真田幸隆、哀しみと苦悩の吾妻攻略

羽根尾城

はねおじょう Haneo-Jo

別名:

群馬県吾妻郡長野原町羽根尾

城の種別

山城

築城時期

天文年間(1532〜1555)

築城者

羽尾幸全

主要城主

羽尾幸全

遺構

曲輪、土塁、堀切

主郭付近の堀切<<2001年12月16日>>

歴史

天文年間(1532〜1555)初期にこの地方を支配する羽尾幸全によって築城されたといわれる。

天文十(1541)年、信州佐久方面に進軍した武田信虎・村上義清・諏訪頼重らの連合軍に追われた滋野一族の海野棟綱、その子真田幸隆(諸説あり)は、鳥居峠を越えて吾妻郡の同族である羽根尾城の羽尾幸全を頼った(海野平合戦)。幸全は幸隆らを庇護し、のちに寄親の長野業政の箕輪城に身柄を預けられ庇護されたが、海野平の奪還をめぐって、関東管領・上杉氏を頼ろうとする父・海野棟綱と、甲斐武田氏で父・信虎を駿河に追い家督を継いだ武田晴信(信玄)を頼ろうとする真田幸隆の意見が対立、幸隆は箕輪城を出て、甲斐府中の躑躅ヶ先館の武田信玄の被官となった。

幸隆はその後、信濃先方衆、上州先方衆として小県から吾妻にかけての攻略を命ぜられ、大恩のある羽尾幸全、長野業政らと闘うことになる。幸隆の当面の課題は岩櫃城の攻略にあったが、岩櫃城の斎藤氏と鎌原城の鎌原氏の対立を利用して侵攻、永禄六(1563)年、羽根尾城、長野原城周辺で合戦となり(長野原合戦)、羽尾幸全は戦死したとも、越後上杉氏を頼って落ち延びたとも言われる。その後は幸隆は岩櫃城箕輪城を攻略し、吾妻一帯を支配した。

真田氏の祖、幸隆。滋野氏一族出身の彼は、若き日に武田信虎・村上義清・諏訪頼重らに海野平の郷を追われ、吾妻郡に散在する滋野一族で関東管領・山内上杉憲政に仕える羽尾幸全入道を頼り、この羽根尾の城に落ち延び、そして羽尾氏の女を妻に娶りました。幸隆にとって、羽尾幸全はまさに恩人であったわけです。その後、長野氏を頼って箕輪城の一角で過ごした幸隆ですが、滋野氏再興を目論む彼は、父・海野棟綱と意見を異にし、お家再興と海野平奪還のため、かつての敵、武田の被官となる道を選びました。武田の棟梁はかつての敵・信虎を駿河に追放した嫡男・晴信。苦渋の選択だったに違いありません。そして幸隆は、武田の佐久・上州方面の先方衆として、かつての恩人であり、岳父でもある羽尾幸全、自分の庇護者でありよき理解者でもあった長野業政らと戦い、倒さなければなりませんでした。

戦国の常とはいえ、この無情な運命は、幸隆にとっても、さぞ辛い戦であったことでしょう。そしてかつての庇護者であった羽尾氏は、何を思い死んでいったのでしょうか。幸隆といえば前述のとおり、真田氏の祖として、岩櫃城攻めや戸石城攻めの功労を語られ、深慮遠謀の人と言われていますが、この羽尾氏との戦は、彼と彼の進むべき道を、暗示していた戦だったのかもしれません。そして、羽尾氏は、かつての落武者同然の男が婿となり、そして逞しく成長したのを見て、一人の武士として喜んで戦い、死んでいったのではないでしょうか。ここは、そんな戦国時代の哀しい歴史をしみじみと感じさせてくれる場所です。真田ファン、行くべし!

羽根尾城遠景。比高差はそれほどでもないですが、駅に面した南側が急峻。林道をまわって裏側から登るのが楽です。 山頂の主郭は、低い土塁で囲まれています。

主郭周囲の土塁。 あまり誰も来なそうな寂しい場所ですが、土塁上にはしっかりと城址の碑が。

あまり目ぼしい遺構は少ないのですが、この主郭そばの堀切が最大の見所でしょうか? 岩櫃城で真田昌幸に謀殺された羽尾幸全の子、海野長門守の墓。

 

交通アクセス

関越自動車道 沼田ICより車40分。

JR吾妻線「羽根尾」駅徒歩15分。

周辺地情報

吾妻街道沿いには長野原城、丸岩城、岩櫃城などがあります。やはり岩櫃城が圧倒的に見所が多い。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、小説「謀将・真田昌幸」(南原幹雄)、「真田戦記」(学研「戦国群像シリーズ」)、別冊歴史読本「戦国・江戸 真田一族」(新人物往来社)、現地解説板

参考サイト

武田調略隊がゆく

 

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