三国相争う西上州の縮図

倉賀野城

くらがのじょう Kuragano-Jo

別名:

群馬県高崎市倉賀野町

城の種別

平城(崖端城)

築城時期

応永年間(1400年頃)

築城者

倉賀野頼行

主要城主

倉賀野氏、金井氏

遺構

なし

倉賀野城本丸跡より見る烏川の流れ<<2002年12月29日>>

歴史

武蔵児玉党の児玉弘行の孫、経行の末子行重が秩父重綱の養子となり、その三子高俊がはじめて倉賀野に移った。高俊は治承四年、源頼朝に従って石橋山合戦に敗れ、安房に落ちたが、その後倉賀野に落ち着いて倉賀野三郎と名乗った。南北朝時代に倉賀野頼行が倉賀野城を築城したという。

戦国期には倉賀野氏は関東管領・山内上杉氏に仕え、天文十五(1546)年の河越夜戦にも従軍、倉賀野三河守行政は討ち死にした。その後は金井小源太、福田加賀守、富田伊勢守、須田大隈守、田沼庄衛門ら「倉賀野十六騎」が協力して倉賀野城を守った。天文十六(1547)年、上杉憲政が武田晴信(信玄)に攻撃を受けている信濃志賀城の後詰に出陣した際は、くじ引きによって先陣が選ばれ、倉賀野十六騎の金井秀景が先陣として参戦した(小田井原合戦)。

弘治三(1557)年以降、武田晴信(信玄)による西上州侵攻が度々繰り返されたが、箕輪城主・長野業政は鷹留城倉賀野城などの支城網を駆使して、都度これを撃退している。しかし金井秀景は永禄二(1559)年九月、信玄が板鼻に陣取った際に従ったとあり、倉賀野城で内部分裂があったとも見られている。

永禄三(1560)年、上杉謙信が関東に出陣すると、倉賀野左衛門五郎尚行はこれに従い、翌永禄四(1561)年の小田原城攻撃にも参加した。この年十二月には北条・武田が巻き返しに出て、倉賀野城も攻撃された。尚行は橋爪若狭守に助けられたという。永禄五(1562)年には信玄が箕輪城倉賀野城などの城下を荒らしまわり、田畠薙ぎを行っている。永禄六(1563)年、和田城主・和田業繁が武田に寝返り、十二月までに甘楽・多野地方を手中に収めて北条氏康とともに倉賀野城に攻めた。このとき、上杉謙信は倉賀野城救援のため越山し、厩橋城を本陣に、和田城を攻めた。このため信玄・氏康は倉賀野城包囲を解いて、金山城の由良成繁を攻めている。しかし永禄八(1565)年六月、倉賀野城は落城、孤立した箕輪城は永禄九(1566)年九月二十九日落城、箕輪城主の長野業盛は自刃した。倉賀野尚行は上杉謙信を頼り倉賀野城奪還を企てたが、信玄は大熊伊賀守を入れて守らせ、飫富・真田・相木・望月らの諸将を援軍として送った。

永禄十二(1569)年、甲相駿三国同盟が崩壊し北条氏康と上杉謙信が同盟すると、信玄は石倉の砦を強化し、倉賀野城西南に根小屋城を築いて越相同盟に対抗した。元亀元(1570)年、北条氏政が上杉謙信との同盟を破棄したころ、金井秀景が倉賀野城主となり、倉賀野淡路守秀景と名乗った。天正十(1582)年三月、武田氏が、滅亡すると倉賀野秀景は厩橋城に進出した織田信長の将・滝川一益に従った。しかし六月二日の本能寺の変で信長は横死、六月十九日、一益は神流川金窪原で北条氏直と闘った(神流川合戦、金窪合戦)。このとき倉賀野秀景は奮闘して北条の先鋒を撃破したが、滝川軍は損害が大きく倉賀野城に撤退、翌日には松井田城へと去った。滝川一益撤退後は秀景は北条氏直に従い、倉賀野城には垪和伯耆守広忠が派遣されて北武蔵と上州の政務に当たった。

天正十八(1590)年の小田原の役では、倉賀野秀景は小田原城に籠城して早川口を守備、倉賀野城は少数の兵が守っていた。しかし碓氷峠から侵入した前田利家、上杉景勝らの大軍の前に倉賀野城は降伏開城し、廃城となった。秀景は小田原城開城直後の七月二十七日に死去している。

烏川に面した段丘上にあったお城。信玄の執拗な箕輪城攻めで真っ先にターゲットにされた支城のひとつでもあります。しかし強力なリーダーシップを発揮できる城主が不在であるにもかかわらず「倉賀野十六騎」といわれる面々は奮闘、甲相越の「関東三国志」が相争う戦乱の真っ只中で倉賀野城は簡単には落城せず、箕輪城を守る有力支城として機能します。若き箕輪城主・長野業盛が最も頼りにしていた支城がこの倉賀野城であったともいわれます。しかしついに倉賀野城は落城、信玄はここぞとばかりに大軍を繰り出し、支城網を寸断した上で箕輪城を包囲、支えきれずに業盛は自刃し箕輪城も落城します。そういう意味では箕輪城の命運を決めたお城でもあるわけです。また、この倉賀野城救援のために越山した謙信は厩橋城を拠点に和田城攻めや、越軍に叛旗を翻した小田城主・小田氏治らと闘ったりしているのですが、その兵糧調達を担当していた里見義弘、太田三楽斎資正らが下総国府台城で北条軍の急襲を受けて壊滅的打撃を蒙ったりしています(第二次国府台合戦)。この倉賀野城という西上州の小さなお城での出来事が、遠く常陸・下総の軍事バランス、ひいては関東の主導権にまで影響を及ぼしてしまったわけです。

武田軍に従った金井秀景という人物もなかなか面白い。いち早く武田に奔り、かと思えば武田滅亡後に滝川一益とはかなり深い信頼関係を築いていたようで、一益が上州から撤退する前夜の宴では、一益が鼓をとって打ち鳴らし「つわものの交り、頼みある中の」と謡えば、金井秀景は拍子を取って「名残、今は鳴く鳥々の」と謡って杯をさし、扇を取って舞い、別れを惜しんだ、といいます。この後、秀景は木曽路まで一益を見送った、といいますから、単に大勢力に従わざるを得ない小豪族の運命、などというものではないような感じです。かと思えば北条氏に従って、ついに小田原城開城までお付き合いするなど、変わり身も早いが付き合いもいい奴、という気がします。

倉賀野城周囲は新興住宅地になって遺構は全くなく、城址碑と烏川に面した断崖が辛うじてそこに倉賀野城があったことを示しています。「倉賀野城址」の碑が建つ小公園を探して30分以上迷走し、地元のオジサンに道を聞きつつようやくたどり着きました。烏川に面した南側は断崖と言うほどではないものの、烏川はいまでも十分水量が多く急流で、南側の川から攻めるのは不可能、でもそうなると、残る三方がどんなであったのか、余計に興味をそそります。参考書の絵図なんか見ると、空堀が廻らされ丸馬出しなんかもあって、完存していたら相当素晴らしいお城なんじゃないかと思いますが、綺麗に碁盤の目状に造成された新興住宅地にその痕跡を探そうという気力はなく、暮れゆく景色だけを眺めて帰ってきました。

変わり果てた倉賀野城本丸。烏川に面した「雁児童公園」になっていますが、城郭遺構らしきものはおそらくどこにも無いでしょう。 わずかに「倉賀野城跡」の石碑と、簡単な解説板だけが倉賀野城の存在を物語っているようです。

本丸直下を洗う烏川。今でも十分水量も多く、急流ですが、治水の進んでいないかつてはもっと水量も多く、南側から攻めることは不可能だったでしょう。

烏川対岸からの倉賀野城遠景。広大な河川敷は高崎市民ゴルフ場に。しかし風が寒かった。。。遠く聳える浅間山の雪化粧が美しかった。

 

交通アクセス

JR高崎線「倉賀野」駅徒歩5分。

関越自動車道「高崎」ICまたは上信越自動車道「藤岡」ICより車10分。

周辺地情報

武田軍が築いた根小屋城、隣接する山名城が素晴らしかった。

関連サイト

 

 
参考文献 別冊歴史読本「戦国古城」(新人物往来社)、「群馬の古城」(山崎一/あかぎ出版)、「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

武田調略隊がゆく

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