房総半島の南端、安房の白浜城に旗を揚げた里見義実。その里見氏は幾度かの内紛や小田原北条氏との激しい闘い、越後上杉氏らとの同盟などを経て、南関東有数の戦国大名に発展していきます。やがて天下人の時代になり、里見義康はその父祖が血と汗で切り取った上総を豊臣秀吉に奪われ、そして里見忠義は徳川家康の難癖によって伯耆国倉吉に事実上配流の身となり、ここに房総の戦国大名・里見氏は歴史の表舞台から消えてゆきました。その里見氏のふるさとがこの上野国里見郷、里見城である、といわれています。
鎌倉幕府勃興期においては、新田義重は源頼朝の呼びかけにすぐに応じなかったことで、北条政子らは義重を高く評価していたものの頼朝に疎まれ、損な役回りを演じてしまいます。しかし義重の孫に当たる里見義成は、平宗盛の家人として京都にいたにもかかわらず、いち早く関東に下向した上で頼朝に忠誠を誓い、「寵士」として頼朝に近侍することになりました。建久四(1193)年に頼朝が富士で巻狩りを催した際も供奉し、「遊君別当」に任じられたといいます。これは早い話が「遊女の監督官」だそうで、お召しに応じて遊女を選んで派遣する、という役回りであるそうです。義成はその後も暫く、この役回りを任じられたそうです。いやはやなんとも。。。
やがて元弘三(1333)年、新田義貞は後醍醐天皇の号令に応じて、鎌倉幕府を滅亡に追い込みますが、有名な稲村ヶ崎の闘いには、里見五郎義胤が従軍したといいます。一説には新田義貞は里見義俊から五代後の忠義の子で、里見小五郎と名乗り、新田一族の惣領・朝氏に実子がないことから養子となって新田小太郎義貞と改めた、ともいいます。すると、義貞は里見氏出身!まあこのあたりは、どこまでホントかわかりませんが。で、前述の里見義胤は義貞の実兄ともいわれています。この人物が安房里見氏の直系の祖先になります。里見氏は上野の他に越後、美濃、奥州などにその所領を拡げますが、やがて新田義貞と足利尊氏の対立の中で、次第に目立たない存在になっていきます。新田義貞が越前金ヶ崎で討ち死にしたとき、里見氏惣領の里見時義や、一門の出世頭である里見伊賀五郎なども討ち死にしてしまいます。やがて時代は下って永享年間、里見氏は鎌倉公方に従っていましたが、鎌倉公方と関東管領上杉氏、および幕府将軍との軋轢が「永享の乱」「結城合戦」で火を噴きます。その時、里見家基は結城城で奮戦の末に討ち死にし、その子義実が安房に落ち延びることで、房総に「戦国大名・里見氏」が誕生するのです。この里見城は、その「戦国大名・里見氏」のルーツにあたるわけです。
しかし「日本城郭大系」曰く、「里見義俊の館跡であると伝えられるが誤りであろう」とバッサリ。にべも無い、というか、元も子もない、というか。。。まあいいや、ソレガシの中ではあの「里見チャンのふるさと」ということで自己納得してしまっていますんで。。。
里見城は里見川という小河川に面した小高い段丘上にあります。「城山稲荷」の巨大な鳥居がよく見えますので、これが目印です。この稲荷社背後の墓地の奥に、方形の土塁に囲まれた曲輪があり、一軒の民家が建っています。途中の墓地も「字古城」であり、城域の一部かと思われますが、墓地造成によって遺構はほとんどわかりません。墓地と方形の主郭の間には直線的な堀切が横たわり、どういう関係なのか、堀底には古びた墓石が一列に並んでいます。主郭の土塁は草木に覆われ、主郭の真ん中には「新田義貞公生誕の地」の標柱が無残にも根元からポキリと折れて転がっています。なんともうら寂しい。。。北側の斜面の下には竹薮に覆われた一角があり、どう見ても屋敷地などの城郭遺構の一部に見えるのですが、近所で散歩していたオバサンに聞いたところ、そんな言い伝えは無く、ただの畑であったそうです。しかし、ソレガシにはお城に見えてしまう。周辺は急傾斜対策工事や宅地開発が進行中で、いずれ景観はガラッと変わりそうな気がします。城山稲荷入り口附近には「里見城跡公園予定地」という看板もあり。「エッここが公園になっちゃうの?」と驚きました。なんか嬉しいような、嬉しくないような、複雑な気分です。