上野国長野郷出自の豪族、長野尚業が永正九(1512)年、あるいは大永六(1526)年に築いたとも、明応年間に尚業が鷹留城を築き、その子憲業が築いたともいわれる。それ以前から長野氏が居住していたという説もある。長野氏は関東管領・山内上杉氏に被官した。
長野業政は上杉憲政の重臣として関東管領を支え、十二人の娘を近隣の諸侯に嫁がせるなど、血縁をもって西上州周辺の盟主となった。天文十(1541)年に海野平の合戦で敗れ羽根尾城に逃れていた海野棟綱、真田幸隆らを一時、食客として箕輪城内に住まわせていたこともある。
天文十五(1546)年、河越城を包囲した山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏軍は北条氏康と河越城将の北条綱成に敗れ、上杉憲政は上野平井城に退いた(河越夜戦)。この時、長野業政も上杉軍として加わり、業政の嫡子、吉業は重傷を負ってその後死亡した。翌天文十六(1547)年、上杉憲政が武田晴信(のちの信玄)に攻撃されていた信濃志賀城を後詰するために佐久方面へ出陣した際には、出兵反対を唱えて軍議の席を立っている。
天文二十(1551)年二月、北条氏康は二万の軍勢を率いて平井城攻めのために小田原城を進発、武蔵・上野国境の神流川を挟んで対陣、激戦の末、北条綱成、康成(氏繁)らの活躍で北条が勝利し、憲政は平井城に立て籠った(神流川合戦)。この合戦でも長野業政は上杉憲政を援け奮戦した。氏康は深追いせずに一旦兵を退き、同年秋に再び平井城に向けて進発した。憲政は翌天文二十一(1552)年二月十日、50名の供を従えて平井城を脱出し、春日山城の長尾景虎を頼り越後に逃れた。この後も業政は北条に降伏せず抗戦している。
天文二十三(1554)年、甲相駿三国同盟が成立、北条氏康は武田信玄に西上野の侵攻を促した。信玄は北条氏康の東武蔵、下野進出に呼応し弘治三(1557)年四月九日、嫡子義信を総大将に、飫富虎昌、飫富(山県)昌景、内藤昌豊、馬場信房、諸角昌清ら一万三千を碓氷の瓶尻に派兵、長野軍は敗れて箕輪城に退いた。四月十二日、武田軍は箕輪城を攻めたが損害が大きく、長尾景虎が川中島に出陣したとの報を受けて武田軍は兵を退いた(瓶尻合戦)。この年の八月、十月にも武田軍は箕輪城を攻撃したが、周辺の田畠を荒らして帰陣したという。
永禄二(1559)年九月、信玄は自ら兵一万二千を率いて西上野を攻め、松井田城、安中城周辺の田畠を荒らして箕輪城に迫った、長野業政は鉄砲を駆使して武田軍四、五百を討ち取り、信玄は撤退、十月には甲府躑躅ヶ崎館に帰陣した。
永禄三(1560)年上杉謙信が越山し、翌永禄四(1561)年三月に小田原城を攻めたが、この頃長野業政は死去し、小田原城攻撃にはその子業盛が加わっている。
永禄四(1561)年、信玄は国峰城を攻略、松井田城にも経略を仕掛けた。永禄六(1563)年、和田城主・和田業繁が武田に寝返り、十二月までに甘楽・多野地方を手中に収めて倉賀野城に攻めかかったが落城しなかった。箕輪城の城兵は板鼻、若田ヶ原などでこれを迎え撃った。翌永禄七(1564)年には松井田城、安中城も陥落、永禄八(1565)年には倉賀野城も落城し箕輪城は孤立した。
永禄九(1566)年、信玄は二万の大軍で侵攻、那波無理之助宗安が高浜砦を急襲、一時はこれを奪取したが箕輪城から救援に向かった安藤九郎左衛門勝通、青柳金王らによって奪回した。しかし武田方の小宮山らが里見城・雉郷城を陥とし、箕輪城・鷹留城の連絡を分断した。鷹留城将の長野業通は数百の手勢で善戦したが鷹留城は落城し、業通らは吾妻に逃れた。両軍主力は九月二十八日、若田ヶ原で激戦となり、長野軍も善戦したが、数に勝る武田軍に押されて箕輪城に引き籠った。九月二十九日払暁より武田軍は新曲輪方面から箕輪城を攻めた。城兵千五百は銃撃戦で武田軍六百を討ち取り、城主の業盛自身が城門から討って出るなど奮戦したが敵わず、御前曲輪の持仏道で自刃し、箕輪城は落城した。
信玄は箕輪城を内藤昌豊に預けて西上州の拠点としたが、昌豊は天正三(1575)年に長篠・設楽ヶ原合戦で討ち死に、その子大和守昌武(昌月)が嗣いだ。しかし天正十(1582)年、武田氏の滅亡を前に二月二十八日に北条氏邦が進駐、その氏邦を滝川一益が追い箕輪城に入城した後に厩橋城に移った。しかし六月二日、本能寺の変で織田信長が横死、六月十九日に一益は神流川合戦で敗れて去ると、ふたたび氏邦が占拠、内藤昌武はこれに従った。天正十八(1590)年の小田原の役では、垪和氏・保科氏が守備していたが、前田利家・上杉景勝の北国軍の前に四月二十四日、闘わずに降伏開城した。
関東に入封した徳川家康によって、箕輪城には井伊直政が十二万石で任じられ、大改修が施されたが、慶長三(1598)年、和田城を改修して移ったため、廃城となった。