永正年間(1504-21)に高梨氏が築城したとする説が有力。高梨氏は清和源氏頼季流の井上氏の一族とも、越後高梨(小千谷市)出自とも、あるいは前九年の役で滅びた奥州安倍氏の一族ともいわれるがはっきりしない。
中野郷は鎌倉初期の建久三(1192)年には藤原(中野)助広が中野西条地頭職に補任されるなど、中野氏が勢力を持っていた。高梨氏は南北朝時代に北朝に味方し、「くぬぎ原荘」を中心に信濃北部各地に広大な所領を持っていた。応永七(1400)年の大塔合戦では高梨朝高の嫡子、樟原次郎の名が見える。
寛正四(1463)年、幕府は信濃南半を小笠原光康に、北半を越後守護職の上杉房定にそれぞれ守護職を与えたが、房定らは足利成氏と同盟を結んで反抗する高梨政高を討つため、上杉右馬頭を信濃に攻め込ませたが、政高はこれを高橋の地で迎え撃ち、右馬頭を討ち取り勝利した。この時、上杉氏に味方した大熊高家、新野朝安らの土豪も滅ぼされ、高梨氏の中野進出が進んだ。
永正四(1507)年八月二日、越後守護の上杉房能は守護代・長男為景に館を急襲され、実兄の関東管領・上杉顕定を頼って落ち延びようとしたが、天水越まで逃げたところで為景軍に追いつかれ自刃した。これにより越後は守護代長男為景派と反為景派による内乱(永正の乱)となった。この乱に際し高梨政盛は永正六(1509)年、為景に味方して越後に攻め入り、越後椎谷城などで顕定軍と交戦、苦戦に陥っていた為景軍の再起に貢献した。永正七(1510)年四月には越中から佐渡に逃れていた為景が蒲原津に上陸、高梨政盛も信濃から北上し顕定軍を挟撃した。形勢不利を悟った顕定、嫡子憲房らは上野国へ撤退する途上の六月二十日、越後長森原で為景・政盛軍に追いつかれ、顕定は戦死し、憲房は上野白井城へと撤退した。高梨政頼はのちに為景の嫡子晴景と景虎(のちの上杉謙信)が相続を争った際には、景虎擁立に尽力した。
天文年間には高梨政頼は葛尾城主・村上義清と対立したが、その間隙をついて武田晴信(信玄)が天文十九(1550)年八月に戸石城に侵攻、高梨政頼は村上義清と和睦し、村上義清は武田軍を撃退した(戸石崩れ)。これ以後、高梨氏は武田と対立、武田信玄は井上氏や市河氏などの周辺の諸侯の誘降につとめ、これに対し政頼は弘治二(1557)年七月には井上左衛門尉の守る綿内要害を攻撃している。弘治三(1558)年には武田軍の攻撃により葛山城が落城、同時期に高梨氏の一族で山田城主山田左京亮に降伏勧告し、山田左京亮は降伏、高梨氏家臣の木嶋城主木嶋出雲守も武田方に転じた。身辺に武田の脅威が迫った高梨政頼は中野小館にわずかな手兵を置いて、自らは縁故のあった泉氏の居城である飯山城に籠城、景虎の援軍を求めた。この後、高梨氏の拠点は飯山城に移り、実質的に越後長尾氏の庇護下に入った。永禄四(1561)年の謙信の小田原城攻めの際は春日山城の留守の大将に任じられ、同年の第四次川中島合戦では信濃衆として先陣を務めた。
天正十(1582)年三月、武田氏が滅亡し、織田信長が信濃を領有したが、信長も六月二日の本能寺の変で横死、八月に上杉景勝が川中島を領有し、高梨弥五郎頼親は安源寺周辺二千貫を安堵され、ふたたび中野小館に戻った。慶長三(1598)年、上杉景勝の会津移封のため、高梨氏も同道し、中野小館は廃城となった。