永正十六(1519)年、武田信虎が石和の館からこの地に新たに居館を築いて移転し、家臣団の屋敷や城下町、緊急時の要害としての「積膵寺要害山」などとともに整備した。以降、信虎・晴信(信玄)・勝頼の三代に渡り甲斐武田氏の本拠となった。天文十(1541)年六月十四日、武田信虎の嫡男・晴信(のちの信玄)は重臣の板垣信方や甘利虎泰らに擁立されて父・信虎を駿河に追い、家督を相続した。天文十二(1543)年一月三日、城下の道鑑の屋敷から出火、躑躅ヶ崎館も類焼し晴信の館も全焼、一時的に駒井高白斎政武の屋敷で避難生活をしている。
元亀三(1572)年十月三日、信玄は西上を開始して躑躅ヶ崎館を出立、伊奈郡から青崩峠を越えて遠江に侵攻し、十二月二十二日、遠江三方ヶ原で徳川家康に大勝(三方ヶ原合戦)、翌天正元(1573)年正月に三河野田城を攻撃し開城させるが、病状が悪化し長篠鳳来寺で回復を待ったが、病状が思わしくないため躑躅ヶ崎館に一旦引き上げる途中の四月十二日、信州伊奈の駒場にて死去した。
信玄の跡を継いだ武田勝頼は天正三(1575)年の長篠・設楽ヶ原合戦で織田信長・徳川家康連合軍に惨敗し勢力が衰えると、重臣の穴山信君の進言で居城を韮崎の七里岩に移すことに決め、真田真幸を普請奉行として新府城を築城、天正九(1580)年十二月に居を移した。古府中の躑躅ヶ崎館は、移転に反対する重臣たちへの心理的な圧力として、徹底的に破却された。
天正十(1582)年に織田信長・徳川家康の連合軍の侵攻によって武田氏が滅亡し、織田信長配下の河尻秀隆が甲府に入ったが、六月二日の本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐国内に一揆が起こり、六月十五日、河尻秀隆は殺害された。その後の武田氏遺領を廻り、徳川家康と北条氏直が戦うが(天正壬午の乱)、和睦により甲斐は徳川領とされ、躑躅ヶ崎館には仮御殿が造営され、平岩親吉が城将に任じられたが、天正十一(1583)年に一条小山に甲府城を築城開始、天正十八(1590)年の小田原の役で家康が関東に移封されると甲府には羽柴秀勝が任じられ、甲府城を完成させて移ったため躑躅ヶ崎館は廃城となった。