越後ゆかりの豪族・高梨氏の生活を偲ぶ

中野小館

(高梨氏館)

なかのおたて Nakano-Otate

別名:中野御館、日野城、高梨城

長野県中野市小館

(高梨館跡公園)

城の種別

方形居館

築城時期

永正年間(1504-21)

築城者

高梨氏

主要城主

高梨氏

遺構

曲輪、土塁、土橋、建物跡、水路跡、庭園跡

発掘された枯山水庭園<<2004年06月19日>>

歴史

永正年間(1504-21)に高梨氏が築城したとする説が有力。高梨氏は清和源氏頼季流の井上氏の一族とも、越後高梨(小千谷市)出自とも、あるいは前九年の役で滅びた奥州安倍氏の一族ともいわれるがはっきりしない。

中野郷は鎌倉初期の建久三(1192)年には藤原(中野)助広が中野西条地頭職に補任されるなど、中野氏が勢力を持っていた。高梨氏は南北朝時代に北朝に味方し、「くぬぎ原荘」を中心に信濃北部各地に広大な所領を持っていた。応永七(1400)年の大塔合戦では高梨朝高の嫡子、樟原次郎の名が見える。

寛正四(1463)年、幕府は信濃南半を小笠原光康に、北半を越後守護職の上杉房定にそれぞれ守護職を与えたが、房定らは足利成氏と同盟を結んで反抗する高梨政高を討つため、上杉右馬頭を信濃に攻め込ませたが、政高はこれを高橋の地で迎え撃ち、右馬頭を討ち取り勝利した。この時、上杉氏に味方した大熊高家、新野朝安らの土豪も滅ぼされ、高梨氏の中野進出が進んだ。

永正四(1507)年八月二日、越後守護の上杉房能は守護代・長男為景に館を急襲され、実兄の関東管領・上杉顕定を頼って落ち延びようとしたが、天水越まで逃げたところで為景軍に追いつかれ自刃した。これにより越後は守護代長男為景派と反為景派による内乱(永正の乱)となった。この乱に際し高梨政盛は永正六(1509)年、為景に味方して越後に攻め入り、越後椎谷城などで顕定軍と交戦、苦戦に陥っていた為景軍の再起に貢献した。永正七(1510)年四月には越中から佐渡に逃れていた為景が蒲原津に上陸、高梨政盛も信濃から北上し顕定軍を挟撃した。形勢不利を悟った顕定、嫡子憲房らは上野国へ撤退する途上の六月二十日、越後長森原で為景・政盛軍に追いつかれ、顕定は戦死し、憲房は上野白井城へと撤退した。高梨政頼はのちに為景の嫡子晴景と景虎(のちの上杉謙信)が相続を争った際には、景虎擁立に尽力した。

天文年間には高梨政頼は葛尾城主・村上義清と対立したが、その間隙をついて武田晴信(信玄)が天文十九(1550)年八月に戸石城に侵攻、高梨政頼は村上義清と和睦し、村上義清は武田軍を撃退した(戸石崩れ)。これ以後、高梨氏は武田と対立、武田信玄は井上氏や市河氏などの周辺の諸侯の誘降につとめ、これに対し政頼は弘治二(1557)年七月には井上左衛門尉の守る綿内要害を攻撃している。弘治三(1558)年には武田軍の攻撃により葛山城が落城、同時期に高梨氏の一族で山田城主山田左京亮に降伏勧告し、山田左京亮は降伏、高梨氏家臣の木嶋城主木嶋出雲守も武田方に転じた。身辺に武田の脅威が迫った高梨政頼は中野小館にわずかな手兵を置いて、自らは縁故のあった泉氏の居城である飯山城に籠城、景虎の援軍を求めた。この後、高梨氏の拠点は飯山城に移り、実質的に越後長尾氏の庇護下に入った。永禄四(1561)年の謙信の小田原城攻めの際は春日山城の留守の大将に任じられ、同年の第四次川中島合戦では信濃衆として先陣を務めた。

天正十(1582)年三月、武田氏が滅亡し、織田信長が信濃を領有したが、信長も六月二日の本能寺の変で横死、八月に上杉景勝が川中島を領有し、高梨弥五郎頼親は安源寺周辺二千貫を安堵され、ふたたび中野小館に戻った。慶長三(1598)年、上杉景勝の会津移封のため、高梨氏も同道し、中野小館は廃城となった。

高梨氏は葛尾城主・村上氏と並ぶ北信濃の豪族ですが、その勢力範囲が越後と境を接しており、その位置的な関係から、謙信の祖父、長尾能景の代から縁戚として越後府中長尾氏とも密接な関係を持っていました。高梨政頼の祖父、高梨政盛は長尾能景に息女を嫁がせ、為景を生んでおり、またその為景の妹が政頼に嫁ぐなど、濃い血縁関係で結ばれていました。政盛は為景の越後における統一活動を大いに助け、為景による越後の下克上である「永正の乱」に加担、関東管領・上杉顕定を長森原で追い詰め、自刃させています。その孫政頼もまた、晴景と景虎の相続争いに際しては景虎に与して、大いに戦力になっています。謙信の一回目の上洛に際しては、政頼は謙信に先立って大坂に赴き、本願寺証如と対面するなど、外交使節としての活躍も見られます。しかし結局、単独では武田氏の侵攻を防ぐことができず、長尾景虎、のちの上杉謙信の援助を求めます。同盟者、というよりも実質的に家臣団に組みこまれ、最後は景勝とその家臣団とともに会津へ同道、高梨氏と北信濃の繋がりは終焉を迎えます。

ところで、高梨氏には「黒姫伝説」なるものがあります。

高梨政頼には美しいひとり娘、黒姫がいたが、その寝所に夜な夜な二十歳ごろの若侍が現れては消えるという話が伝わった。政頼は家臣に命じその若侍を捕らえようとするも、若侍はこの世のものとも思えぬ素早さで姿を消す。政頼は仏法にすがったが霊験あらたかでなく、仕方なく家伝の名刀を携えて若侍を待ち伏せする。するとうっすらと若侍が現れる。政頼はおのれとばかり斬りかかるも、若侍は素早く身をかわし、黒雲の中に消えていった。それ以来、毎日毎夜の風雨となり、誰云うともなしに山の池の龍が黒姫を慕って、かなわぬ仕返しに大水を起こそうとしている、との噂が広まった。姫は身を滅ぼして民を救う決心を固め、泣いて家を出ると山の麓に向かい、池の中に家伝の名刀を投げ込んだ。するとにわかに池は荒波を起こし、強風の中から龍が現れた。龍は剣を呑み込もうとして倒れたが、池の水は真っ赤な血に染まった。そして姫の姿も風雨の中に消えてしまった。

そんなようなお話らしいですが、この話にも様々なバリエーションがあるようで、結局はなんだかわかったようなわからないような、そんな民話のひとつであるようです。

その高梨氏の本拠が中野小館と呼ばれる居館で、背後には詰の要害である鴨ヶ嶽城を控えています。中野小館そのものは山麓の緩やかな傾斜地に築かれたほぼ方形の武士居館です。背後の鴨ヶ嶽城とは数百mの距離があり、遠いというほどではありませんが、要害と居館が完全に一体化した戦国時代最盛期の山城と比べると、居館と要害を完全に分離した、やや古めかしいスタイルのお城であると言えます。実際に土塁の断面を調査した結果、より古い時代の土塀を埋めて土塁としていることなどがわかったそうで、そう考えると高梨氏の時代よりも前、中野氏の時代の居館を改修したもの、と考えることもできるでしょう。武田軍の侵攻に際してはこの中野小館の防御力などは問題にもならず、飯山城を拠点として抵抗しました。中野小館で戦闘があったかどうかはわかりませんが、多分ほとんど戦闘らしい戦闘もなく、攻防の焦点は信越国境最後の砦となる飯山城に向けられ、中野小館が顧みられることはほとんどなかったのではないかと思います。

中野小館概念図

※クリックすると拡大します

この中野小館は、長野県の指定史跡として発掘・整備され、「高梨館跡公園」として公園化されています。平時の館という事もあって、それほど大きな規模ではありませんが、周囲の土塁の重厚さや堀はなかなか見ごたえがあります。もっとも土塁や堀は公園化に伴なってかなり手は入れられていると思います。ここの見所は、こうした防御遺構よりも、生活の名残である建物跡、井戸跡、石敷きの水路、そして庭園などがほぼそのまま残存しているところです。建物の礎石や水路、庭園などの生活関連遺構の存在は、遠い歴史の中の人物である城主・高梨氏をなぜか身近に感じることができるような気分でした。ちょっと残念だったのが、せっかくの庭園の遺構が半分、ビニールシートによって覆われていたこと。中世の庭園遺構ってどんなものなのか興味があっただけに、少々残念でした。詰の城である鴨ヶ嶽城も見たかったのですが、あいにく霧雨模様の天気と、日没が近かったこともあって断念しました。たまたま購入したガイドブックを見て立ち寄ったのですが、居館だけでも大満足でした。

[2003.06.07]

<<再訪:2004年06月19日>>

2004年6月19日、久々に信濃を訪れ、中野小館の詰の城、鴨ヶ嶽城に行ってきました。ついでに中野小館にも再訪し、以前はビニルシートで覆われていた庭園遺構を、念願かなって拝むことができました。「庭」に関してはまったくのド素人ですが、こうして中世の戦国武将が眺めていた庭を拝めるというのは感動的です。素晴らしいです。今回はついでに概念図もくっつけてみました。概念図では思わず池を描いてしまいましたが、実際には枯山水の庭園だそうです。

[2004.08.23]

中野小館の詰の要害、鴨ヶ嶽城中腹の展望台から望む。館と要害が少し距離が離れているのはやや古い形式であるといえます。 史跡公園として綺麗に整備されている中野小館。土塁や堀もなかなかですが、やはり生活遺構の数々が見所でしょう。
館跡は土塁と堀に囲まれています。公園なので夏でも綺麗に整備されているのが有難いですね。 館はほぼ方形の単郭居館。全体に傾斜地にあり、堀の深さや幅も場所によって違います。写真は大手の土橋方面。
大手土橋の右手、東側には模擬の木橋が架かっています。ここには横矢というにはやや小ぶりなものの、折れが見られます。 土塁の断面の解説。土塁の中央に、漆喰で固められた築地塀が発見されたとのこと。中野氏時代の古い館の塀を埋めて土塁としたのでしょうか。
館の中から見る土塁。公園化に伴いそれなりに手が入っているものと思われますが、城址公園にありがちな大げさな改変などは無いようです。 搦手方面の土塁上から。館とはいうものの、曲輪内から3m、堀底からは5-6mほどあり、なかなか重厚です。

館の北西端の土塁はひときわ高く幅も広く、櫓台であったことを想像させます。

館内部には様々な建物跡が展示されています。これは礎石建造物の第三号建物跡。主殿にあたる建物跡です。高梨政頼が日夜暮らしていた、まさにその場所にソレガシはいます!

こちらは掘立建造物跡。番所や厩などだったかもしれませんね。 建物の間を縫うように走る水路遺構と竪穴遺構。竪穴は井戸ではなく、湛水施設であるようです。武士たちだけでなく、館に出仕していた女たちの生活も垣間見えるようです。
以前はビニールシートで覆われていた庭園を見ることが出来ました。こうして戦国武将の生活の一端を垣間見ることが出来るというのは素晴らしいことです! 背後に聳える鴨ヶ嶽城は詰めの城。二度目の訪問で鴨ヶ嶽城も行ってきましたが、体力的にはなかなかシンドイ山城でした。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「信州中野」ICより車10分。

長野電鉄山ノ内線「中野松川」駅または「信州中野」駅より徒歩10分。

周辺地情報

鴨ヶ嶽城とセットで見たい。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「信州の城と古戦場」(南原公平/令文社)

「長野県の歴史散歩」(長野県高等学校歴史研究会/山川出版社)

参考サイト

 

 

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