天文年間(1532〜1555)初期にこの地方を支配する羽尾幸全によって築城されたといわれる。
天文十(1541)年、信州佐久方面に進軍した武田信虎・村上義清・諏訪頼重らの連合軍に追われた滋野一族の海野棟綱、その子真田幸隆(諸説あり)は、鳥居峠を越えて吾妻郡の同族である羽根尾城の羽尾幸全を頼った(海野平合戦)。幸全は幸隆らを庇護し、のちに寄親の長野業政の箕輪城に身柄を預けられ庇護されたが、海野平の奪還をめぐって、関東管領・上杉氏を頼ろうとする父・海野棟綱と、甲斐武田氏で父・信虎を駿河に追い家督を継いだ武田晴信(信玄)を頼ろうとする真田幸隆の意見が対立、幸隆は箕輪城を出て、甲斐府中の躑躅ヶ先館の武田信玄の被官となった。
幸隆はその後、信濃先方衆、上州先方衆として小県から吾妻にかけての攻略を命ぜられ、大恩のある羽尾幸全、長野業政らと闘うことになる。幸隆の当面の課題は岩櫃城の攻略にあったが、岩櫃城の斎藤氏と鎌原城の鎌原氏の対立を利用して侵攻、永禄六(1563)年、羽根尾城、長野原城周辺で合戦となり(長野原合戦)、羽尾幸全は戦死したとも、越後上杉氏を頼って落ち延びたとも言われる。その後は幸隆は岩櫃城、箕輪城を攻略し、吾妻一帯を支配した。