守る縄張りは、椎津城とも共通する部分があります。これが千葉氏系の城郭だと主郭と他の曲輪の位置関係が逆になり、先端部に主郭がくるケースが多いのですが、同じような地形でも築城者の意図によって個性が出るものですね。里見氏の支城になってからは養老川中流域の支配と交通監視の城として重要な位置付けにあり、この第二次国府台合戦では古河公方・足利義氏がわざわざ池和田城の陥落を書状で披露しています。小城ながら、重要な拠点であったことが伺われます。
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主郭の背後の鶴舞方面を断ち切る堀切は道路になっており、ここに池和田城跡の標柱が建つ。整備は主郭付近だけですが、市原市はこういう標柱はしっかり建てているようです。 |
主郭背後の古井戸。今でも水が湧き出ており、周囲を流れています。 |
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天神社が祀られる主郭。周囲は部分的に低い土塁があります。周囲は腰曲輪群で固められた急斜面。 |
主郭付近には城主子孫・多賀氏四十五代の多賀正弘氏の記念植樹が。里見氏重臣(実は庁南武田氏重臣)の血が脈々と現代に伝わっています。感動。 |
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上総のお城につきもののヤグラ(横穴墓)らしきもの。沢山のヤグラを見てきたが、なかなか入る度胸がない。ちなみにここはちゃんと「入ってはいけません」と書いてあります。 |
腰曲輪群のなかで際立って高い突端状の曲輪。小さな祠があります。物見台跡かな?低い土塁もありました。 |
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腰曲輪にあった土塁。この下はほぼ垂直な崖で、その先には数軒の民家が建っています。 |
城址先端部からの眺め。狭い平地に北条氏政の大軍が現れ、この城を飲み込んでいきました。 |