佐久、筑摩、伊那と信濃の各方面に同時進行的に軍を進め、着実に版図を伸ばしてきた武田晴信。抵抗する国人衆も各個撃破し、怖いもの無し、と思われた矢先、強敵が目の前に現れます。村上義清。村上氏は他の小豪族とは明らかに一線を画す、本格的戦国大名でした。他の国人衆が鎌倉以来の名族の血を誇りながらも、小豪族同士の争いや一族分裂で滅亡したり力を削がれたりしている間に、更級・埴科・川中島から小県まで勢力を伸ばしつつあった村上氏は、晴信にとって最初の大きな敵でした。晴信の父、信虎の代には一緒に海野平に侵攻したりしていたのですが、強大化した武田氏は早晩村上義清と雌雄を決する運命にありました。
雪が降りしきる天文十七年の二月、その時がきました。信玄は長い軍旅、伸びきった兵站線、不慣れな地理、そして天候と不利な条件ばかりですが、果敢に村上勢に対峙、上田原に陣を布きます。一方、本領に踏み込まれた村上勢は血縁諸将や反武田の国人衆の残党とも語らい、一歩も引かぬ構え。いつもの信玄であれば、間者を放ち埋言を流布し、敵を内部から切り崩して「戦う前に勝つことが決まっていた」でしょう。それに、敵地の最前線で、地理にも不慣れ、天候も最悪、のコンディションでは、力対力の主力決戦は回避するのが彼のやり方だったでしょう。しかしこのときの信玄は、何かが違っていました。信玄がはやったのか、麾下の武将たちがはやったのか、それとも信濃戦線における連戦連勝に気が緩んでしまったか。その代償はなんとも高く付いたのでした。
板垣駿河守信方、甘利備前守虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門ら討ち死に・・・。信虎を駿河に追った信玄にとって、「オヤジ代わり」だった板垣信方、甘利虎泰を失ったことは、予想だにできない不覚であったでしょう。しかも本陣を村上軍本隊に蹂躙され、、信玄自らも軽傷を負ったという惨敗。最終決着こそ付かなかったとはいえ、実質的には武田軍の大敗北でしょう。信玄はこの敗北を隠そうと、退き陣せずに寒中さらに一月ほど陣取りますが、諏訪上原城で敗報を聞いた駒井高白斎、今井兵部らの機転で生母の大井夫人に手紙を書いてもらい、やっと信玄は撤退。一方の村上軍も雨宮刑部、屋代源吾、小島権兵衛などの将を失い、武田軍の退き陣に際して追い討ちを掛ける力は残っていなかったようです。そしてこの合戦は、やがて戸石崩れと真田幸隆による戸石城奪取、葛尾城争奪を経て、長尾景虎、のちの上杉謙信の川中島への出陣を呼ぶことになるのです。
現地の地形ですが、上田原と呼ばれる場所は上田城のある市街地と千曲川を挟んだ対岸にあたり、一見平たく見えるものの段丘などもある地形で、武田軍はこの段丘上に陣を敷いたとされます。一方の村上軍の陣地は諸説あり増すが、天白山を背にした「岩鼻」という、上田原から眺めると北西の断崖上の台地に陣を敷き、千曲川の支流である浦野川を挟んで対峙した模様です。合戦はこの間の野原、千曲川の氾濫原で行われ、退く敵を追って深入りした板垣信方、甘利虎泰らは村上軍の術中にはまり、重囲の中で戦死したと言われます。付近は住宅地が建ち並び、「上田原古戦場公園」の大きな野球場などもありますが、畑、田んぼや当時と変わらないであろう山の形などに面影を忍ばせています。
さて、古戦場廻りは山城なんかに比べて楽なように見えて、実は結構大変です。なんといっても場所が分らない上に、お墓や石碑というのはとっても見つけにくいものなんです。近所の方に聞いても、はっきり答えが得られるケースは少なく、行って見ると全然違った、なんてこともよくあります。今回も板垣信方のお墓を探すのに一時間近く歩き回ったのですが、最終的に見つけた場所は、僕が車を置いた古戦場公園のほんのすぐ先でした。でもこうやってあちこち歩き回ったおかげで、多少は地理勘も身についた気がしますし、予定していなかった村上軍諸将の墓や無名戦死の墓、戦死者の菩提寺、などという場所にめぐり合うことができました。ところが最近は、今年(2007年)の大河ドラマにちなんで要所要所に看板が建てられたり、史跡の場所には風林火山のノボリがはためいていたりするので遠くからでも目的地がすぐ分かるようになっています。これは有難いことです。なお前述の「岩鼻」の断崖上は「千曲公園」になっており、この古戦場がよく見渡せます、よく見ると田んぼの中にあちこちノボリが立っているのが見えるでしょう。古戦場のほぼ全域を俯瞰でき、位置関係もバッチリわかるというお勧めスポットです。
[2007.06.11]