真田の郷を見晴らす丘

真田本城

さなだほんじょう Sanada-Honjo

別名:真田氏本城、松尾城、真田城、住蓮寺城

長野県小県郡真田町長

城の種別

山城

築城時期

不明(鎌倉期?永禄期?)

築城者

真田氏(?)、横尾氏(?)

主要城主

真田氏

遺構

曲輪、土塁

麓から見る真田本城<<2002年11月05日>>

歴史

天文年間(1532-55)ごろの真田氏の築城ともいわれるが、鎌倉時代に横尾氏、または幸隆以前の真田氏が現在の信綱寺にあった居館(内小屋城)から居を移した、といわれる。

天文十(1541)年、武田信虎、諏訪頼重、村上義清は連合して海野平に侵攻し、滋野一族の頭領であった海野棟綱と、その子(孫、娘婿とも)の真田幸隆らは小県の領土を棄て、上州吾妻の羽根尾城の羽尾幸全を頼った。棟綱、幸隆らはその身柄を長野業政に預けられ、箕輪城内の一角で居住したが、天文十年代に幸隆は箕輪城を出奔し、武田信虎を駿河に追って甲斐国主となった武田晴信(信玄)に仕官した。幸隆は「信州先方衆」として、佐久・小県・北信濃の血縁者をはじめとした在地土豪の懐柔に勤め、信玄の信濃侵攻を助けた。天文十七(1548)年の上田原合戦にも従軍し、天文十九(1550)年の戸石城攻撃に際しては、事前に信玄より諏訪および旧領の小県の所領を約束された。この時は武田軍は退き陣に際し村上義清軍の追撃を受けて大敗(戸石崩れ)したが、翌天文二十(1551)年、幸隆は独力で戸石城を乗っ取り、小県周辺の旧領を回復し、戸石城を預けられた。この頃から、幸隆が没する天正二(1574)年までの間に、真田氏館が平素の居館として構築され、真田本城はその本拠の城としていたと推定される。

幸隆の死後は信綱が跡を嗣いだが、天正三(1575)年、長篠・設楽ヶ原の合戦で信綱・昌輝兄弟は織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲隊の前に討ち死にし、幸隆の三男で当時、武藤家を嗣いでいた武藤喜兵衛(真田昌幸)が真田家を相続した。天正十(1582)年三月に武田氏が滅亡し、昌幸は織田(滝川一益)、北条氏政、上杉景勝、徳川家康と四回主人を代えた。天正十一(1583)年に真田昌幸が上田城を築城開始し、天正十三(1585)年に移り、真田本城も廃城となった。

この「真田本城」は、名前の通り真田氏の本城だったかというと、あくまでこれは推定なんだそうです。「松尾古城」も別に古くも無いのに「古城」だし、「真田本城」は本城かどうかイマイチ分らないし、別名は「松尾城」、松尾古城も「松尾城」といわれることもあり、ややこしいややこしい。詮索しても無駄なので、ここではまず真田氏の城である、ということを前提にしたいと思います。

で、「本城」であったかどうかは現地を見て判断することにしました。あくまで個人の感想のレベルですが、本城、というよりもおそらくここは「戦闘指揮所」ですね。本城と戦闘指揮所、どう違う?と言われると答えに窮するのですが、少なくとも籠城用の施設であるようには見えませんでした。麓から見ると山というより丘陵端で、標高こそ戸石城とほぼ同じですが、見た目のスケールは戸石城のほうがはるかに大きく感じます。主郭〜三郭の曲輪間の分断は充分ではなく、削崖による段差が主体で、堀切等は無いようでした(埋まってしまっただけかもしれないが)。周囲は急斜面ですが、斜面の角度だけで言えば松尾古城や、真田本城の背後の守りといわれる天白城の方が上でしょう。何より、峰続きの背後の尾根が広すぎること、背後の斜面が緩斜面なことから、籠城戦での防御には不向き、と判断しました。

では何のための城か?ということになると、ここで「戦闘指揮所」が出てきます。この真田盆地は南北に細長い、舟のような形をしているのですが、この舟全体を満遍なく見張らせる場所、というとこの真田本城の位置はまさにドンピシャリです。この立地条件こそがこの城の存在意義を表しているように思えます。戦艦にたとえれば「主砲」が一番攻撃的な戸石城、「館長室」にはお屋敷、そして全体を指揮する「艦橋」にあたる真田本城があり、背後には「電探」と「後部指揮所」「後部艦橋」にあたる松尾古城が控える、そして周囲には「高角砲」や「機銃座」に該当する小規模な城砦群を点々と配置する、そんな風に見えてきます。例えが分かりにくい?そうか。。。

もっとまじめに考えれば、戸石城などで見られる、内小屋を三方の尾根が守る形式を真田盆地全体に拡大したのが真田の城砦群で、その最も中枢が居住区であるお屋敷と作戦指揮所である真田本城である、そんな風に考えることはできないでしょうか。いわば真田郷全体を城砦化した中での中心的な城、という考え方です。もちろん、真田幸隆の戸石城奪取にあたっても、重要な役割を持っていたであったことも推定されます。

主な遺構は前述の曲輪群と、主郭背後の大土塁で、堀切については尾根続きの峠道がそうであったろうとは思いますが、明瞭なものはありませんでした。台地の背後は広く、今では集落や畑になっているので、改変もそれなりにあっただろうと思います。大手口は三郭の先端部下にあったようですが、こちらは行っておりません。

真田の街から見上げる真田本城。山すそが突き出した、形のいい丘陵の端に位置します。 松尾古城の麓近くから見る真田本城。真田の郷の、ほとんどどこからでも見えます。
尾根続きの駐車場方面は広い台地。土塁や堀切の痕跡と思われる地形もあり、外曲輪に当たるのかな?などと思いましたが、あまり明瞭ではないため断定できません。 駐車場から5分ほどで、いきなり主郭背後の大土塁に到達します。この手前も明瞭ではありませんが大堀切だった可能性もあります。
「真田氏本城跡」の標柱などが建つ本城主郭の土塁。 本城の主郭は台地の付け根と接しており、土塁(と堀切?)で背後の台地と途絶しています。

二郭。主郭との間に明瞭な堀切はなく、段差のみで仕切られています。周囲の斜面はかなり急です。

台地先端にある三郭。非常に見晴らしが良い。

三郭から二郭を見る。ここも段差のみで仕切られていますが、わずかに「堀?」と思わせる痕跡が無くもありません。 三郭付近からの見晴らし。真田の郷の中央にお屋敷が控え、その先には戸石城が黒々と浮かび上がる。上田の市街地や、その先、塩田城のある独鈷山まで見えます。
真田信綱、昌輝兄弟の菩提を弔う信綱寺。この付近は内小屋城という古い城館のあった場所でもある。 北に目を向けると、松尾古城の険しい山容が。山の上の方はうっすらと白く色づいていました。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「上田菅平」ICより車15分。

長野新幹線・しなの鉄道・上田交通「上田」駅よりバス(?)。

周辺地情報

真田町内の松尾古城お屋敷などの城館や、信綱寺、長谷寺などの真田氏ゆかりの場所など。周囲の峰には戸石城をはじめ山城だらけなので、ご興味と体力があれば全部廻ってみてください。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 
参考文献 「真田戦記」(学研「戦国群像シリーズ」)、別冊歴史読本「戦国・江戸 真田一族」(新人物往来社)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、真田町観光課提供資料

参考サイト

上田・小県の城

 

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