高梨氏は葛尾城主・村上氏と並ぶ北信濃の豪族ですが、その勢力範囲が越後と境を接しており、その位置的な関係から、謙信の祖父、長尾能景の代から縁戚として越後府中長尾氏とも密接な関係を持っていました。高梨政頼の祖父、高梨政盛は長尾能景に息女を嫁がせ、為景を生んでおり、またその為景の妹が政頼に嫁ぐなど、濃い血縁関係で結ばれていました。政盛は為景の越後における統一活動を大いに助け、為景による越後の下克上である「永正の乱」に加担、関東管領・上杉顕定を長森原で追い詰め、自刃させています。その孫政頼もまた、晴景と景虎の相続争いに際しては景虎に与して、大いに戦力になっています。謙信の一回目の上洛に際しては、政頼は謙信に先立って大坂に赴き、本願寺証如と対面するなど、外交使節としての活躍も見られます。しかし結局、単独では武田氏の侵攻を防ぐことができず、長尾景虎、のちの上杉謙信の援助を求めます。同盟者、というよりも実質的に家臣団に組みこまれ、最後は景勝とその家臣団とともに会津へ同道、高梨氏と北信濃の繋がりは終焉を迎えます。
ところで、高梨氏には「黒姫伝説」なるものがあります。
高梨政頼には美しいひとり娘、黒姫がいたが、その寝所に夜な夜な二十歳ごろの若侍が現れては消えるという話が伝わった。政頼は家臣に命じその若侍を捕らえようとするも、若侍はこの世のものとも思えぬ素早さで姿を消す。政頼は仏法にすがったが霊験あらたかでなく、仕方なく家伝の名刀を携えて若侍を待ち伏せする。するとうっすらと若侍が現れる。政頼はおのれとばかり斬りかかるも、若侍は素早く身をかわし、黒雲の中に消えていった。それ以来、毎日毎夜の風雨となり、誰云うともなしに山の池の龍が黒姫を慕って、かなわぬ仕返しに大水を起こそうとしている、との噂が広まった。姫は身を滅ぼして民を救う決心を固め、泣いて家を出ると山の麓に向かい、池の中に家伝の名刀を投げ込んだ。するとにわかに池は荒波を起こし、強風の中から龍が現れた。龍は剣を呑み込もうとして倒れたが、池の水は真っ赤な血に染まった。そして姫の姿も風雨の中に消えてしまった。
そんなようなお話らしいですが、この話にも様々なバリエーションがあるようで、結局はなんだかわかったようなわからないような、そんな民話のひとつであるようです。
その高梨氏の本拠が中野小館と呼ばれる居館で、背後には詰の要害である鴨ヶ嶽城を控えています。中野小館そのものは山麓の緩やかな傾斜地に築かれたほぼ方形の武士居館です。背後の鴨ヶ嶽城とは数百mの距離があり、遠いというほどではありませんが、要害と居館が完全に一体化した戦国時代最盛期の山城と比べると、居館と要害を完全に分離した、やや古めかしいスタイルのお城であると言えます。実際に土塁の断面を調査した結果、より古い時代の土塀を埋めて土塁としていることなどがわかったそうで、そう考えると高梨氏の時代よりも前、中野氏の時代の居館を改修したもの、と考えることもできるでしょう。武田軍の侵攻に際してはこの中野小館の防御力などは問題にもならず、飯山城を拠点として抵抗しました。中野小館で戦闘があったかどうかはわかりませんが、多分ほとんど戦闘らしい戦闘もなく、攻防の焦点は信越国境最後の砦となる飯山城に向けられ、中野小館が顧みられることはほとんどなかったのではないかと思います。