今も昔も上州の中心地

前橋城

まえばしじょう Maebashi-Jo

別名:厩橋城

群馬県前橋市大手町

(群馬県庁・前橋公園周辺)

城の種別

中世〜近世平城

築城時期

延徳年間(1489〜1492)?

築城者

長野賢忠?

主要城主

長野氏、北条氏(きたじょう・越後上杉氏属将)、滝川一益、平岩親吉等

遺構

土塁

群馬県庁展望台より俯瞰する前橋城址<<2001年8月17日>>

歴史

築城については太田道灌をはじめ諸説あるが、延徳年間(1490)頃に長尾忠房が石倉の地に築城したのがはじまりとされる。この最初の城は利根川の氾濫、侵食により押し流され、箕輪城に拠る長野氏の一族、長野賢忠により、残った三ノ丸を中心に再建され、箕輪城の支城となったという。長野賢忠は兄の箕輪城主・長野信業とともに蒼海城主・長尾顕景を圧迫した。天文十年には賢忠の勢力は膳・山上にも及んだが、金山城を攻めて敗れてから勢力を失った。天文二十年に平井城主・上杉憲政が越後春日山城へ亡命すると賢忠の子、道安は北条に高福祉、福島頼季、師岡山城守などが進駐した。

永禄三(1560)年以降、十三回とも言われる上杉謙信の関東出陣の際の駐留拠点となり、永禄六(1563)年には城代として越後北条城主・北条(きたじょう)高広を置いた。高広は一時謙信に叛き小田原北条氏に通じたが、越相同盟の際に上杉方に帰参した。元亀二年、十月十一日、謙信は厩橋城を出て、武田方の箕輪城主・内藤昌豊と対陣したが抗戦することなく撤退している。謙信は厩橋城で越年し、翌年正月三日、北条高広に命じて武田方の石倉城を攻め落としたが、武田軍が後詰を派遣したため高広は石倉城を破却して、川を挟んで両軍が対峙した。

天正六(1578)年に謙信が死去すると、上杉氏の跡目相続を巡り御館の乱が勃発、高広とその子景広は北条氏康の実子、上杉三郎景虎に与したが、景広は天正七年二月一日に討ち死にし、高広も厩橋城に帰った。

天正七(1579)年に高広は武田勝頼に降伏開城、天正十(1582)年に武田氏が織田信長によって滅ぶと、関東に赴任した滝川一益に開城。しかし本能寺の変により信長が横死すると一益は神流川合戦で北条氏邦に完敗し関東から撤退、厩橋城と高広は小田原北条氏に降った。

天正十八(1590)年の小田原の役では浅野長政らの軍勢に攻められ落城、小田原北条氏が滅ぶと徳川家康は譜代の平岩親吉を厩橋に置いた。

平岩氏に嫡子なく、江戸期は酒井氏九代−松平氏を城主が変遷した。松平氏入封当時は利根川の氾濫による崩壊や地震、大火などの災害により城は著しく荒廃し、明和五年(1768)、松平朝矩は幕府の許可を得て武蔵川越に移転し一旦城は廃城となった。前橋には川越の支藩として陣屋が置かれた。幕末近くの文久三(1863)年に前橋城は再興され松平氏が入封し廃藩置県により廃城となった。

いわずと知れた、越後上杉軍団の関東方面駐屯地ですね。マイナー小悪党・北条高広クン(北条城主)が城代を勤めた城でもあります。

都市の平城の例に漏れず、名城・前橋城も城址周辺の都市化が進み、遺構は土塁の一部だけ、という寂しさです。が、ここの楽しみは群馬県庁展望台から城址を俯瞰できることと、利根川左岸の段丘上に築城された、当時の地形があまり変わっていないことです。加えて、数少ない土塁の見事さは特筆モノで、とくに現県庁である本丸の北側を中心とした土塁は圧倒的な迫力があります。病的土塁マニアにはオススメですね。

県庁北側、高浜門跡の付近。門跡らしさを残す唯一の箇所です。 その高浜門付近の土塁。高さ、幅、形とも、圧倒的な迫力があります。
前橋公園。三ノ丸外郭にあたります。本丸跡には県庁が、二ノ丸には前橋市役所、三ノ丸には地裁と、主要城域はほとんど公共施設になっています。 前橋公園の土塁。土塁上の鉢巻状の石垣は遺構ではありません。空堀跡などもあるようですが、殆どわかりませんでした。
県庁北東の土塁上に立つ城址の碑。 利根川の左岸の段丘上(写真右端)一帯が前橋城址です。天気がよければ赤城の山々がよく見えたことでしょう。

 

交通アクセス

群馬県庁を目指しましょう。

周辺地情報

何はともあれ箕輪城に行こう。 

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)、「上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)、 「関東三国志」(学研「戦国群像シリーズ」)、現地解説板

参考サイト

からっ風倶楽部

 

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