築城については太田道灌をはじめ諸説あるが、延徳年間(1490)頃に長尾忠房が石倉の地に築城したのがはじまりとされる。この最初の城は利根川の氾濫、侵食により押し流され、箕輪城に拠る長野氏の一族、長野賢忠により、残った三ノ丸を中心に再建され、箕輪城の支城となったという。長野賢忠は兄の箕輪城主・長野信業とともに蒼海城主・長尾顕景を圧迫した。天文十年には賢忠の勢力は膳・山上にも及んだが、金山城を攻めて敗れてから勢力を失った。天文二十年に平井城主・上杉憲政が越後春日山城へ亡命すると賢忠の子、道安は北条に高福祉、福島頼季、師岡山城守などが進駐した。
永禄三(1560)年以降、十三回とも言われる上杉謙信の関東出陣の際の駐留拠点となり、永禄六(1563)年には城代として越後北条城主・北条(きたじょう)高広を置いた。高広は一時謙信に叛き小田原北条氏に通じたが、越相同盟の際に上杉方に帰参した。元亀二年、十月十一日、謙信は厩橋城を出て、武田方の箕輪城主・内藤昌豊と対陣したが抗戦することなく撤退している。謙信は厩橋城で越年し、翌年正月三日、北条高広に命じて武田方の石倉城を攻め落としたが、武田軍が後詰を派遣したため高広は石倉城を破却して、川を挟んで両軍が対峙した。
天正六(1578)年に謙信が死去すると、上杉氏の跡目相続を巡り御館の乱が勃発、高広とその子景広は北条氏康の実子、上杉三郎景虎に与したが、景広は天正七年二月一日に討ち死にし、高広も厩橋城に帰った。
天正七(1579)年に高広は武田勝頼に降伏開城、天正十(1582)年に武田氏が織田信長によって滅ぶと、関東に赴任した滝川一益に開城。しかし本能寺の変により信長が横死すると一益は神流川合戦で北条氏邦に完敗し関東から撤退、厩橋城と高広は小田原北条氏に降った。
天正十八(1590)年の小田原の役では浅野長政らの軍勢に攻められ落城、小田原北条氏が滅ぶと徳川家康は譜代の平岩親吉を厩橋に置いた。
平岩氏に嫡子なく、江戸期は酒井氏九代−松平氏を城主が変遷した。松平氏入封当時は利根川の氾濫による崩壊や地震、大火などの災害により城は著しく荒廃し、明和五年(1768)、松平朝矩は幕府の許可を得て武蔵川越に移転し一旦城は廃城となった。前橋には川越の支藩として陣屋が置かれた。幕末近くの文久三(1863)年に前橋城は再興され松平氏が入封し廃藩置県により廃城となった。