戦雲来たる!嵐を呼ぶお城

葛尾城

かつらおじょう Katsurao-Jo

別名:

長野県埴科郡坂城町坂城

(坂城神社裏山)

城の種別

山城

築城時期

不明 

築城者

村上氏

主要城主

村上氏

遺構

曲輪、土塁、堀切

雪の合間の葛尾城主郭からの眺め<<2002年11月09日>>

歴史

築城時期は定かではない。歴代城主の村上氏は嘉保元(1094)年に罪を咎められて信州に流された清和源氏頼信流の盛清を祖先にするとも、高麗の帰化人の子孫ともいわれるがはっきりしない。のちに北条党の討伐に功績があり、南北朝時代末期に坂城に移り、葛尾城附近を本拠としたともいわれる。

応永七(1400)年、信濃守護・小笠原長秀と在地土豪が争った「大塔合戦」では、村上満信は国人領主を糾合し、盟主として闘って小笠原氏を更迭させたという。

村上義清は天文十(1541)年、甲斐守護の武田信虎、諏訪上社大祝家の諏訪頼重らと謀って海野平に侵攻し、滋野一族を追って小県を領土に治めたが、父・武田信虎を追って諏訪・伊奈・佐久に侵攻した武田晴信(のちの信玄)と次第に対立した。天文十七(1548)年二月、上田原合戦で武田軍と村上軍が交戦、決着はつかなかったものの武田軍は板垣信方、甘利虎泰ら重臣を戦死させ、実質的に敗北した(上田原合戦)。天文十九(1550)年には戸石城攻めの武田軍の撤退に際し村上義清らが追激戦を行い、武田軍は殿軍の横田高松ら将兵一千余が戦死した(戸石崩れ)。しかしこのときすでに、葛尾城北方の清野・寺尾氏らは真田幸隆を通じて武田に降伏、出仕していた。天文二十(1551)年五月二十六日、真田幸隆が戸石城を乗っ取り、天文二十二(1552)年四月五日には村上義清の属将、屋代越中守政国(荒砥城主)、塩崎氏(塩崎城主)らが武田に内応、武田軍は葛尾城攻撃の準備に入ったが、四月九日に義清は葛尾城を棄てて逃亡し、越後春日山城の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼った。信玄は葛尾城代に於曾源八郎を置いて守らせたが、村上義清は四月十二日、上杉謙信の援軍を得て更埴市八幡附近で武田軍と戦闘、四月二十三日、葛尾城は落城して於曾源八郎は討ち死に、義清は旧領を回復し、自らは塩田城に入った。信玄は一旦兵を退いた後、躑躅ヶ崎館を七月二十五日に出陣し、八月には塩田城包囲のために進軍したが、これを知った村上義清は八月五日、塩田城を脱出して行方不明になり、村上方の諸城十六が一日で陥ち、村上義清の旧領回復は三ヶ月で終わった。この間、上杉軍が南下、九月一日に更級郡八幡で武田軍を破り、屋代氏の荒砥城を占領、九月三日には青柳城に放火、これに対し武田軍は苅谷原城に山宮氏、飫富左京亮らを援軍として送り、九月十三日には上杉軍の占領する荒砥城青柳城を攻撃した。上杉軍は十五日に一旦撤退し、その後九月十七日に坂木南条に放火したものの武田軍本陣の塩田城には迫れず、九月二十日に撤退した。(第一次川中島合戦)。その後、計五回に渡る川中島の合戦には葛尾城の記録は登場しない。

慶長五(1600)年の関ヶ原の役に際し、徳川秀忠は真田昌幸の立て籠もる上田城の攻撃に失敗、松代城にいた森忠政は葛尾・虚空蔵山に兵を置き、真田昌幸の動向を監視していた。これに対し昌幸は葛尾城に夜襲をかけ、二ノ丸まで攻め込んだ後、一旦兵を退いた。五日後早朝、再び二ノ丸に攻め込み、三の木戸で攻防戦を繰り広げたが落城には至らなかった。この後、葛尾城は廃城になったと思われる。

北信濃最大の豪族、村上氏。村上義清は、武田信玄にとって、最初の強敵といえる存在でした。上田原合戦でオヤジ代りの板垣信方、甘利虎泰を失い、「戸石崩れ」では名侍大将の横田高松を失いました。しかし、信玄は諦めず、ジワジワと北信の豪族たちを調略にかけ、真田幸隆の智謀で戸石城を奪取し、とうとう村上氏の本拠、この葛尾城をほぼ無血で占領してしまいます。葛尾城は村上氏の本拠であり、戸石城に勝るとも劣らない天嶮の上、周辺には多くの支城網を抱えているため、まともに力攻めでは損害が莫大なものになったでしょう。信玄は、荒砥城などの支城に対し調略をしかけ、寝返らせることで、葛尾城の城兵に対し圧力を掛けていきます。そして狙いどおり、村上義清は葛尾城を捨てて行方をくらましました。

しかし信玄にとってある意味誤算だったのは、義清が逃げ込んだ場所が、あの春日山城、長尾景虎(のちの謙信)のもとであったことではないでしょうか。義清を始めとした北信の豪族たちが景虎を頼ったことで、景虎は川中島をめぐる長年の争いに巻き込まれることとなり、また信玄にとってもおもわぬ強敵によって信濃の完全領有を阻まれることになりました。「第一次川中島」では一時的に村上義清が葛尾城を回復したりもしています。こうした「龍虎宿命の対決」は十年にもおよび、有名な「第四回川中島合戦」を含む、五度の戦いがありました。どっちが勝った云々は別として、結果から見れば、上杉謙信と武田信玄、この二人の史上稀に見る英傑ふたりは、この葛尾城から発するゴタゴタのおかげで天下を取り損ねた、とも言えます。そんな歴史的事件の発端の地、「嵐を呼んだお城」としてこの葛尾城を捉えてみるのも面白いでしょう。

葛尾城自体は規模も比高差も大きい山城で、本城である「葛尾城」と出城である「姫城」が一体化したものです。こうした「別城一郭構造」は信濃の山城では多く見られるような気がします。しかし規模が大きい割には非常にシンプル、というか、ある意味古めかしいお城で、前面に腰曲輪主体、背後に尾根続きを断ち切る堀切主体の基本的な構造は、戸石城の「本城」に似ていますが、むしろ戸石城の方がはるかに攻撃的な、というか、進んだお城、という気がします。

実際には、ソレガシが見学した範囲以外の西に派生する尾根上や、「姫城」などの遺構はもっと高度なものであるらしいのですが、いかんせん写真で見て頂く通り、山頂付近で「嵐」ならぬ、横殴りの雪に追われてしまい、じっくりと見学することができませんでした。登り始める前から山に雲がかかり始めて、やや怪しい気配はあったのですが、まさかここまで本降りになろうとは。山頂のあづまやで15分ほどやり過ごしていると、一転空が晴れ始めたので、そのスキに急いで下山しました。ちょっと雪降るの、早過ぎないか?

南側から見る葛尾城の雄大な姿。太郎山系の支尾根が突き出た急峻な山で、山麓の居館附近からは386mもの比高差があります。なにやら怪しい雲行きが。。。。 南麓の村上山満泉寺は村上氏の菩提寺であったとともに、村上氏が平素暮らした居館でもありました。屋根にもこんなふうに村上氏の家紋が。
尾根筋に出るまでは結構歩いた気がします。やっと尾根、と思ったらご覧のようなシャレにならない天候に。尾根も急だし、この先進むかどうかちょっと考えてしまった。 とりあえず「姫城」に行こう、と思って思い切り間違えてしまった尾根。わかりにくいよ〜!姫城どころか足元の危険なただの岩山。雪はますます強く・・・。
とりあえずちょっと回復したスキに二郭まで登る。途中には曲輪なのかどうか何とも判然としない削平地らしきものがいくつかあります。向こうに見える主郭とは、浅い堀切で隔てられていたようです。 そういうわけで主郭になんとか到着。迷走を含め50分くらいかかりました。石塁があるという話も聞いたことがありましたがそれらしきものは見当たりません。また天候が崩れてきたのであづまやに避難!
千曲川沿いに望む上田方面の景色。わずか十五分ほどの間にめまぐるしく変わる天気。晴れてみれば、和合城などの支城群や遠く塩田城なども望むことができます。が、またまた天候が怪しく・・・。見学は早めに切り上げねばなるまい・・・。
こちらは上山田町、更埴市方面。左手に小さく荒砥城が見えています。葛尾城を支えきれずに自落させた義清は越軍の援助によってこの方面から奪還の兵を進めて来ました。 葛尾城から望む支城の荒砥城荒砥城自体もなかなか見ごたえのある面白いお城ですが、いかんせん巨大な葛尾城の前では吹けば飛ぶよな小城に過ぎません。

主郭背後の尾根続きを守る土塁。自然地形の落差に堀切もセットで、背後の守りを固めます。独立山塊の少ないこの辺りの山城によく見られる構造です。

主郭背後の堀切。堀切自体の規模が大きいわけではないですが、主郭との落差は結構大きいです。

尾根続きは厳重に堀切が設けられています。これは主郭から四つ目の堀切。うっすらと雪化粧。 これは五つ目の大堀切。大小さまざまな堀切が連続しますが、天候が心配なのでこの辺で切り上げました。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「坂城」ICより車10分。

しなの鉄道線「坂城」駅より登山口まで徒歩10分。  

周辺地情報

葛尾城の別郭である姫城や、周辺の荒砥城、狐落城、落水城などの支城群。海津城や、上田城をはじめとした真田氏ゆかりのお城の数々も近いです。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「信州の城と古戦場」(南原公平/令文社)、「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

参考サイト

 

 

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