塩田城には、村上義清や飫富虎昌が拠った戦国城郭としての顔の他に、「信州の鎌倉」といわれるように、塩田北条氏三代が居住した場所、という性格があります。周辺は「信州の鎌倉」の名の通り、寺社仏閣が建ち並び、「別所温泉」が近いこともあって、多くの観光客で賑わっていました。塩田城も、この手の城郭としては珍しく、数人の観光客が入り口付近で解説などを読んでおりました、もっとも、塩田城そのものは大部分が山林化した山城ですので、観光客たちは入り口付近で撤退していきましたが。
この塩田の地は古来より国府が近いこともあって、学僧などが集まる文化先進地帯であったようです。塩田北条氏が入部する以前から、源頼朝などもこの地を重視したといいます。信州の山沿いのこの地が遠く離れた鎌倉と深いかかわりがある、というのは不思議な気もします。
城下には前山寺や龍光院などの寺社仏閣などともに、中世城下町の名残が見られます。「鎌倉街道」と伝えられる小路付近が「下城戸」で、そこから塩田城に向って町屋区画である「下町」、町屋区画と武家区画を仕切る「枡形」を経て、塩田城主要部にいたる「大空堀」までの間の武家区画である「上町」などには、往時の町割りの名残が強く残っています。また、塩野神社参道の直線道路は、かつて「流鏑馬」が行われた場所でもあります。このように、城下町をちょっと注意深く見るだけでも、なかなか楽しめると思います。葛尾城を追われた村上義清が再起を決して籠った地でもあり、そういう意味では「川中島合戦」へと至る「歴史の入り口」のひとつでもあります。
塩田城そのものは、独鈷山山麓の「弘法山」全山を城砦化したもので、規模の大きな山城の多い信濃国でも随一の規模を誇る城です。主要部は弘法山のU字型の尾根に守られた谷津奥にあり、これも信濃の山城でよく見られる形態です。現在、その最も奥には北条国時の墓所があります。周囲の尾根にも砦が点在し、この谷津を包み込むように守っていたようですが、道が倒木と草木で完全に埋もれていたため見学は断念しました。
一目見てわかる遺構としては、この谷津部に設けられた多くの曲輪群と、中腹にある「虎の口」の石積み虎口遺構でしょう。この石積み虎口は村上氏のころのものと言われます。