「境目の領主」の労苦を知る

荒砥城

あらとじょう Arato-Jo

別名:山田城、砥沢城

長野県千曲市上山田温泉

(旧更級郡上山田町温泉)

城の種別

山城

築城時期

大永四(1524)年

築城者

山田越中守二郎

主要城主

山田氏、屋代氏

遺構

曲輪、石垣(復元)、模擬建物類

雪の降りしきる荒砥城<<2001年11月09日>>

歴史

平安時代からのこの地の豪族、山田氏が大永四(1524)年に築城したと伝わる。天文二十一(1552)年、荒砥城主の山田国政は戸石城において真田幸隆の急襲によって戦死したとされるが詳細は不明。

天文二十二(1552)年四月五日、荒砥城主の屋代越中守政国、塩崎城主の塩崎氏ら村上氏の属将が武田に内応、武田軍は葛尾城攻撃の準備に入ったが、四月九日に義清は葛尾城を棄てて逃亡し、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼った。信玄は葛尾城代に於曾源八郎を置いて守らせたが、村上義清は四月十二日、上杉謙信の援軍を得て更埴市八幡附近で武田軍と戦闘、四月二十三日、葛尾城は落城して於曾源八郎は討ち死に、義清は旧領を回復し、自らは塩田城に入った。信玄は一旦兵を退いた後、躑躅ヶ崎館を七月二十五日に出陣し、八月には塩田城包囲のために進軍したが、これを知った村上義清は八月五日、塩田城を脱出して行方不明になり、村上方の諸城十六が一日で陥ち、村上義清の旧領回復は三ヶ月で終わった。この間、上杉軍が南下、九月一日に更級郡八幡で武田軍を破り、屋代氏の荒砥城を占領、九月三日には青柳城に放火、これに対し武田軍は苅谷原城に山宮氏、飫富左京亮らを援軍として送り、九月十三日には上杉軍の占領する荒砥城に夜襲を仕掛け放火、多数の敵を討ち取った。上杉軍は十五日に一旦撤退し、その後九月十七日に坂木南条に放火したものの武田軍本陣の塩田城には迫れず、九月二十日に撤退した。(第一次川中島合戦)。

天正十(1582)年に武田氏が滅亡した後、屋代秀正は上杉景勝に属し、海津城代の山浦景国(村上国清)の配下になった。荒砥城は屋代氏、清野氏、寺尾氏などの七氏による十日在番となった。

天正十一(1583)年三月十四日、徳川家康が屋代秀正に更級郡の安堵を密約、秀正は四月に海津城を出て荒砥城に立て籠もったが、上杉景勝配下の軍勢に攻められ落城、秀正は家康を頼って敗走した。以後荒砥城は廃城となった。屋代氏は徳川の旗本として近世まで存続した。

村上氏の本拠である葛尾城から千曲川を挟んだ対岸、「上山田温泉」としてちょっとした観光地になっている温泉街の裏手に、史跡公園としてよく整備された荒砥城があります。目の前の巨大な葛尾城に比べると、吹けば飛ぶよな小城ではありますが、温泉観光地の一環として整備されており、戦国期の山城を模した建物や櫓が並ぶなど、ビジュアル的にはなかなか楽しいお城です。戦国期の山城というのは近世城郭と違ってなかなかイメージしづらいものがあるのですが、こうした模擬建物などのおかげで、ある程度は中世の風景などもイメージできるようになります。実際、妄想と想像を逞しくして鳥瞰図を描いたりする際には、荒砥城のようなお城は随分参考になっています。

この荒砥城附近は山並みが迫る狭い谷を千曲川が流れ、その千曲川沿いに北国街道が上田・小県方面と川中島・筑摩・埴科・更科を結ぶ、大変な交通の要衝です。重要な街道だけに川の両岸には村上氏の本城である葛尾城やこの荒砥城をはじめ、数多くの山城が並んでいます。同時に甲越による激しい信濃争奪の際も戦火を免れることのできぬ場所でもありました。

実際、武田による戸石城葛尾城の奪取に際して、村上氏が葛尾城を棄てて逃亡するのと相前後して荒砥城の山田氏も没落、以後は武田の誘降に応じていた屋代城主の屋代氏の属城となります。しかし、村上氏を援けて川中島へ進出した越・信の連合軍によって荒砥城も奪回され、さらにそれを奪回しようとする武田軍に火をかけられ、とまあ、さんざんな目に遭います。このあたりの不運ぶりは青柳城のそれとも似ています。面白いのは、渦中にあった当時の城主、屋代政国自身が自らのことを「境目の領主である」と自覚している文書が残っていることです。これは永禄二(1559)年八月三日、諏訪大社上社への寄進についての書状で、「爰元さかいめ故」、つまり自らの所領が紛争地であるため、土地の寄進の替わりに作物の納入で勘弁して欲しい、と述べているものです。この境目の領主というのは大概、より大きな勢力どうし(この場合は甲斐武田氏と越後長尾=のちの上杉氏)がぶつかり合う場所で損な役回りを余儀なくされる場合が多く、あっちを立てればこっちが立たず、下手をすると両方から寄ってたかって叩かれるという、実に気の毒な立場に置かれがちでした。屋代氏は基本的に武田氏の配下に入りながらも、謙信の二度目の上洛に際しては祝儀の刀を贈ったことが「侍衆御太刀乃次第」によっても明らかで、その微妙な立場が伺われます。これはまた「境目の領主」の役割というか、存在意義も表しています。戦国大名というと何かと戦争ばかりしているイメージがあるのですが、それだけでは経済的に立ち行かなくなるのは明らかで、実際には和睦交渉や調略などの外交も活発に展開しています。境目の領主はこうした交渉のネゴシエーターとしての役割も与えられており、どちらか一方の陣営に属しながらも儀礼的な付き合いや日常的な揉め事(百姓の水争いなど)の調停、和議・和睦の条件抗争などの役割、つまり大規模な戦争を回避するための仲介役・緩衝地帯としての役割を負う事も多かったようです。これらの行為は一歩間違うと相手に対する「内通」や「利敵行為」に繋がりかねず、また本人にそのつもりが無くとも疑われやすい、という難しさも持っており、難しい役回りであったことは間違いありません。実際、武田氏の滅亡後は屋代氏は上杉景勝に属して海津城の勤番も務めるのですが、信濃の領有を争っていた徳川家康に内通して海津城を出奔、この荒砥城に立て籠もって今度は景勝に攻められる、などという事態も引き起こしています。反対に青柳城主の青柳頼長などは小笠原貞慶に景勝への内応を疑われて誅殺されるといった悲劇を招いていますが、これも境目の領主としての立場の難しさを語るエピソードといってもいいでしょう。

荒砥城は本来的には史跡公園化されている部分だけでなく、直下の谷戸の居館部「城の腰二の入」(シロノコシニノイリ)を中心に、荒砥城とその尾根続きの「荒砥小城」「若宮入山城」「証城」などが谷戸を守る、それなりの規模を持つ谷戸式の複合城郭であったようで、この点では塩田城戸石城などとも共通する、この地方の築城形態に沿ったお城であったようですが、居館の遺構はよくわかりませんでした。また尾根続きの出城についても踏査はしていないので全体像はよくわかりません。二の曲輪の小屋の中では、荒砥城の模型の展示とともに、ビデオ上映などによって荒砥城の全体像を窺い知る事ができます。公園内は綺麗に整備されて模擬建物や布積みの石垣などが並んでいて、ビジュアル的にはなかなか楽しいお城です。こうしたやり方は賛否両論あるでしょうが、個人的には結構好きではあります。ただし、この整備の過程で恐らくいろんな所に現代の手が入っているはずで、今見られる遺構が必ずしも当時の姿を伝えているかどうかはわかりません。特に一の曲輪や二の曲輪の、深い堀底状の虎口などは「ほんとにこんなだったの?」と思わなくもありません。本来堀切があって然るべき尾根筋にも防御らしい防御がなかったり、布積みの石垣も人目につく場所にだけある感じで、いったいどこまでが旧状どおりなのか、見当がつきません。あくまでも中世山城をイメージしたテーマパークくらいの捉え方が妥当かも・・・。

なお、初回の見学時は途中から雪が降り出してしまい、冬の山城の労苦を味わうことになってしまいました。二度目の訪問時は秋晴れのいいお天気で、甲越境目の風景をしっかり味わって参りました。

荒砥城平面図(左)、鳥瞰図(右)

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[2004.12.05]

千曲川対岸よりみる荒砥城(手前の小山)。上山田温泉の赤い屋根の建物が目印。車で直下まで登ることができます。 駐車場から管理棟へ向かう道沿いの石積み。このお城ではいたるところでこうした平石の布積みが見られますが、どの程度ホンモノなのかはよくわかりません。
「四の曲輪」手前が管理棟兼料金所。料金は300円、中世山城でカネがかかるというのも珍しいですが、維持管理に必要なんでしょう、きっと・・・。 三の曲輪あたりからシンボルとなっている井楼櫓を見上げる。
二の曲輪虎口の矢倉門と石積み。矢倉の上に上がることもできます。 二の曲輪、一の曲輪とも深い堀底状の通路を通りますが、こうした構造がホンモノなのかどうかも多少疑問ではあります。
二の曲輪に建つ模擬の兵舎と井楼櫓。兵舎の中は展示室になっていて、荒砥城の模型なども展示されています。 同じく兵舎の中ではビデオ上演も。この手の一般者を対象とした映像としてはかなり突っ込んだ解説がされています。お子さんたち、理解できましたか?
井楼櫓より見る二の曲輪と一の曲輪。中世山城の風景というのはこんな感じだったんだろうか・・・。 井楼櫓より葛尾城方面を見る。「第一次川中島合戦」で両雄が獲りつ獲られつの綱引きを演じた風景がそこに広がる。
主郭の城主の館(奥)と兵舎(手前右)。館といっても掘っ立て小屋みたいなものです。中世山城における本丸なんてこんな程度だったんでしょう。 その館内部。恐ろしく殺風景です。こんな感じの狭い部屋で何日も籠城するんでしょうか。城主ってのも大変です。
主郭から二の曲輪越しに見る風景。遠く上田方面まで見渡せます。 こちらは雪の降りしきる時期の風景。景色などなんにも見えません。冬季の籠城ってのは攻める方も守る方も大変だっただろうなあ。。。
こちらは旧更埴市方面から遠く川中島までを見渡す。荒砥城は川中島の盆地の南端附近にあたります。 荒砥小城、若宮入山城、証城などの支城群が並ぶ尾根。竪堀などがあるらしいですが未踏査です。いずれまた機会があれば歩いてみたいものです。
主郭裏手の尾根には神社などの建物がありますが、堀切らしきものはなし。かなり改変されていると見た方がよさそうです。 三方を尾根に囲まれた居館部「城の腰二の入」。遺構はよくわかりませんでした。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「坂城」ICより車10分。

しなの鉄道「戸倉」駅徒歩20分。

周辺地情報

雄大な山容を誇る葛尾城がすぐ目の前。未踏査ではありますが岩井堂山城、狐落城などの葛尾城支城群も近いです。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「信州の城と古戦場」(南原公平/令文社)

現地パンフレット

参考サイト

 

 

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