この「真田本城」は、名前の通り真田氏の本城だったかというと、あくまでこれは推定なんだそうです。「松尾古城」も別に古くも無いのに「古城」だし、「真田本城」は本城かどうかイマイチ分らないし、別名は「松尾城」、松尾古城も「松尾城」といわれることもあり、ややこしいややこしい。詮索しても無駄なので、ここではまず真田氏の城である、ということを前提にしたいと思います。
で、「本城」であったかどうかは現地を見て判断することにしました。あくまで個人の感想のレベルですが、本城、というよりもおそらくここは「戦闘指揮所」ですね。本城と戦闘指揮所、どう違う?と言われると答えに窮するのですが、少なくとも籠城用の施設であるようには見えませんでした。麓から見ると山というより丘陵端で、標高こそ戸石城とほぼ同じですが、見た目のスケールは戸石城のほうがはるかに大きく感じます。主郭〜三郭の曲輪間の分断は充分ではなく、削崖による段差が主体で、堀切等は無いようでした(埋まってしまっただけかもしれないが)。周囲は急斜面ですが、斜面の角度だけで言えば松尾古城や、真田本城の背後の守りといわれる天白城の方が上でしょう。何より、峰続きの背後の尾根が広すぎること、背後の斜面が緩斜面なことから、籠城戦での防御には不向き、と判断しました。
では何のための城か?ということになると、ここで「戦闘指揮所」が出てきます。この真田盆地は南北に細長い、舟のような形をしているのですが、この舟全体を満遍なく見張らせる場所、というとこの真田本城の位置はまさにドンピシャリです。この立地条件こそがこの城の存在意義を表しているように思えます。戦艦にたとえれば「主砲」が一番攻撃的な戸石城、「館長室」にはお屋敷、そして全体を指揮する「艦橋」にあたる真田本城があり、背後には「電探」と「後部指揮所」「後部艦橋」にあたる松尾古城が控える、そして周囲には「高角砲」や「機銃座」に該当する小規模な城砦群を点々と配置する、そんな風に見えてきます。例えが分かりにくい?そうか。。。
もっとまじめに考えれば、戸石城などで見られる、内小屋を三方の尾根が守る形式を真田盆地全体に拡大したのが真田の城砦群で、その最も中枢が居住区であるお屋敷と作戦指揮所である真田本城である、そんな風に考えることはできないでしょうか。いわば真田郷全体を城砦化した中での中心的な城、という考え方です。もちろん、真田幸隆の戸石城奪取にあたっても、重要な役割を持っていたであったことも推定されます。
主な遺構は前述の曲輪群と、主郭背後の大土塁で、堀切については尾根続きの峠道がそうであったろうとは思いますが、明瞭なものはありませんでした。台地の背後は広く、今では集落や畑になっているので、改変もそれなりにあっただろうと思います。大手口は三郭の先端部下にあったようですが、こちらは行っておりません。