北信濃最大の豪族、村上氏。村上義清は、武田信玄にとって、最初の強敵といえる存在でした。上田原合戦でオヤジ代りの板垣信方、甘利虎泰を失い、「戸石崩れ」では名侍大将の横田高松を失いました。しかし、信玄は諦めず、ジワジワと北信の豪族たちを調略にかけ、真田幸隆の智謀で戸石城を奪取し、とうとう村上氏の本拠、この葛尾城をほぼ無血で占領してしまいます。葛尾城は村上氏の本拠であり、戸石城に勝るとも劣らない天嶮の上、周辺には多くの支城網を抱えているため、まともに力攻めでは損害が莫大なものになったでしょう。信玄は、荒砥城などの支城に対し調略をしかけ、寝返らせることで、葛尾城の城兵に対し圧力を掛けていきます。そして狙いどおり、村上義清は葛尾城を捨てて行方をくらましました。
しかし信玄にとってある意味誤算だったのは、義清が逃げ込んだ場所が、あの春日山城、長尾景虎(のちの謙信)のもとであったことではないでしょうか。義清を始めとした北信の豪族たちが景虎を頼ったことで、景虎は川中島をめぐる長年の争いに巻き込まれることとなり、また信玄にとってもおもわぬ強敵によって信濃の完全領有を阻まれることになりました。「第一次川中島」では一時的に村上義清が葛尾城を回復したりもしています。こうした「龍虎宿命の対決」は十年にもおよび、有名な「第四回川中島合戦」を含む、五度の戦いがありました。どっちが勝った云々は別として、結果から見れば、上杉謙信と武田信玄、この二人の史上稀に見る英傑ふたりは、この葛尾城から発するゴタゴタのおかげで天下を取り損ねた、とも言えます。そんな歴史的事件の発端の地、「嵐を呼んだお城」としてこの葛尾城を捉えてみるのも面白いでしょう。
葛尾城自体は規模も比高差も大きい山城で、本城である「葛尾城」と出城である「姫城」が一体化したものです。こうした「別城一郭構造」は信濃の山城では多く見られるような気がします。しかし規模が大きい割には非常にシンプル、というか、ある意味古めかしいお城で、前面に腰曲輪主体、背後に尾根続きを断ち切る堀切主体の基本的な構造は、戸石城の「本城」に似ていますが、むしろ戸石城の方がはるかに攻撃的な、というか、進んだお城、という気がします。
実際には、ソレガシが見学した範囲以外の西に派生する尾根上や、「姫城」などの遺構はもっと高度なものであるらしいのですが、いかんせん写真で見て頂く通り、山頂付近で「嵐」ならぬ、横殴りの雪に追われてしまい、じっくりと見学することができませんでした。登り始める前から山に雲がかかり始めて、やや怪しい気配はあったのですが、まさかここまで本降りになろうとは。山頂のあづまやで15分ほどやり過ごしていると、一転空が晴れ始めたので、そのスキに急いで下山しました。ちょっと雪降るの、早過ぎないか?