「信州の鎌倉」に聳える巨城

塩田城

しおだじょう Shioda-Jo

別名:古城

長野県上田市前山

城の種別

山城

築城時期

建治三(1277)年頃

築城者

北条義政

主要城主

塩田北条氏、村上氏、飫富氏

遺構

曲輪、石塁、空堀、井戸

「虎の口」の石積み土塁<<2002年11月06日>>

歴史

古来より信濃国府所在地の近くに位置し、多くの学人たちが集まる地域であった。
建治三(1277)年頃、鎌倉幕府執権北条時宗の連署であった北条義政が隠居し塩田の地に居を構えたのが塩田城のはじまりという。以後、塩田北条氏三代の居として栄えた。元弘三(1333)年、新田義貞が鎌倉幕府倒幕の兵を挙げ武蔵関戸で北条高時の軍と闘った際に、塩田北条陸奥入道国時も幕府軍の一員として闘い、その後鎌倉東勝寺で塩田北条国時・俊時父子も北条得宗家一門とともに自刃し、塩田北条氏は滅亡した。建武二(1335)年、足利直義は倒幕の軍功として塩田領を村上信貞に与え、以後村上領となり、城代として福沢氏らが置かれた。

村上義清は天文十(1541)年、甲斐守護の武田信虎、諏訪上社大祝家の諏訪頼重らと謀って海野平に侵攻し、滋野一族を追って小県を領土に治めたが、父・武田信虎を追って諏訪・伊奈・佐久に侵攻した武田晴信(のちの信玄)と次第に対立した。村上義清についた国人衆は武田氏の傘下に入った諏訪大社の御頭(祭礼役)を拒否し、塩田城の福沢顕昌らの支配下に集まった。
天文十七(1548)年二月、上田原合戦で武田軍と村上軍が交戦、決着はつかなかったものの武田軍は板垣信方、甘利虎泰ら重臣を戦死させ、実質的に敗北した(上田原合戦)。天文十九(1550)年には戸石城攻めの武田軍の撤退に際し村上義清らが追激戦を行い、武田軍は殿軍の横田高松ら将兵一千余が戦死した(戸石崩れ)。

天文二十(1551)年五月二十六日、真田幸隆が戸石城を乗っ取り、天文二十二(1552)年四月には村上義清の属将、屋代越中守政国(荒砥城主)、塩崎氏(塩崎城主)らが武田に内応、村上義清の本拠・葛尾城を伺った。四月九日に義清は葛尾城を棄てて逃亡し、越後春日山城の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼った。村上義清らの要請により長尾景虎は川中島に出陣、武田晴信も八幡(更埴市)に陣を張り、葛尾城荒砥城などで交戦した。これにより村上義清は旧領を回復し塩田城に入った。晴信は深志城に在陣し、五月十一日に躑躅ヶ崎館に一旦帰還、六月一日に軍議を催し、村上義清の籠る塩田城攻撃を決定、七月二十五日に出陣し、若神子城内山城を経て八月一日には村上・長尾に内通した和田信定の籠る和田城を陥とし、八月四日には高鳥屋城を攻撃して落城させた。これらの城を陥落させた晴信は塩田城包囲のために進軍したが、これを知った村上義清は塩田城を脱出して行方不明になり、村上方の諸城十六が一日で陥ち、村上義清の旧領回復は三ヶ月で終わった。八月五日に塩田城はあっけなく陥落し、晴信は飫富兵部少輔虎昌を城将に任じ、小県の押さえとし、また塩田城で戦後処理を実施、真田幸隆らに恩賞として秋和を与えている。この間、長尾景虎軍が南下、晴信は飫富虎昌を室賀城に移動させ、晴信自身は塩田城を本陣として長尾軍に対峙した。結局、長尾軍は九月十七日に坂木南条に放火したものの塩田城には迫れず、九月二十日に撤退し、晴信は塩田城から途中まで出陣していたものの、撤退の報を聞いて塩田城に戻り、論功行賞を行っている(第一次川中島合戦)。

天正十(1582)年三月、武田氏が滅亡すると、塩田城は真田昌幸の支配下に入るが、天正十一(1583)年の上田城築城により廃城となった。

塩田城には、村上義清や飫富虎昌が拠った戦国城郭としての顔の他に、「信州の鎌倉」といわれるように、塩田北条氏三代が居住した場所、という性格があります。周辺は「信州の鎌倉」の名の通り、寺社仏閣が建ち並び、「別所温泉」が近いこともあって、多くの観光客で賑わっていました。塩田城も、この手の城郭としては珍しく、数人の観光客が入り口付近で解説などを読んでおりました、もっとも、塩田城そのものは大部分が山林化した山城ですので、観光客たちは入り口付近で撤退していきましたが。

この塩田の地は古来より国府が近いこともあって、学僧などが集まる文化先進地帯であったようです。塩田北条氏が入部する以前から、源頼朝などもこの地を重視したといいます。信州の山沿いのこの地が遠く離れた鎌倉と深いかかわりがある、というのは不思議な気もします。

城下には前山寺や龍光院などの寺社仏閣などともに、中世城下町の名残が見られます。「鎌倉街道」と伝えられる小路付近が「下城戸」で、そこから塩田城に向って町屋区画である「下町」、町屋区画と武家区画を仕切る「枡形」を経て、塩田城主要部にいたる「大空堀」までの間の武家区画である「上町」などには、往時の町割りの名残が強く残っています。また、塩野神社参道の直線道路は、かつて「流鏑馬」が行われた場所でもあります。このように、城下町をちょっと注意深く見るだけでも、なかなか楽しめると思います。葛尾城を追われた村上義清が再起を決して籠った地でもあり、そういう意味では「川中島合戦」へと至る「歴史の入り口」のひとつでもあります。

塩田城そのものは、独鈷山山麓の「弘法山」全山を城砦化したもので、規模の大きな山城の多い信濃国でも随一の規模を誇る城です。主要部は弘法山のU字型の尾根に守られた谷津奥にあり、これも信濃の山城でよく見られる形態です。現在、その最も奥には北条国時の墓所があります。周囲の尾根にも砦が点在し、この谷津を包み込むように守っていたようですが、道が倒木と草木で完全に埋もれていたため見学は断念しました。

一目見てわかる遺構としては、この谷津部に設けられた多くの曲輪群と、中腹にある「虎の口」の石積み虎口遺構でしょう。この石積み虎口は村上氏のころのものと言われます。

標高1,266mの独鈷山の山麓、弘法山(写真手前)のほぼ全山が塩田城。周囲には砦や出城を配した、規模の大きい城郭です。 塩田城主要部への入り口、空堀前にある塩田城跡の碑。この手の城には珍しく、何人かの観光客と出会いました。
塩田城の前面を隔てる空堀。堀底がW型であった、と書いてありましたが、これは「二重空堀」ということなんでしょうか? 城址の真ん中を貫く歩道沿いには、かつてなんらかの殿社があったろうと思われる屋敷地の名残が残っています。
山林の中には発掘成果を書き記した看板などもあります。このあたりは政庁の跡と推定されています。発掘品は「塩田の館」で見ることができます。 城内の一角にある三島社。三島社は北条氏と縁の深い神様であり、塩田北条氏がここに建立したものなのでしょう。

三島社周辺や、城内の道沿いには山林化しているものの、数多くの削平地が認められます。

このあたりが上城戸だったと推定。急坂の道が狭まり、大きな土塁が見下ろすように立ちはだかっています。

「虎の口」の石垣枡形。その名の通り、城内最高所である主郭への虎口に当たる場所です。削平地の真ん中に石垣土塁が伸びており、これによって二重の枡形が形成されています。この石積み遺構は村上氏時代のものといわれています。

虎の口の削平地を分断する石垣土塁。

この虎の口には井戸跡などもあります。中を覗いてみましたが、暗くて水があるかどうかはわかりませんでした。

城内最高所、主郭に当たる場所にたたずむ塩田(北条)陸奥守国時の墓所。

国時の墓所周辺は切り立った岩場に囲まれています。この岩場の上には外郭線にあたる砦が点在していますが、道が不鮮明で危険と判断し引き返しました。

[ おまけ(城下町) ]

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「上田菅平」ICより車20分。

上田交通別所線「塩田町」駅より登山口まで徒歩30分。  

周辺地情報

上田市内の上田城や上田市、真田町周辺の山城群など。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 
参考文献 「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)、「風林火山・信玄の戦いと武田二十四将」(学研「戦国群像シリーズ」)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、上田市観光協会提供資料

参考サイト

上田・小県の城

 

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