白井城の白井長尾氏に属した沼田顕泰(万鬼斎)が享禄二(1529)年に築城を開始し天文元(1531)年に完成したといわれる。天文二十一(1552)年、平井城の関東管領・上杉憲政が北条氏康に追われ沼田城に身を寄せた。顕泰や長尾憲景らの斡旋で、憲政は春日山城の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。その後、顕泰は北条氏に従い、北条氏は沼田城に北条孫次郎らを派遣したが、永禄三(1560)年、謙信が上杉憲政を奉じて関東に出陣すると、北条孫次郎らは撤退し、孤立した顕泰は長井坂城の謙信の陣を訪れ降伏した。
しかし、顕泰は家督の相続をめぐって、三男の朝憲を殺害したことから家中が対立、永禄十二(1569)年、顕泰は天神山城に立て籠もったが、二千五百の兵に囲まれて城を脱出、会津の芦名氏を頼って落ち延びた。これにより沼田城は沼田氏から、上杉氏城代へと支配が移った。
天正六(1578)年五月、御館の乱で上杉氏が内紛状態に陥ると、北条氏政は沼田城に鉢形城主・北条氏邦ら三万を派遣し沼田城を占領、城代に猪俣邦憲、上杉氏の降将・藤田信吉、金子泰清らを置いた。これに対し、武田勝頼は真田昌幸に沼田城攻略を命じた。昌幸は藤田信吉、金子泰清らに調略をしかけ、天正七(1579)年、岩櫃城から進発、名胡桃城の鈴木主水重利や小川城などが説得に応じ開城した、北条氏は十一月ニ十一日に猪俣・藤田を先鋒に五千の軍勢で名胡桃城、小川城を攻めたが、大雪のため一旦鉢形城に撤退した。天正八(1580)年正月十一日、昌幸は名胡桃城で軍議を行い、三十一日に明徳寺城を攻略、沼田周辺に放火して名胡桃城に引き上げた。この後、昌幸は沼田城攻略を叔父の矢沢城主・矢沢綱頼に任せ甲府に戻った。
閏三月、綱頼は沼田城を攻め、四月上旬、金子泰清らが投降、五月に入って藤田信吉も投降し、五月十八日、昌幸は無血で沼田城に入城した。昌幸は沼田城に藤田信吉、海野幸光・輝幸兄弟らを城代として入れた。しかし天正九(1581)年二月、沼田顕泰の庶子、平八郎景義が北条氏と金山城主・由良氏の援助で沼田城奪還を狙って攻撃した。新府城の普請奉行を勤めていた昌幸は急遽岩櫃城に入り、金子泰清に命じて策略を講じた。三月十一日、藤田・海野の沼田城勢は景義と田北の原で闘い敗れて沼田城に引き上げた。このとき金子泰清は偽の起請文をしたため、三月十五日、景義を沼田城内に招き、城内に入ったところを刺殺した。この後、十一月に海野兄弟が北条方の猪俣邦憲に通じたとして、真田昌幸はふたりを誅殺している。
天正十(1582)年三月に武田氏が滅び、六月には本能寺の変で織田信長が横死すると、昌幸は主家をたびたび変えながら独立領主の道を歩んだ。武田氏の遺領をめぐって徳川家康と北条氏政・氏直が甲斐や信濃、上野で対陣した(天正壬午の乱)が、同年九月に和議が成立、天正十三(1585)年に甲斐・佐久・諏訪は徳川領、上州は北条領との分割が実施されることになった。しかし、真田昌幸に対し家康は上州沼田領の北条氏への明け渡しを命じたところ、昌幸は「沼田領はわが父祖伝来の土地であり、徳川の領地ではない」として明け渡しを拒否し、徳川家康と対立、昌幸は天正十三(1585)年七月、徳川麾下から上杉景勝に奔った。これに対し家康は同年八月、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら譜代の家臣と信濃・甲斐の国人衆を加え七千を動員し上田城を攻撃した(第一次神川合戦)。
その後、北条氏との間で沼田城をめぐって対立、関白豊臣秀吉の裁定で、天正十七(1589)年、北条氏政の上洛の条件として沼田城を含む沼田領の三分の二が北条氏の領土、名胡桃城を含む三分の一が真田氏の領土とされた。しかし同年十月、沼田城代・猪俣邦憲が名胡桃城を奪取する事件が置き、これを期に秀吉は小田原城の北条氏政・氏直に宣戦布告、翌天正十八(1590)年、小田原城は包囲され、北条氏は降伏開城して、小田原北条氏は事実上滅亡した。
北条氏滅亡後は昌幸の嫡子信幸(信之)がニ万七千石で入城、五層の天守などを造営し城の規模を拡大した。慶長五(1600)年の関ヶ原の役では、信幸は徳川家康の東軍に味方し、昌幸と信繁(幸村)は西軍に与して上田城に立て籠もった。この時の功として、真田信幸は沼田領を安堵され、信州松代城も与えられた。天和元(1681)年に真田氏五代伊賀守の改易に伴い廃城となったが、のちに本多氏により再建され、黒田氏、土岐氏と続いて廃藩置県を迎えた。