大国の狭間に消えた小豪族の悲劇

箕輪城

みのわじょう Minowa-Jo

別名:

群馬県群馬郡箕郷町西明屋字城山

城の種別

中世平山城

築城時期

永正九(1512)年、または大永六(1526)年

築城者

長野尚業

主要城主

長野氏、内藤氏、北条氏、井伊氏

遺構

曲輪、堀切、土塁、石垣、土橋、虎口、埋門跡 他

鍛冶曲輪から見る大堀切<<2003年03月22日>>

歴史

上野国長野郷出自の豪族、長野尚業が永正九(1512)年、あるいは大永六(1526)年に築いたとも、明応年間に尚業が鷹留城を築き、その子憲業が築いたともいわれる。それ以前から長野氏が居住していたという説もある。長野氏は関東管領・山内上杉氏に被官した。

長野業政は上杉憲政の重臣として関東管領を支え、十二人の娘を近隣の諸侯に嫁がせるなど、血縁をもって西上州周辺の盟主となった。天文十(1541)年に海野平の合戦で敗れ羽根尾城に逃れていた海野棟綱、真田幸隆らを一時、食客として箕輪城内に住まわせていたこともある。

天文十五(1546)年、河越城を包囲した山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏軍は北条氏康と河越城将の北条綱成に敗れ、上杉憲政は上野平井城に退いた(河越夜戦)。この時、長野業政も上杉軍として加わり、業政の嫡子、吉業は重傷を負ってその後死亡した。翌天文十六(1547)年、上杉憲政が武田晴信(のちの信玄)に攻撃されていた信濃志賀城を後詰するために佐久方面へ出陣した際には、出兵反対を唱えて軍議の席を立っている。

天文二十(1551)年二月、北条氏康は二万の軍勢を率いて平井城攻めのために小田原城を進発、武蔵・上野国境の神流川を挟んで対陣、激戦の末、北条綱成、康成(氏繁)らの活躍で北条が勝利し、憲政は平井城に立て籠った(神流川合戦)。この合戦でも長野業政は上杉憲政を援け奮戦した。氏康は深追いせずに一旦兵を退き、同年秋に再び平井城に向けて進発した。憲政は翌天文二十一(1552)年二月十日、50名の供を従えて平井城を脱出し、春日山城の長尾景虎を頼り越後に逃れた。この後も業政は北条に降伏せず抗戦している。

天文二十三(1554)年、甲相駿三国同盟が成立、北条氏康は武田信玄に西上野の侵攻を促した。信玄は北条氏康の東武蔵、下野進出に呼応し弘治三(1557)年四月九日、嫡子義信を総大将に、飫富虎昌、飫富(山県)昌景、内藤昌豊、馬場信房、諸角昌清ら一万三千を碓氷の瓶尻に派兵、長野軍は敗れて箕輪城に退いた。四月十二日、武田軍は箕輪城を攻めたが損害が大きく、長尾景虎が川中島に出陣したとの報を受けて武田軍は兵を退いた(瓶尻合戦)。この年の八月、十月にも武田軍は箕輪城を攻撃したが、周辺の田畠を荒らして帰陣したという。

永禄二(1559)年九月、信玄は自ら兵一万二千を率いて西上野を攻め、松井田城、安中城周辺の田畠を荒らして箕輪城に迫った、長野業政は鉄砲を駆使して武田軍四、五百を討ち取り、信玄は撤退、十月には甲府躑躅ヶ崎館に帰陣した。

永禄三(1560)年上杉謙信が越山し、翌永禄四(1561)年三月に小田原城を攻めたが、この頃長野業政は死去し、小田原城攻撃にはその子業盛が加わっている。

永禄四(1561)年、信玄は国峰城を攻略、松井田城にも経略を仕掛けた。永禄六(1563)年、和田城主・和田業繁が武田に寝返り、十二月までに甘楽・多野地方を手中に収めて倉賀野城に攻めかかったが落城しなかった。箕輪城の城兵は板鼻、若田ヶ原などでこれを迎え撃った。翌永禄七(1564)年には松井田城、安中城も陥落、永禄八(1565)年には倉賀野城も落城し箕輪城は孤立した。

永禄九(1566)年、信玄は二万の大軍で侵攻、那波無理之助宗安が高浜砦を急襲、一時はこれを奪取したが箕輪城から救援に向かった安藤九郎左衛門勝通、青柳金王らによって奪回した。しかし武田方の小宮山らが里見城・雉郷城を陥とし、箕輪城鷹留城の連絡を分断した。鷹留城将の長野業通は数百の手勢で善戦したが鷹留城は落城し、業通らは吾妻に逃れた。両軍主力は九月二十八日、若田ヶ原で激戦となり、長野軍も善戦したが、数に勝る武田軍に押されて箕輪城に引き籠った。九月二十九日払暁より武田軍は新曲輪方面から箕輪城を攻めた。城兵千五百は銃撃戦で武田軍六百を討ち取り、城主の業盛自身が城門から討って出るなど奮戦したが敵わず、御前曲輪の持仏道で自刃し、箕輪城は落城した。

信玄は箕輪城を内藤昌豊に預けて西上州の拠点としたが、昌豊は天正三(1575)年に長篠・設楽ヶ原合戦で討ち死に、その子大和守昌武(昌月)が嗣いだ。しかし天正十(1582)年、武田氏の滅亡を前に二月二十八日に北条氏邦が進駐、その氏邦を滝川一益が追い箕輪城に入城した後に厩橋城に移った。しかし六月二日、本能寺の変で織田信長が横死、六月十九日に一益は神流川合戦で敗れて去ると、ふたたび氏邦が占拠、内藤昌武はこれに従った。天正十八(1590)年の小田原の役では、垪和氏・保科氏が守備していたが、前田利家・上杉景勝の北国軍の前に四月二十四日、闘わずに降伏開城した。

関東に入封した徳川家康によって、箕輪城には井伊直政が十二万石で任じられ、大改修が施されたが、慶長三(1598)年、和田城を改修して移ったため、廃城となった。

西上州の雄、長野業政は落日の関東管領・山内上杉氏をよく支え、上杉憲政が平井城を追われてからも北条や武田の進攻に屈することなく闘いつづけた、孤高の武人でありました。業政は十二人の娘を周辺諸侯に嫁がせて縁戚となり、箕輪城の周囲には大小三百二ともいう多くの支城網を築いて、小豪族が割拠した西上州でも頭目とされる豪族となりました。業政や、岩槻城の太田三楽斎みたいな人物がいなかったら、上杉氏はもっと早く滅亡していたかもしれません。例の河越夜戦や、北条氏康の平井城攻めなどの際にも果敢に闘っており、河越夜戦の際は嫡子の吉業を失っています。また業政は、剛毅であると同時に理由のない戦は好まなかったようで、上杉憲政が武田信玄と戦うべく佐久へ兵を進めた際には、「上杉家中の統率もままならぬのに、遺恨のない武田を敵に回すなど賛同できぬ」と軍議の席を立ってしまったといいます。闘う武人としてだけでなく、心底「剛の者」、というか、いかにも坂東武者らしい人柄が想像されます。その武田信玄が西上州に進攻すると、業政はその矢面に立たされることとなりますが、駆け引きが巧みな上、堅固な箕輪城とその支城網を駆使して信玄を攪乱、何度も撃退していたようです。さすがの信玄もかなりカリカリしていたでしょう。

そんな業政も老いと病には勝てず、ここ箕輪城で息を引き取ります。若き跡嗣、業盛に向かって残した遺言は凄まじいものでした。

「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし。」

我が子に「城を枕に討ち死にせよ」とは、あまりに凄まじい遺言ではないでしょうか。その業盛が父・業政の死を固く秘匿したにもかかわらず、ついに信玄はそれを察知、何度も煮え湯を飲まされつづけてきた信玄は、ここぞとばかり三万の大軍で箕輪城を包囲します。新曲輪方面から攻め付けた武田軍の先陣を切るのは、若き武田勝頼、これが初陣でした。対する城兵、わずか千五百。鷹留城倉賀野城などの支城網も落とされ、奮戦するもののやはり多勢に無勢、ついに終焉のときを迎えます。

「暫時の命を惜しみて不慮の横死などせば、父の遺訓に背き、祖先の名をも汚すべし。」若き業盛は、重臣たちが再起を決して落ち延びることを提言しても首を縦に振らず、母や妻子に別れを告げ、父の位牌の前で三度礼拝した後、本丸の奥、御前曲輪の持仏堂で静かに腹を切って短くもはかない生涯を終えました。

春風に 梅も桜も散り果てて 名のみぞ残るみわの山里

若き城主、業盛は十九歳(十七歳とも)。今で言えば、高校生か、大学生にあたるこの若者は、周囲に幾重にも風林火山はためく中、榛名の山に沈む夕陽を彼はどんな想いで見ていたのでしょうか。 

榛名山麓の台地上にこんもりと突き出た丘に箕輪城はあります。ぱっと見た目ではそれほど要害であるようには見えないのですが、自然地形に大規模な普請を加えて、人工の要害としていたことがわかります。城域は非常に広く、外郭には榛名白川や椿名沼などを控え、周囲には多くの支城網を張り巡らせた、堅固なお城でした。本丸、御前曲輪といった城内中枢部をめぐる堀の見事さもさることながら、城内を二分する大堀切のスゴさは必見です。ちょうど先日、二度目の見学に行った際に、二ノ丸から郭馬出しにかけて発掘作業をやっていたため、郭馬出しの土橋が通行禁止になっていました。今更こんなことに気づくというのも恐縮なんですが、ここを通れないと大堀切の北と南が完全に分断されちゃうんですよね。四百年以上たってもその一城別郭構造で我々現代人を翻弄するとは!恐るべし、箕輪城縄張の妙!また、築城時と廃城時で、大手と搦手が逆になった、珍しい城でもあります。

このサイトを立ち上げた頃、遠藤周作の「埋もれた古城」をたまたま入手して読んでみたのですが、最初に紹介されていたのが箕輪城でした。遠藤先生も、三大勢力の中で滅亡せざるを得なかった長野氏のような小豪族に限りない愛着と哀愁を感じているようで、おこがましい物言いですが、「自分と同じような感性を持っているんだなあ」と感じました。このサイトの名前も、この本から頂いております。この項とは直接関係ありませんが、この遠藤周作先生の歴史小説は、人間に対する愛情と哀愁と苦悩が感じられて、どれも好きです。「反逆」「男の一生」などの作品、機会があったら読んでみてください。

箕輪城めぐり(1)  箕輪城めぐり(2)

 

交通アクセス

関越自動車道「高崎」IC車20分。

JR高崎駅よりバス。

周辺地情報

箕輪城の支城群である鷹留城高崎城後閑城など。信玄の陣城なんてのもあるらしい。鷹ノ巣城も探してみましたが見つからず。

関連サイト

 

 
参考文献 「関東三国志」(学研「戦国群像シリーズ」)、別冊歴史読本「戦国古城」(新人物往来社)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、「歴史と旅 1974.09号」(秋田書店)、「群馬の古城」(山崎一/あかぎ出版)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「関八州古戦録」(ニュートンプレス)、エッセイ「埋もれた古城」(遠藤周作)、現地解説板、現地配布資料

参考サイト

群馬の城郭からっ風倶楽部

 

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