凄惨、血塗られた佐久侵攻戦
志賀城
しがじょう Shiga-Jo
別名:
長野県佐久市志賀
(雲興寺裏山)
山城
築城時期
不明
築城者
笠原氏(?)
主要城主
笠原氏
遺構
曲輪、石積み、堀切、土塁
志賀城下の笠原新三郎清繁の首塚<<2002年11月04日>>
歴史
築城時期は定かではない。
天文十五(1546)年、武田晴信(信玄は)内山城に立て籠もる大井貞清・貞重父子を攻め降伏させた。天文十六(1547)年七月、信玄は佐久で唯一抵抗する笠原新三郎清繁の志賀城を攻めるために侵攻、閏七月九日、大井三河守らを先発隊として派遣、信玄の本隊は十三日に甲府躑躅ヶ崎館を進発し、二十日に稲荷山城に入った。志賀城には上杉憲政麾下の上州菅原城主・高田憲頼父子らが援軍として立て籠った。武田軍は閏七月二十四日から志賀城を包囲、二十五日には水の手を押さえたが、城内には水の蓄えがあり志賀城は簡単に陥ちなかった。笠原清繁は上州平井城の関東管領・上杉憲政に援軍を要請した、西上野国人衆を中心とした上杉軍二万余は八月に碓氷峠を超えて小田井原に布陣した。信玄は本隊は志賀城を包囲したまま、板垣駿河守信方、甘利備前守虎泰、横田備中守高松、多田三八らを小田井原に派遣、八月六日に激戦となり、武田軍は上杉軍の兜首十四、五と雑兵三千を討ち取った(小田井原合戦)。信玄は討ち取った首級三千を夜間のうちに兜首は槍にかざし、平首は棚に掛け並べさせて志賀城を囲んだ。志賀城の籠城兵はこれを見て戦意を阻喪し、八月十日正午には外曲輪に、深夜には二の曲輪に火を掛け城兵を追い詰め、翌十一日正午頃志賀城は陥落、笠原清繁は甲斐衆の萩原弥右衛門が、高田憲頼は諏訪衆の小井弖越前守が討ち取り、城兵三百余が戦死した。笠原清繁の妻は甲斐郡内の小山田出羽守信有が貰い受け、同時に籠城していた多くの男女を生け捕りにし、親類縁者がある者は二貫文から十貫文で身請けされたが、その多くは黒川金山の坑夫や娼婦、奴婢として人身売買されたという。
その後の志賀城の記録はなく不明。城下には笠原清繁の首塚と伝わる石塔が残る。
「そむく佐久を殺せば、佐久は限りなくそむくでしょう。佐久の人ことごとく叛いて死に絶えても、草木が武田に叛くでしょう。」 新田次郎の「武田信玄」の中の一節、戸石城での闘いを前に死を覚悟した、横田備中守高松の最期の言葉。信玄の佐久への過酷なまでの弾圧に対する、死を決した諫言です。戦にあたっては調略と懐柔を用いて「闘わずして勝つ」極意を生まれながらに身につけていた男、信玄。その信玄が重臣に諫言されるほど、佐久侵攻戦は過酷であったのでしょう。その凄まじさは「掠めること火の如く」であったことでしょう。その佐久攻めの中でも最も血塗られたエピソードを持つのがこの志賀城攻めでした。
佐久の抵抗拠点であった内山城を手中に入れた信玄に対し、佐久の「最後の砦」として立ちはだかった志賀城と城主の笠原新三郎清繁。信玄は大軍をもって志賀城を包囲しますが天嶮の山に拠る籠城軍は簡単には敗れません。また、この志賀城は佐久の反武田勢力の最後の望みであるだけでなく、碓氷峠を越えて関東へ至る、重要な玄関口、境目の城の一つでもあり、志賀城に期待をしていたのは佐久衆だけでなく、関東管領・上杉憲政も同じでした。かくして上杉憲政は二万とも言われる大軍を小田井原に展開、志賀城を後詰し武田の背後を脅かします。ちなみに憲政はこの時期、河越夜戦に敗れて上州平井城で汲々の身の上、箕輪城主の長野業政などは「なにもこの時期に遺恨の無い武田を敵に回すこともない」と憲政に諫言しますが受け入れられず、結果的には関東管領の威信をさらに失墜させることに繋がっていきます。それはともかく、すかさず信玄は攻城軍の板垣信方、甘利虎泰ら主力を小田井原に派遣、激戦の挙句、上杉軍の兜首十四、五と雑兵三千を討ち取ります。凄まじいのはここからで、信玄は討ち取った生首を夜のうちに志賀城の回りに立て並べさせます。夜が明けて、朝もやの中に城兵が見たものは、おびただしい数の首級が城を囲む姿でした。城兵の士気は一気に萎え、間もなく落城、笠原新三郎も討ち死にします。そして捕虜となった雑兵や籠城軍に加わった非戦闘員まで、男は黒川金山送り、身請け人のない女は奴婢・女郎として売り飛ばされてしまうのです。佐久が叛くから、武田が弾圧するのか、武田が弾圧するから佐久が叛くのか。殺戮と報復、その痛ましい循環は、今の国際社会にもまま見られる現象でもあります。このあまりに残酷で凄惨な仕打ちは、本国甲斐においてもショッキングであったようで、『妙法寺記』(『勝山記』)における記録も、表立って批判はしていないものの、眉をひそめるようなニュアンスが感じられます。この後信玄は安曇の小岩嶽城においても凄惨な殲滅戦を演じており、こうした行為が「英雄」ともされるこの人物の裏の暗い一面、とくに信濃国内における現代にまで到る悪評にも結びついている気がします。
志賀城概念図
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実は信玄が攻めた志賀城というのはここではなく、附近の高棚城、あるいは笠原城などの別なお城ではないか、ともされるようですが、ソレガシはその二つのお城は見ていません。確証に乏しい話でもあり、それでは話が続かなくなってしまうので、ここではこのお城が件の志賀城である、としておきましょう。その志賀城に至るには、志賀上宿集落の「雲興寺」を探しましょう。向かって右奥の墓地付近に登り口があります。一応道はありますが、場所によっては落ち葉で滑りやすい場所もあり、足許に細心の注意が必要です。尾根上は道は判然とせず、部分的に矢竹が覆い茂り多少のヤブコギが必要になります。一部入山禁止の部分もあるので若干迂回しました。城域は案外と広く、それなりの人数が立て籠もることができそうです。縄張りそのものは単純ですが、所々で石積みが見られるのが特徴です。しかしこれは山の上の祠参拝用や炭焼き用の通路などの線も考えられるため、どこまでが遺構かは判断が難しいところです。地形的には切り立った断岩に囲まれており、巨大な岩裂を天然の堀切としているなど、天険を生かした山城の醍醐味が味わえますが、相応の危険はあります。東側岩裂の絶壁付近にも人ひとりがやっと通れる通路らしきものはあるのですが、あまりにリスクが大きく引き返しました。主郭付近には比較的大きな堀切や、部分的に石積みが見られます。なかでもW曲輪南西には「水の手?」と思わせる石積みなどがあり、ちょっと興味をそそります。西側にもずっと城域が広がっているのですが、竪土塁を伴う堀1の少し先で鉄条網で尾根が封鎖されていたため、尾根の先端部分までは見ていません。城下を東西に走る道を300mほど東に歩いた左手の田んぼの中には、笠原新三郎の首塚とされる石塔が佇んでいます。なんでも移動させようとすると良くないことがあるんだとか・・・・。
近所のオバアチャンが言うには、結構見学者は多いそうです。ただ、主郭に城址碑があるわけでもなく、どことなく侘しいというか、寒々とした光景が広がっています。あまりに凄惨な記憶を背負ったこのお城は、物見遊山的な客人を今なお拒み続けているのかもしれません。
[2007.06.11]
主郭東側の尾根続きを断ち切る堀切5と土塁。堀切はだいぶ埋まっていますが幅はかなりあります。
左の堀切に伴う土塁。主郭背後の尾根続きを防御するためのものでしょう。
主郭東北側の尾根続きのはずれから、下の断崖絶壁を見下ろす。結構キテます。危ないです。
東側尾根続きの岩裂部。天然の大堀切といったところです。無理すれば通れなくも無いですが、アブナイです。お〜い、そんなに端に寄らないで!
志賀の城下町を見る。朝、陽の出とともに城兵は、夥しい数の生首が城を囲んでいる姿を見て、絶望に暮れたことでしょう。そんな風に思ってみると、美しいはずの景色まで凄惨に見えてしまう。
これはW曲輪南西で見つけた、折れをもつ石塁。井戸のようにも見えますが果たして?
交通アクセス
上信越自動車道「佐久」ICより車10分。
JR小海線「北中込」駅より登山口まで徒歩60分。
周辺地情報
関連サイト
参考文献
「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)
「風林火山・信玄の戦いと武田二十四将」(学研「戦国群像シリーズ」)
「歴史読本 1987年5月号」(新人物往来社)
「歴史と旅 1987.02月号」(秋田書店)
別冊歴史読本「武田信玄の生涯」(新人物往来社)
「日本城郭大系」(新人物往来社)ほか
参考サイト