佐久平と関東の境目を守る

内山城

うちやまじょう Uchiyama-Jo

別名:

長野県佐久市内山

城の種別

山城

築城時期

不明 

築城者

大井美作入道玄岑(?)

主要城主

平賀氏(?)、大井氏、上原(小山田)氏

遺構

曲輪、石積み、堀切

内山城主郭<<2002年11月04日>>

歴史

築城時期は定かではない。内山の地はもともとは平賀城主・平賀氏の支配下にあったが、文安三(1446)年ごろ、平賀氏は守護の小笠原氏、守護代大井氏らと争い平賀氏の本流は滅亡、大井荘地頭職で守護代の大井氏の支配下に入り、一族の大井(内山)美作入道玄岑、大井小次郎隆景らが在城した。内山城が築城されたのはこの内山美作の頃と推定される。

天文十五(1546)年、武田信玄は佐久に侵攻し五月三日に海ノ口に着陣、六日に前山城に布陣して内山城の大井貞清・貞重父子を攻め、十日には内山城の水の手を断ち、十四日には主要な曲輪をほとんど陥とした。大井氏は本城でなお抵抗したが小笠原氏の仲介により二十日に大井貞清は内山城を開城し、野沢城に蟄居した。信玄は七月十八日、内山城将に上原伊賀守昌辰(のちの小山田備中守昌辰)を任じた。降伏した大井貞清父子は翌天文十六(1547)年に躑躅ヶ崎館への出仕を促され、駒井高白斎を仲介として生命の安全を条件に五月四日に躑躅ヶ崎館に出仕、武田氏に臣従した。

天文十六(1547)年七月、信玄は佐久で唯一抵抗する笠原新三郎清繁の志賀城を攻めるために侵攻、笠原清繁は上州平井城の関東管領・上杉憲政に援軍を要請した。上杉軍は八月に碓氷峠を超えて小田井原に布陣、八月六日に武田軍と激戦となり、武田軍は上杉軍の兜首十四、五と雑兵三千を討ち取った(小田井原合戦)。この合戦で内山城に立て籠もる上原昌辰は内山峠を越えて侵攻してきた上杉軍を引き付けて撃破したという。

天文十七(1548)年二月の上田原合戦で武田軍が村上義清らに敗れると、村上義清らは四月二十五日に上原昌辰の守備する内山城を攻めて宿城に放火、佐久・小県・筑摩の在地土豪や諏訪西方衆などが反武田同盟を結んで武田氏の信濃支配は危機を迎えた。信玄は同年七月、塩尻峠合戦で小笠原長時を破り、天文十九(1550)年五月には小笠原長時の籠る林城を自落させて勢力を回復したが、戸石城の攻略戦で村上義清軍に大敗した(戸石崩れ)。しかしこの後、再び佐久に侵攻し勢力を回復、天文二十(1551)年三月、内山城に大井貞清を任じて佐久の支配に当たらせた。九月には再び小山田備中守昌辰(上原伊賀守昌辰改名)が内山城将に任じられた。

天文二十二(1553)年四月、村上義清が籠る葛尾城が自落、義清は長尾景虎の援軍を得て反撃し塩田城に籠ったが、六月二十五日に信玄は内山城に着陣し、塩田城や周辺諸城を攻め、八月五日に塩田城は自落、村上義清は逃亡し越後春日山城の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼った。これがきっかけで長尾景虎は川中島に出陣した(第一回川中島合戦)。この合戦の結果、村上義清は逃亡し佐久はほぼ信玄に制圧された。翌天文二十三(1554)年八月には佐久の反武田残党を掃討するため、信玄の嫡子・太郎義信が佐久に侵攻し内山城を拠点に、小諸城に籠る大井高政を攻め、高政は降伏・開城した。

天正十八(1582)年、武田氏が滅亡すると、内山城には上野国から北条軍が侵攻し、小山田六左衛門は北条に降ったが、翌天正十一(1583)年、徳川家康の麾下の依田信蕃に攻略され、小山田六左衛門は関東に去り、廃城となった。

内山城の位置を地図で見るととてもよく実感できるのですが、ここは佐久平と関東を結ぶ玄関口にあたり、眼前の内山峡を東に遡っていけば上野甘楽郡に通じる「境目の城」として非常に戦略価値の高い場所にあります。こうした境目の城としての性格のほかに、繰り返し繰り返し佐久を攻めた信玄にとっては、佐久支配のための重要拠点のひとつでした。

この内山城から、内山峡を挟んで指呼の間に平賀氏の居城といわれる平賀城があります。内山城に比べて居住性の高そうなお城ですが、信玄はなぜかこの内山城の方を重視していたようです。内山城の周囲は非常に急峻な断崖絶壁であり、麓からの比高差は130mほどながら、かなりの天然の要害です。信玄が佐久を平定するに当たっては、背腹定まらない在地の小豪族と付き合い、あるいは恫喝し、時には敵対する土豪をねじ伏せながら支配する必要があったわけで、そんなことから要害性の高い、守るに適した城郭として内山城を重視したのかな、それだけただならぬ緊張状態だったのかな、などと想像しています。

内山城は前述の通り内山峡が佐久平に開けるまさにその場所にあります。麓から見ると所々に岩肌が見え、主郭付近が小高く盛り上がった、実にいい形の山です。なんとなくその地形だけでも「名城」という気がしてきます。麓の円城寺付近から登山道があり、距離は短いながらもかなり急な道を登ります。登ってみると、途中から巨石がゴロゴロ転がる岩山となり、この石を用いて築かれた石積み遺構などが目に付きます。主郭には宗吾神社が祀ってあり、北側の尾根続き方面には二郭、三郭があり、南側には三段ほどの腰曲輪があります。この腰曲輪はまさに断崖絶壁の上にあり、下を覗き込むと思わず「ヒュ〜」と声を上げてしまいそうなほど迫力があります。この付近からは佐久平がよく見渡せます。城域は周囲の支峰にも及んでいるので決して小さい城ではないとは思いますが、地形の制約を受けてか、主郭付近の主要部の曲輪は広くは無く、急峻な地形とあわせて考えるとやはり居住のための城というよりは平時は街道監視、有事には戦時要害という、軍事色の強いお城ではないかと思いました。

内山城概念図

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また、登山道だけ歩いているとなかなか気づかないのですが、南側の支尾根には城内最大のW曲輪があり、通称「馬場平」と呼ばれています。さらにV曲輪の東側、尾根続き方面の急峻な斜面を下った先には堀切1をはじめとした遺構群があり、内山城の隠れた姿を見ることが出来ます。この堀切を北側に下った先に水の手とされる井戸がありますが、苔むした石積みの見事なものです。ただ周辺にはいつの時代かいまひとつ分からない謎の石積みなどがあり、どこまでが中世城郭としての遺構なのかは確信は持てません。また西側の尾根続きは巨石が転がり、道もあまり判然としませんでしたが、規模の大きな堀切4と土橋が見られます。

もうひとつ、この内山城には「宿城」と呼ばれる城下集落がありました。これは信玄によって計画的に町割りされた軍勢駐屯地であり、実質的には内山城の中核機能を持っていたと思われます。現在の城下集落にもこの宿城の町割が色濃く残っており、等間隔に配置された小路と短冊状町割りは諏訪における駐屯地となった上原城の城下町を髣髴とさせるものがあります。実際、村上義清の放火によりこの宿城の大半が焼失するなど、厳しい実戦を潜り抜けてきた場所でもあります。そうしたあたりも注意して見てみてください。

[2007.06.10]

附近のゴルフ場の高台から見る内山城。背後に内山峠に連なる険しい山々が見えます。関東との交通路を監視する、重要なお城であることがわかります。 城下町のはずれから見上げる内山城。いい山城ってまずカタチがいいんだよな。険しい岩山ですが、円城寺附近からよく整備された登山道があります。
麓の円城寺付近から右手の方向に登山道が伸びています。円城寺正面には内山城の解説と、簡単な見取り図がありますのでご参考に。 道しるべに従って山麓を歩く。この辺の、ちょっと高台の畑あたりは「城下」などの地名があり、宿城・根小屋に関連するものと思われます。

この城下町は信玄が計画的に築いた「宿城」です。短冊状の町割りや「文明小路」「中小路」などの地名が残ります。村上義清に放火されたりもしています。

小さな神社の裏手から坂道になります。登り始めてすぐ、道の両側に小規模な削平地が連続します。さらに傾斜が一気に急になる写真のあたりは、崩れた石塁のようなものがあり、「もしかして大手虎口?」と思わせるものがあります。

その推定大手口をゆくヤブレンジャーと巡城組、合同合宿時におけるワンショット。ほんとみんな元気だよなあ・・・。 登り道の途中の尾根には小さな削平地が連続します。
いよいよ巨石が転がる主要部が近づいてくる。同時に、写真のような、綺麗に整った石塁も何箇所かで見られるようになります。 左写真の石塁のすぐ横にある、割と大き目の石を使った石塁。
主郭の下は、巨石がゴロゴロしています。さすがに人の手でどうのこうの、という大きさではないでしょう。信州の山城ってこういう巨石ゴロゴロ系が多いような。 登山道から外れているため見落としがちなW曲輪、通称馬場平。主郭から伸びる主尾根城にある前進陣地ですが、途中に断崖絶壁があるため連携は難しそうです。
登りはじめて20分ほどでV曲輪(三ノ丸)に達します。狭い曲輪に見えますが実はずっと奥行きがありそれなりの広さがあります。 こちらはU曲輪(二ノ丸)。主郭をめぐる帯曲輪状の削平地です。
主郭前の斜面にある石積み。ここが主郭虎口なんでしょうか?

宗吾神社が祀られ、「内山城址」のモニュメントが建つ主郭T。断崖絶壁に囲まれた、天険の要害の地です。

主郭周囲の腰曲輪、帯曲輪にも石塁の残欠のようなものがあちこちに散在していました。主郭周囲には数段の削平地がありますが、ここでは全部まとめて主郭と見なしておきます。

主郭南側の腰曲輪周囲は、内山峡にストンと落ち込む大絶壁。下を覗き込むとスゴイ迫力があります。まさに難攻不落。見学の際はちょっと足許に注意が必要ですね。

内山峠を越えて、関東へ通じる内山峡。一応現地の標示では「江戸方面」となっていました。まあ方角的にはそうですが、絶対見えっこないですね(笑)。

主郭付近から佐久平、野沢方面を見渡す。この奥に連なる山々は雪雲に隠れてしまっていた。。。

V曲輪の東側の急斜面を下りるとまた遺構が現れます。堀切1に面して2段の腰曲輪がありますが、いずれも外側に土塁が盛られており、見ようによっては三重堀切にも見えます。

背後の尾根続きとの間を遮断する堀切1。北側は長い竪堀になっています。尾根続きには内山古城なる山城があるそうですがそちらは未攻略。

堀切1あたりから北側急斜面を降りた場所にある石積みの井戸。深さ2mほど、中世のものかどうかはともかく、これほど明瞭な井戸遺構は稀なほどです。 井戸に面して、三段ほどの謎の石塁(?)があります。崩落防止のためでしょうか??
堀切1の南側にも謎の石積みの列が。もっともらしく折れや虎口風な場所もありますが、城郭遺構と見るよりも植林の際の崩落防止処置ではないかと想像します。 V曲輪から登山道を逸れて岩だらけの西尾根を進む。途中に堀3がありますが、岩だらけで堀の必要性をあまり感じません。
円城寺裏手の西尾根鞍部の堀4。尾根幅が広く微妙にカーブしているので、横堀にも見えます。 堀4の土橋を渡るヤブレンジャー&巡城組。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「佐久」ICより車10分。

JR小海線「滑津」駅、「中込」駅より登山口まで徒歩50分。  

周辺地情報

お隣の山が平賀城、平場に出ると野沢城(伴野氏館)、北へ向うと志賀城など。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 
参考文献

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「風林火山・信玄の戦いと武田二十四将」(学研「戦国群像シリーズ」)

「歴史読本 1987年5月号」(新人物往来社)

別冊歴史読本「武田信玄の生涯」(新人物往来社)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

佐久市観光協会提供資料ほか

参考サイト

歴史を旅する

 

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