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房総の雄、里見氏のふるさと

里見城

 

さとみじょう Satomi-Jo

別名:

【主郭の堀切】

<<2003年03月22日>> 

所在地

群馬県高崎市下里見町(里見城址公園)【電子国土】

埋もれた古城マップ:群馬編【GoogleMaps】

交通アクセス

JR信越本線「安中」駅よりバス(?)。

関越自動車道「高崎」ICまたは「前橋」ICより車20分。

行き方・注意点

城山稲荷神社背後の里見城址公園を目指す。

【基本情報】

築城年 不明(平安時代?) 主要遺構 曲輪、堀切、土塁
築城者 新田氏(?) 標/比/歩 標高184m/比40m/歩0m
主要城主 新田氏、里見氏 現況 主要部は城址公園

【歴史】

平安時代末期、上野国碓氷郡里見郷を領した新田義重の三男、里見義俊の居館であったと伝えられる。

永享十(1438)年、関東公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実が対立、上永享十一(1439)年二月、持氏と嫡子義久は自刃して鎌倉公方家は一時断絶した(永享の乱)。この時、持氏の次男・春王丸(十三歳)、三男安王丸(十歳)、四男永寿王丸(三歳)は鎌倉を逃れ、春王丸・安王丸は日光二荒山の社僧行道に、永寿王丸は信濃の大井三郎持光に匿われた後、結城城に入り、結城氏朝・持朝父子に擁立されて挙兵した(結城合戦)。室町幕府将軍・足利義教は前関東管領・上杉憲実に征討軍の総大将を命じ、幕府追討軍十万は永享十二(1440)年四月、結城城を包囲したが、結城城の兵一万は善戦し、十ヶ月の攻囲戦ののち、翌嘉吉元(1441)年四月に陥落した。この時、里見家基も結城城に立て籠もって討ち死にしたが、家基の子・義実は落ち延び、のちに安房に渡って白浜城を本拠に安房を統一、房総の戦国大名・里見氏の祖となったという。

永禄元(1558)年には里見河内が在城し、箕輪城の長野氏の配下となっていたが、永禄九(1566)年九月、信玄は二万の大軍で西上州に侵攻、武田方の武将・小宮山らが里見城・雉郷城を陥とし、箕輪城鷹留城の連絡を分断、箕輪城は九月二十九日に落城し、城主の業盛は箕輪城内の御前曲輪の持仏堂で自刃した。里見城はそれ以来廃城になったという。

【雑感】

房総半島の南端、安房の白浜城に旗を揚げた里見義実。その里見氏は幾度かの内紛や小田原北条氏との激しい闘い、越後上杉氏らとの同盟などを経て、南関東有数の戦国大名に発展していきます。やがて天下人の時代になり、里見義康はその父祖が血と汗で切り取った上総を豊臣秀吉に奪われ、そして里見忠義は徳川家康の難癖によって伯耆国倉吉に事実上配流の身となり、ここに房総の戦国大名・里見氏は歴史の表舞台から消えてゆきました。その里見氏のふるさとがこの上野国里見郷、里見城である、といわれています。

鎌倉幕府勃興期においては、新田義重は源頼朝の呼びかけにすぐに応じなかったことで、北条政子らは義重を高く評価していたものの頼朝に疎まれ、損な役回りを演じてしまいます。しかし義重の孫に当たる里見義成は、平宗盛の家人として京都にいたにもかかわらず、いち早く関東に下向した上で頼朝に忠誠を誓い、「寵士」として頼朝に近侍することになりました。建久四(1193)年に頼朝が富士で巻狩りを催した際も供奉し、「遊君別当」に任じられたといいます。これは早い話が「遊女の監督官」だそうで、お召しに応じて遊女を選んで派遣する、という役回りであるそうです。義成はその後も暫く、この役回りを任じられたそうです。いやはやなんとも。。。

やがて元弘三(1333)年、新田義貞は後醍醐天皇の号令に応じて、鎌倉幕府を滅亡に追い込みますが、有名な稲村ヶ崎の闘いには、里見五郎義胤が従軍したといいます。一説には新田義貞は里見義俊から五代後の忠義の子で、里見小五郎と名乗り、新田一族の惣領・朝氏に実子がないことから養子となって新田小太郎義貞と改めた、ともいいます。すると、義貞は里見氏出身!まあこのあたりは、どこまでホントかわかりませんが。で、前述の里見義胤は義貞の実兄ともいわれています。この人物が安房里見氏の直系の祖先になります。里見氏は上野の他に越後、美濃、奥州などにその所領を拡げますが、やがて新田義貞と足利尊氏の対立の中で、次第に目立たない存在になっていきます。新田義貞が越前金ヶ崎で討ち死にしたとき、里見氏惣領の里見時義や、一門の出世頭である里見伊賀五郎なども討ち死にしてしまいます。やがて時代は下って永享年間、里見氏は鎌倉公方に従っていましたが、鎌倉公方と関東管領上杉氏、および幕府将軍との軋轢が「永享の乱」「結城合戦」で火を噴きます。その時、里見家基は結城城で奮戦の末に討ち死にし、その子義実が安房に落ち延びることで、房総に「戦国大名・里見氏」が誕生するのです。この里見城は、その「戦国大名・里見氏」のルーツにあたるわけです。

しかし「日本城郭大系」曰く、「里見義俊の館跡であると伝えられるが誤りであろう」とバッサリ。にべも無い、というか、元も子もない、というか。。。まあいいや、ソレガシの中ではあの「里見チャンのふるさと」ということで自己納得してしまっていますんで。。。

里見城は里見川という小河川に面した小高い段丘上にあります。「城山稲荷」の巨大な鳥居がよく見えますので、これが目印です。この稲荷社背後の墓地の奥に、方形の土塁に囲まれた曲輪があり、一軒の民家が建っています。途中の墓地も「字古城」であり、城域の一部かと思われますが、墓地造成によって遺構はほとんどわかりません。墓地と方形の主郭の間には直線的な堀切が横たわり、どういう関係なのか、堀底には古びた墓石が一列に並んでいます。主郭の土塁は草木に覆われ、主郭の真ん中には「新田義貞公生誕の地」の標柱が無残にも根元からポキリと折れて転がっています。なんともうら寂しい。。。北側の斜面の下には竹薮に覆われた一角があり、どう見ても屋敷地などの城郭遺構の一部に見えるのですが、近所で散歩していたオバサンに聞いたところ、そんな言い伝えは無く、ただの畑であったそうです。しかし、ソレガシにはお城に見えてしまう。周辺は急傾斜対策工事や宅地開発が進行中で、いずれ景観はガラッと変わりそうな気がします。城山稲荷入り口附近には「里見城跡公園予定地」という看板もあり。「エッここが公園になっちゃうの?」と驚きました。なんか嬉しいような、嬉しくないような、複雑な気分です。

赤い鳥居が目立つ小丘陵が里見城。周囲は急傾斜対策工事が進み、ニュータウン建設の造成が行われるなど、景観を変貌させつつあります。 城山稲荷社のでっかい鳥居。これのおかげで場所はすぐにわかります。城跡そのものは、稲荷社背後の墓地の奥になります。

墓地附近は「字古城」、古城というよりも外郭部であったんでしょうが、墓地造成のため地形が変化し、お城を思わせる遺構はほとんどありません。

里見郷を見晴らす。何の変哲も無い景色でも、里見氏のご先祖様が見ていたと思うと感無量!

方形の主郭と墓地の間に横たわる堀切。堀底から土塁上まで5mくらい。結構立派ですが、なにやら物置小屋が建っていたり、古びたお墓が並んでいたりで、あんまり風情は感じられなかった・・・。

主郭南東の土塁の切れ目が虎口か。しかし、この土塁、完全に草木に覆われてしまっていて、表面などなにも見えないではないか。。。

基本、単郭の城。曲輪内は城址公園として整備されています。

いつのまにやらこんな立派な解説板まで立っている。嬉しいことです。

堀切から北の斜面下、竹薮の中には屋敷の跡のような平場、土塁のような地形、堀のような地形が。地元のオバサンには否定されたけど、やっぱり城郭遺構じゃないかと思うんですが。

里見川方面から屋敷推定地を見る。左側の土塁(?)なんて、屋敷地の入り口を守るのにちょうどいい場所にある。やっぱりここは、お城の一部でしょ。

訪城記録

(1)2003/03/22

(2)2008/03/30

 

参考サイト

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「群馬の古城」(山崎一/あかぎ出版)

「さとみ物語」(館山市立博物館)

現地解説板

推奨図書

周辺地情報

同じ町内の鷹留城もなかなか素晴らしいですが、やはり箕輪城を是非見ていただきたいです。

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