上信の交通を押さえる

後閑城

ごかんじょう Gokan-Jo

別名:

群馬県安中市中後閑

城の種別

中世山城

築城時期

嘉吉元年(1441年)

築城者

依田氏

主要城主

依田氏、後閑氏、武田氏、北条氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、復元櫓

主郭から見た西曲輪群と妙義山<<2001年09月24日>>

歴史

嘉吉元(1441)年、信濃国の御嶽城主・依田内匠頭忠政が築城を開始し文安四(1447)年に完成したといわれる。

戦国期にはこの地にいた北条政時を滅ぼした新田景純の子、伊勢守信純が弘治二(1556)年ごろに在城していたが、永禄三(1560)年の長尾景虎(上杉謙信)の第一回関東出陣では、近隣の高田氏・安中氏らはこれに従ったが、新田信純(のち真純と改名)と小幡信実らは武田に走った。

信玄は永禄九(1566)年の箕輪城を攻略後、永禄十(1567)年に真純を後閑城に入れた。天正十(1582)年に武田氏が滅亡すると、真純の長男・下野守信重は、厩橋城に在城していた北条(きたじょう)高広に従い、次男重政、三男信久は北条氏に属し、両後閑と呼ばれた。天正十二年(1584)、北条高広が北条氏に降ると、北条氏直は両後閑に厩橋城在番を命じた。天正十八年(1590)、小田原の役において両後閑は小田原城に篭城し、後閑城は松井田城の大道寺駿河守政繁の指揮下に入ったが、北条氏の滅亡とともに、廃城となった。

非常に整備された公園になっています。ここから見る榛名山、妙義山は最高です。

華々しい歴史には登場しない城です。現地の解説板では「天正十年に滝川一益配下の松井田城代・津田小平次が新田信純を討った」ことになっていますし、「日本城郭大系」(新人物往来社)では北条氏に従い小田原の役で滅びたことになっています。よくわかりませんが、中山道を監視する城として、安中城や松井田城とともに、箕輪城の支城として機能していたのではないでしょうか。あるいは、新田氏が武田に与したことを考えれば、武田氏の上州侵攻にあたっての拠点、特に倉賀野城箕輪城攻め、あるいは武田勝頼の東上州侵攻の拠点の一つであったとも考えられます。

全然下調べなしに行ったのですが、ほぼ完全に整備されている上、階段状の曲輪や曲輪を大きく分断する堀切、とくに北曲輪周辺の三重の堀切などはなかなか見ごたえがあります。解説板もしっかりしているし、駐車場完備だし、景色はいいし、満足度大でした。藪こぎばかりしている僕にとってはオアシスのような城ですね。

後閑城全景。さほど高くはないが上信国境の要衝に位置します。 西三郭の駐車場付近から見上げた本丸。大きな駐車場が整備されてるのもいいですね。

西三郭付近からの様子。曲輪群が重なり合って、なかなか見ごたえのある眺め。

西第二郭の城壁。直線的な角型の横矢構造ではなく弓形になっているのが特徴。

本丸の北側、北第一堀切(右)と第二堀切(左)。北側の尾根は三重の堀切で厳重に守られています。 左写真の右側、北第一堀切。この付近の三重堀切は最大の見所の一つ。
北第三堀切。 下側から見上げた北郭(左)と本丸(右)。北郭周囲の三重の堀切は竪堀となって山腹まで切り下げられています。

西第一郭から見た西二〜三郭。妙義山、榛名山の姿が美しい。 南北に長い本丸。百庚申と呼ばれる、128基の庚申塚石碑が並んでいます。
東郭群。斜面上に小規模な腰郭が連続しています。東郭から北郭に向かっては急斜面の城壁が立ちはだかる。 南側の大堀切と二ノ丸櫓台。模擬物見櫓が建てられている。

整備も行き届いているし、本丸から各郭の配置が一望できて理解しやすい城址ですね。天気もよかったし景色も素晴らしかった。期待していなかった割には満足度が高いです。

 

交通アクセス

関越自動車道「高崎」IC車20分。

 

周辺地情報

近場では安中城、高崎城。どうせなら箕輪城も行きたい。 

関連サイト

 

 

参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地解説板

参考サイト

群馬の城郭からっ風倶楽部武田調略隊がゆく

 

 

埋もれた古城 表紙 上へ