信玄、上洛の夢に命を燃やし尽くして 

躑躅ヶ崎館

つつじがさきやかた Tsutsujigasaki-Yakata

別名:

山梨県甲府市古府中町

(武田神社)

城の種別 中世武士館

築城時期

永正十六(1519)年

築城者

武田信虎

主要城主

武田信虎・信玄・勝頼

遺構

土塁、石塁、天守台、堀、馬出し 他

参拝客で賑う武田神社<<2001年9月23日>>

歴史

永正十六(1519)年、武田信虎が石和の館からこの地に新たに居館を築いて移転し、家臣団の屋敷や城下町、緊急時の要害としての「積膵寺要害山」などとともに整備した。以降、信虎・晴信(信玄)・勝頼の三代に渡り甲斐武田氏の本拠となった。天文十(1541)年六月十四日、武田信虎の嫡男・晴信(のちの信玄)は重臣の板垣信方や甘利虎泰らに擁立されて父・信虎を駿河に追い、家督を相続した。天文十二(1543)年一月三日、城下の道鑑の屋敷から出火、躑躅ヶ崎館も類焼し晴信の館も全焼、一時的に駒井高白斎政武の屋敷で避難生活をしている。

元亀三(1572)年十月三日、信玄は西上を開始して躑躅ヶ崎館を出立、伊奈郡から青崩峠を越えて遠江に侵攻し、十二月二十二日、遠江三方ヶ原で徳川家康に大勝(三方ヶ原合戦)、翌天正元(1573)年正月に三河野田城を攻撃し開城させるが、病状が悪化し長篠鳳来寺で回復を待ったが、病状が思わしくないため躑躅ヶ崎館に一旦引き上げる途中の四月十二日、信州伊奈の駒場にて死去した。

信玄の跡を継いだ武田勝頼は天正三(1575)年の長篠・設楽ヶ原合戦で織田信長・徳川家康連合軍に惨敗し勢力が衰えると、重臣の穴山信君の進言で居城を韮崎の七里岩に移すことに決め、真田真幸を普請奉行として新府城を築城、天正九(1580)年十二月に居を移した。古府中の躑躅ヶ崎館は、移転に反対する重臣たちへの心理的な圧力として、徹底的に破却された。

天正十(1582)年に織田信長・徳川家康の連合軍の侵攻によって武田氏が滅亡し、織田信長配下の河尻秀隆が甲府に入ったが、六月二日の本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐国内に一揆が起こり、六月十五日、河尻秀隆は殺害された。その後の武田氏遺領を廻り、徳川家康と北条氏直が戦うが(天正壬午の乱)、和睦により甲斐は徳川領とされ、躑躅ヶ崎館には仮御殿が造営され、平岩親吉が城将に任じられたが、天正十一(1583)年に一条小山に甲府城を築城開始、天正十八(1590)年の小田原の役で家康が関東に移封されると甲府には羽柴秀勝が任じられ、甲府城を完成させて移ったため躑躅ヶ崎館は廃城となった。

やっぱり、こういう「超有名」な場所は、行ってみるとそれなりの感慨がありますね。なんてったって信玄の居館ですからね。今じゃすっかり「観光地・武田神社」になっていますが、遺構も沢山ありますよ。

基本的には中世方形武士居館の発展形なのでしょうが、戦国の世を反映してか、堀の深さ&広さや、複数の曲輪が連立する様は、平城と言ってもいいほどの、ちょっとした城構えです。大手前や北側虎口には馬出しの遺構もあります。武田氏滅亡後に築かれたと見られる天守台もあります。とくに神社のある東曲輪の東側(大手口)付近の堀と土橋、石垣や、西曲輪北側の堀、馬出し跡などは要チェックです。

城構えとはいえ一重の堀の居館ですが、いざという場合の詰めの城・要害山城は北方2.5kmにあって、ふもとの積膵寺には信玄産湯の井戸なども残ります。要害山は残念ながら時間が無くて見学できませんでしたが、いかにも中世山城、という山の麓から頂上まで、多くの曲輪や虎口が残されているそうです。今度はこっちメインで行くか。ご存知のとおり、信玄には「人は石垣、人は堀」というポリシー(?)があり、その本拠には決して大規模な城を構えませんでした。それは、甲斐の国が四方を山々に囲まれた天嶮で、いわば甲斐の国そのものが城郭だったから、とも言われますが、何より信玄自身の戦略観によるところが大きいのではないでしょうか。つまり、領国に敵を迎え入れて籠城しよう、などという意思は全く無く、常に敵地に赴いて領土を切り取り、その切り取った先に出城を構える、それ以外の戦法は考えても見なかったのかもしれません。だから居館はあくまで領土を治めるための政庁としての機能だけあればよく、逆に前線には進出基地としての城郭が必要不可欠だったのでしょう。しかし、その信玄が上洛に胸を焦がしながらも西上途上でこの世を去り、勝頼の代になってからは武田氏の栄光にも影が射し、有名な「長篠・設楽ヶ原合戦」での壊滅的な惨敗、遠江・駿河戦線の縮小、相次ぐ戦乱への領土の疲弊、重臣の不和などが次々と襲ってきます。僕個人としては勝頼は決して巷で言われるような暗愚な武将ではなく、むしろ武勇・知略ともに武田氏累代に恥じない人物だったと評価していますが、めぐり合わせが悪かったのでしょう(肝心なときの本人の決断力にも難はあったが・・・)。とにもかくにも、攻め寄せる織田・徳川の脅威に、この躑躅ヶ崎の館を捨てて新府城築城を決断した時点で、武田氏の凋落は決定的になってしまっていたのでしょう。

なお天守台は武田氏滅亡後に作られたもので、一般公開はされていません。僕はうっかり迷い込んでしまい、たまたま見ることができましたが、竹やぶに埋もれ、いつ崩落してもおかしくないくらい崩れかけていて、とても近くには寄れない雰囲気でした。ここは一応立ち入り禁止地帯なので、入らないようにいましょう。あ、こんな風に書いちゃうと、余計見たくなっちゃうよね。

 

躑躅ヶ崎館めぐり

 

 

交通アクセス

中央自動車道 甲府昭和野ICより3km

JR甲府駅よりバス

周辺地情報

今回見られなかった要害山城はぜひ見たいですね(追:見てきました)。甲府市内には近世城郭・甲府城があります。ちょっと離れていますが、武田氏最後の居城となった新府城もおすすめです。

関連サイト

 

 
参考文献 「風林火山・信玄の戦いと武田二十四将」(学研「戦国群像シリーズ」)、「歴史読本 1987年5月号」(新人物往来社)、別冊歴史読本「武田信玄の生涯」(新人物往来社)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地解説板

参考サイト

 

 

埋もれた古城 表紙 上へ 躑躅ヶ崎館めぐり