徳川を二度蹴散らした堅城

上田城

うえだじょう Ueda-Jo

別名:尼ヶ淵城、真田城、松尾城、伊勢崎城

長野県上田市二の丸

(上田城跡公園)

城の種別

平城、崖端城

築城時期

天正十一(1583)年

築城者

真田昌幸

主要城主

真田氏、仙石氏、松平氏

遺構

曲輪、土塁、石垣、櫓三基、復興大手門他

復元本丸櫓門と現存櫓<<2002年11月06日>>

歴史

もともとは在地土豪・小泉氏の古い城館があったといわれる場所に、真田昌幸が築城した。
天正十(1582)年三月に武田氏が滅亡し、直後は昌幸は滝川一益の麾下となり、沼田城などの上州領のほとんどを押収されていたが、六月二日の本能寺の変によって織田信長が死去し、滝川一益が厩橋城を去ると沼田城をはじめ吾妻諸城を奪還、旧領回復した。昌幸は一時、北条氏政に臣従したが、弟の加津野信昌の取り成しで徳川家康に接近、これに怒った北条氏政が上州の利根・吾妻郡を攻め立てるようになった。これに対処するため、昌幸は小泉氏の旧館跡に新規に上田城を取り立てた。築城にあたっては、上杉景勝は配下の飯山城将岩井信能を虚空蔵山城に向わせ、築城を妨害している。

天正十(1582)年の武田氏滅亡直後、徳川家康と北条氏政・氏直は武田の旧領をめぐって甲斐や信濃、上野で対陣したが、同年九月に和議が成立、天正十三(1585)年に甲斐・佐久・諏訪は徳川領、上州は北条領との分割が実施されることになった。しかし、真田昌幸に対し家康は上州沼田領の北条氏への明け渡しを命じたところ、昌幸は「沼田領はわが父祖伝来の土地であり、徳川の領地ではない」として明け渡しを拒否し、徳川家康と対立、昌幸は天正十三(1585)年七月、徳川麾下から上杉景勝に奔った。これに対し家康は同年八月、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら譜代の家臣と信濃・甲斐の国人衆を加え七千を動員し上田城に迫った。昌幸は上杉軍の海津城将の須田満親に子の信繁(幸村)を差し出し、上杉景勝に援兵を求めた。上杉は地蔵峠を越えて根小屋城に着陣した。

昌幸は自らは上田城に籠り、嫡子信幸を戸石城に、丸子城、矢沢城にも兵を配置した。閏八月二日に徳川軍の攻撃が始まったが、真田軍は戸石城の信幸隊が囮となって徳川軍を上田城二の門際に誘き寄せ、矢玉を浴びせ城内から討って出て、徳川軍に大きな損害を与えた。徳川軍は神川まで敗走したが、複雑な城下町にも伏兵や罠が仕掛けられ、徳川軍は混乱、増水した神川に流され多くの将兵が死亡した(第一次神川合戦・第一次上田城合戦)。

慶長五(1600)年六月、徳川家康は会津の上杉景勝討伐の名目で出兵した。七月、対立する石田三成が大坂で挙兵、七月二十五日、下野小山の評定で、徳川軍は会津から上方に進路を変更した。この時に従軍していた真田昌幸は、嫡男信幸、次男信繁(幸村)を密議を交わし、昌幸・信繁は石田三成勢(西軍)につき、信幸は徳川家康勢(東軍)に加わった。東軍は徳川秀忠率いる徳川本隊三万八千を中山道、それ以外を東海道に分けて西上した。昌幸は上田城に籠城、九月二日、徳川秀忠は小諸城に着陣し、信幸と本多忠政を遣わせて昌幸に対し降伏を勧告した。昌幸は一旦降伏を受け入れるように見せかけて籠城準備し、抗戦の構えを見せた。秀忠は怒って自らは染谷台に着陣、四日に信幸に信繁の籠る戸石城を攻めさせた。信繁はこれを受けて五日に戸石城を開城して上田城に撤退、信幸は戸石城を無血占領した。六日から上田城攻撃が始まったが、昌幸は虚空蔵山に伏兵を置いて秀忠本陣を急襲、上田城の城兵が討って出て徳川軍は大混乱に陥った(第二次神川合戦・第二次上田城合戦)。七日、秀忠は上田城攻略を諦め抑えの将兵だけを残して中山道を西上したが、木曽路の行軍に手間取り、九月十五日の関ヶ原合戦に遅参する憂き目に遭った。

関ヶ原合戦の後、昌幸父子は九度山に配流となり、上田城は依田信守らによって管理され、徹底的に破却された。その後、上田城は真田信之(信幸から改名)に与えられるが、信之は元和八(1622)年、松代城に転封、小諸城から仙石忠政が入城した。宝永三(1706)年、仙石氏が但馬出石城に転封となり、松平氏が入城、明治の廃藩置県まで存続した。

真田の名を一躍全国に知らしめた徳川との合戦。秀吉から「表裏比興」と称された謀将・真田昌幸の本領発揮であります。はやる徳川軍を徹底的に愚弄し、いきり立って押し寄せるところを伏兵、埋兵が襲う。浮き足立ったところに城門を開け放ち討って出る、やられる徳川軍にしてみればたまったものではないですが、ハタで見ている身の上にはこれほど小気味好い闘いはないでしょう。しかも昌幸は、血走った眼を向ける徳川軍の前で、まるで敵を愚弄するかのように高砂を舞ったという。なんか、闘いの凄惨さを忘れて、笑ってしまいそうな光景です。この第一次神川合戦の後、大久保忠世は自軍の将兵たちのふがいなさを嘆き、「ことごとく腰の抜けたる様にて」「下戸に酒を強いたるが如し」「あったら知行かな(こんなやつらに知行をくれてやっているとは)」と言ったといいます。「この腰抜けども、ろくに働きもせず腰抜かしやがってこの給料ドロボー!」といったところですかね。

この第一次神川合戦で名を上げた昌幸はふたたびその名を全国に轟かせます。しかも天下分け目の戦い「関ヶ原」という絶好の舞台で。この大舞台で昌幸は、徳川秀忠率いる徳川本隊三万八千を再び徹底的に愚弄、いきり立つ秀忠は本多正信らの諫言にも耳を貸さずに上田城を攻め、貴重な時間を無駄に使い、挙句の果てに「本戦」の関ヶ原に遅参し、家康の大目玉を食らうという、なんとも情けない失態を演じてしまいます。結果的には西軍は関ヶ原で惨敗し、昌幸も九度山へ配流されてしまうのですが、真田の勇名を轟かせてご満悦であったことでしょう。この配流の際に、昌幸の嫡子、信幸(のちに信之と改名)はその身を賭けて父と弟の助命を嘆願します。信幸は本多忠勝の息女を家康の養女として妻に迎えており、いわば徳川の血縁にもあたるわけですが、戦功を投げ打ってでも一族の助命を願い出た心意気には胸を打たれます。地味な人物ですがこの人の血にも「不惜身命」の真田の血が流れていたのです。近世松代藩の礎を築いた人物でもあり、なかなかの傑物だと思います。ちなみに大恥をかいた秀忠は昌幸らの助命に徹底的に反対、配流が決まったときには歯噛みして悔しがったという。まあこの人物の器が知れるエピソードでもあります。この後、生き残った信繁(幸村)は「大坂の陣」で三度徳川を苦しめることになりますので、結果から考えれば、秀忠の「助命反対」も同情の余地はありますが。

徳川の怨みのこもった真田昌幸の上田城は徹底的に破却され、現在残る上田城の遺構の大部分は近世大名、仙石氏によって築かれたものです。あまりに徹底的に破却されたため、今に見る上田城と昌幸が築城した上田城の場所が同じなのかどうかさえ判然としないらしいです。まあ、ここでは通説に従って、昌幸の上田城の上に今に見る上田城がある、と思っておきましょう。その方が楽しいし。しかし、いまや上田城の周辺はすっかり市街地化し、千曲川支流の尼ヶ淵に面した要害であった頃の名残はあまりありません。本丸はたしかに断崖に面しており、かつて尼ヶ淵の崖に面していたであろうことは伺えますが、河道も変わり尼ヶ淵はアスファルト敷きの駐車場になってしまいました。本丸の外にも二ノ丸の堀や土塁などは残りますが、陸上競技場や学校施設などで改変された部分も多く、なんとなくここが徳川の大軍を二度も翻弄した場所だとは信じられない気もします。本丸周囲は大型の観光バスが出たり入ったり、バスガイドのおねーさんが団体さんの引率で声を張り上げたりですっかり「観光地化」しており、ありし日の上田城を静かに想う、というわけにはいきません。現存の櫓三基がみどころの一つですが、この日は「定休日」とかで中に入ることはできませんでした。正直なところ、別に入ってみようとも思いませんでしたが、この櫓は一時期、民間に払い下げられて「遊郭」になっていたんだとか。お城の櫓が遊郭ですか。。。なんともはや。。。

上田城の顔、大手門と北櫓。北櫓は民間に払い下げられていたものを市が買い上げて上田城に戻したもの。大手門は近年の復元です。 大手門の左手の南櫓。これも民間に払い下げられて、一時期は遊郭になっていたんだとか。お城の櫓が遊郭か。。。なんとなく変なことを考えてしまう俺。
本丸周囲の水堀。さすがに深く、見事です。 大手門の巨石「真田石」。信之が松代城移封にあたり持って行こうとしたところ、ビクともしなかったという、クセ者の昌幸オヤジがダダをこねているみたいで、なんとなく可笑しい。
観光地化した主郭内でひっそりと佇む、上田城本丸跡の碑。 大人気の真田神社。真田氏が上田城主だったのは、信之の時代を含めてせいぜい40年かそこらなのに、やっぱり人気あるんだなあ。

真田井戸。「太郎山の麓に通じている」んです。「ありがちな話」?いやいや、真田のことですからね、ホントかもしれませんよ(笑)。

尼ヶ淵に面した、本丸西櫓と西虎口石垣。この櫓は仙石氏が築城した当時からここにある、正真正銘の現存櫓です。

かつて城の直下を流れていた尼ヶ淵は跡形もなく、駐車場や芝生に。河道も遠く離れて市街地に。 石垣もありますが、基本は土塁の城。本丸の土塁は高さも幅も、さすがに見事です。
本丸土塁の北西隅櫓跡。 こちらは鬼門にあたる北東櫓跡。正保四(1647)年の城絵図には七基の櫓と二基の渡櫓が描かれているそうですが、現存する櫓は三基のみです。天守はありませんでした。

本丸堀の北東角の土塁の切り欠き。「鬼門除け」であるらしいです。

二郭からみた本丸土塁と堀。陽の光を浴びた紅葉がとっても美しいのだ。

現上田市立博物館の入り口となっている二ノ丸東虎口の石垣・

二ノ丸東虎口の前、「二ノ丸橋」が架かる二ノ丸空堀。本丸以外の堀は付近の河川の旧河道を用いた空堀でした。かつてここは線路に転用され、駅があった場所でもあります。

二ノ丸の「招魂社」背後の土塁。高さもあり、なかなか見事。

二ノ丸北虎口の石垣。後世に復元されたものであるようです。

陸上競技場になってしまった二ノ丸の「百間堀」。すごい幅なので残っていたらさぞ見事だろうな。。。

二ノ丸東虎口付近に一部が残る空堀。市営野球場などにより大半は埋め立てられてしまいました。

かつての尼ヶ淵から見上げる上田城。上田城は河岸段丘の崖の上に築かれていました。

尼ヶ淵から西櫓を見上げる。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「上田菅平」ICより車10分。

長野新幹線・しなの鉄道・上田交通「上田」駅より徒歩10分。

周辺地情報

自分はあまり見ていませんが、上田市内には城下町の情緒が残ります。藩主屋敷(上田高校)などもあります。山城派は戸石城塩田城、真田町の真田本城松尾古城など。周囲の峰には山城だらけなので、ご興味と体力があれば全部廻ってみてください。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「真田戦記」(学研「戦国群像シリーズ」)

別冊歴史読本「戦国・江戸 真田一族」(新人物往来社)

別冊歴史読本「検証 戦国城砦攻防戦」 (新人物往来社)

真田町観光課提供資料、上田市観光協会提供資料ほか

参考サイト

上田・小県の城

 

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