伝説の甲越直戦の浪漫を感じる

海津城

かいづじょう Kaidu-Jo

別名:松城、松代城

長野県長野市松代町松代

 

城の種別

平城

築城時期

不明

築城者

清野氏(?)、武田氏

主要城主

清野氏、高坂(香坂)氏、森氏、須田氏、真田氏ほか

遺構

曲輪、水堀、土塁、石垣等(一部復元)、復元門二基ほか

復元された太鼓門<<2004年11月20日>>

歴史

築城の年代は明らかではないが、この地の在地土豪である清野氏の館を武田氏が大改修したとされる。清野氏はもともと葛尾城主の村上氏に属していたが、天文十九(1550)年九月、武田氏による戸石城攻撃の際に清野清寿軒が武田氏に出仕し、天文二十二(1553)年には清野左近大夫が信玄より「信」の一字を偏諱されている。

武田氏による海津城築城の時期は明確ではないが、『甲陽軍鑑』によれば天文二十二(1553)年八月に山本勘助の縄張りにより築城したとされるが疑わしい。永禄二(1559)年から三(1560)年ごろに築城されたものと考えられる。武田氏は川中島の押さえとして海津城に原美濃守・小幡山城守らを配し、永禄四(1561)年には高坂弾正忠昌信(香坂虎綱)が配置された。

永禄四(1561)年八月、上杉謙信は春日山城を発して海津城の南の妻女山に布陣、海津城将の高坂昌信はこれを甲府に注進、武田信玄は八月十六日にこの報を受け取り、十八日に甲府躑躅ヶ崎館を出、二十四日に川中島に布陣した。この布陣については茶臼山説や八幡原説などがあってはっきりしない。信玄は八月二十九日に海津城の北方の広瀬の渡しで千曲川を渡河し、海津城に入城した。九月九日、武田軍は高坂昌信らの別働隊を妻女山攻撃にのため迂回して進軍させ、信玄本隊は海津城を出て八幡原に布陣した。一方、上杉軍は海津城からあがる炊煙を見て夜襲を察知し、夜半に雨宮の渡しを渡って八幡原に進出、九月十日早朝に両軍は激戦となり、数千名が戦死したとされる(第四次川中島合戦)。なおこの合戦の模様は諸説あって定まっていない。以後も海津城は武田氏の川中島地方掌握の拠点として重視され、高坂昌信が城主を務めた。

天正十(1582)年三月、武田氏が滅亡すると海津城には織田信長配下の森長可が任じられたが、六月二日の本能寺の変により長可は海津城を放棄し、上杉景勝の支配下となり、城将の春日弾正信達、小幡虎昌らもこれに従った。やがて北条氏が佐久・小県に侵攻し、真田氏らがこれに服属すると、城将の春日弾正は真田昌幸を通じて北条氏に内応しようとしたが、事前に発覚して誅殺された。

天正十(1582)年、元葛尾城主・村上義清の子、景国(国清)が城将となったが、副将の屋代秀正が徳川家康に通じて荒砥城に立て籠もる事件によって罷免され、代わって上条城主の上条義春(政繁)が城主となり、さらに須田相模守満親に代わった。天正十三(1585)年、真田昌幸は徳川家康と不和になり、須田満親のもとに次男の信繁(幸村)を人質として差出した。昌幸の離反により徳川氏は上田城を攻めたが(第一次上田合戦・神川合戦)、この際には景勝はこの地方の十五歳から六十歳までの男子を総動員して海津城将の須田満親の指揮下に委ねている。

慶長三(1598)年、上杉景勝の会津移封によりこの地方は豊臣家の蔵入地となり、田丸直昌が城主に任じられた。慶長五(1600)年、徳川家康は田丸氏を美濃に移し、森忠政に川中島四郡十三万七千石を与えた。慶長八(1603)年には徳川家康の六男・松平忠輝が城主に任じられ、城代として花井吉成が置かれた。元和三(1617)年、松平忠輝は改易となり、松平忠昌、酒井忠勝らの後、元和八(1622)年に真田信之が城主に任じられ、松代城と改称した。以後松代十万石は真田氏によって嗣がれ、明治四(1871)年の廃藩置県を迎えた。なお明治六(1873)年に松代城は火災により全焼した。

海津城、あるいは松代城という方が親しみやすいでしょうか。いうまでもなくここは武田信玄が川中島を制覇するための布石として築城した、川中島合戦ゆかりのお城であり、あの「第四次川中島合戦」でも渦中の真っ只中にいた、超有名なお城であります。こういう超有名なところを云々するのはなかなか気が引けるというか、荷が重い部分も無くは無いのですが、川中島を巡る甲越の激しい争い、そしてその後のめまぐるしく変わる時代を反映したお城として触れないわけにはいかないでしょう。

数年前にここを訪れたときには本丸の石垣修復、太鼓門の再建工事などでまったく中に入れず、遠巻きに工事の様子を眺めただけでした。で、その工事も完成したとのことで、改めて訪れてみました。「修復」とか「復元」ということに多少のわだかまりはあったのですが、結果は行ってみて大正解、大満足でした。

現状、復元された箇所も含めてお城として見られるのは本丸、二ノ丸とその外郭の堀の一部で、三ノ丸や「花の丸」などはほとんどが宅地、市街地化しています。本丸は100m四方ほどの方形で、石垣と水堀に囲まれています。ここはもともとこの地方の在地土豪であった清野氏の館が前身であったということですが、この方形の主郭を見ると「なるほどな」と思わせます。もちろん、石垣や天守台(正確には戌亥櫓台)などは近世城郭として整えられたものです。堀は場所柄、もともと水堀だった、というか、ちょっと掘れば水が湧き出るような場所だったのではないかと思います。その周囲を二ノ丸が囲んでおり、一部の堀の痕跡が明瞭に残ります。その外側には二箇所の丸馬出しがあったといい、近世松代城においても用いられていたようですが、残念ながら現在は消滅しています。北西側には千曲川の旧河道を用いた水堀が草生す中に横たわっており、実にいい雰囲気です。ある意味、信玄の時代の海津城の雰囲気を最も残している場所であるともいえるでしょう。このあたりまでが武田氏が大改修した海津城の範囲だったでしょう。三ノ丸以下はごく一部の堀が残るだけで大半は宅地化していますが、周囲には真田藩邸をはじめとして、侍屋敷の風情がよく残り、真田氏ゆかりの近世城下町としての楽しみ方も味わえます。

信玄が海津城を築城した目的は、もちろん川中島の領有を確実なものとするための軍事・政治の拠点という性格もあったのでしょうが、ひょっとして信玄ははじめから謙信を誘い出すための「エサ」として考えていたのではないか、そんな風に思うこともあります。信玄にしてみれば、抵抗勢力はほとんど撃滅するか、追い払った、準備は万端、あとはあの「越後の虎」だけだ、そんな風に思っていたかもしれません。信玄という人物は決して決戦主義者ではなかったと思うのですが、いずれ越後の虎とは雌雄を決せねばならぬ、と、避けては通れない宿命を感じたのではないでしょうか。ただ、この「超有名」な川中島合戦については昔から諸説紛々で、合戦の模様や規模、両軍の布陣などには分からない部分がたくさんあります。

ここの天守台(戌亥櫓)の上に立ってぐるりと周囲を見回してみると・・・・背後に聳える尼巌城鞍骨城などの山城群、その山の端には越軍が布陣したというあの妻女山があり、目の前には千曲川の旧河道がありありと残る。遠く善光寺方面に目を向ければ、いかつい姿の旭山城葛山城、大峰山城などの山城がズラリと肩を並べる、その山塊の向こうはもはや越後まで30km足らず・・・。前述のように、川中島合戦をめぐる虚実についてはいろいろと論じられていますが、ここからの景色を眺めていると、そんなことを一切忘れて、思わず歴史のロマンに引き込まれそうになります。普段はつい「遺構がどうのこうの」「縄張りが云々」という目でお城を見てしまうのですが、青空の下で、遠い歴史のロマンを感じながら、「そう、この感覚が好きでお城めぐりをしてるんだよなあ」と改めて原点に気づいた自分でありました。

[2004.11.28]

海津城の北方に聳える尼巌山から見る海津城本丸。ここから見ると、周辺の山城群や千曲川の旧河道まで手に取るように見えます。登るのはシンドイですが・・・。 復元された二ノ丸南門から太鼓門を望む。
二ノ丸南西端の丸馬出し状の土塁。丸馬出しではないようですが、この行き止まりの曲輪は何なのでしょうか。 復元なった太鼓門と前橋。松代城のシンボルですね。橋は災害などで四度架け替えがされているそうです。
こちらも復元なった本丸の水堀。 本丸石垣はところどころ改修されていますが、古びた石垣と松の古木のコントラストが美しい。
実質的には天守に相当する戌亥櫓。どんな櫓が上がっていたのでしょうか。 人ひとりがやっと通れる埋門。ほんとにこんなに狭かったんでしょうか??

二ノ丸から遠く聳える尼巌山方面を望む。二ノ丸には井戸なども復元されています。

本丸から二ノ丸への搦手にあたる北不明門。こちらも立派に復元されています。

千曲川の旧河道筋にあたる百間堀跡。 こちらも千曲川河道にあたる新堀。石垣のない素朴なつくりは信玄の時代の海津城を髣髴とさせるようです。個人的にはお気に入りポイント。
紅葉の時期の本丸より戌亥櫓台を望む。本丸は度重なる洪水などの自然災害により、江戸中期には南西の「花の丸」に機能を移していたそうです。 戌亥櫓より見た本丸。ほぼ正方形の本丸は在地土豪・清野氏の館の名残でしょうか。ここから見る歴史のパノラマは素晴らしい。
長野電鉄の線路沿いに伸びる外堀の痕跡。砂利で埋められていますが、以前は少し湿地の名残を残していました。 二ノ丸の東側に位置する石場門。この外には丸馬出しがあった筈ですが・・・。

石場門の外側、丸馬出しがあったであろう場所附近の外堀のようす。丸馬出しは二箇所あったようですが、もはやその痕跡はほとんどありません。

池田満寿夫美術館入口附近に池となって僅かに残る三の堀、ここは三ノ丸の大御門附近です。

左は戌亥櫓台より妻女山、右は妻女山より海津城周辺。謙信が本当に妻女山に布陣したかどうか、疑問も多々ありますが、こうして目の前に広がる風景を見ると「ホントなんじゃないかなあ」という気になってしまいます。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「長野」ICより車10分。

長野電鉄屋代線「松代」駅5分。

周辺地情報

尼巌城、竹山城、鞍骨城などの山城群がすぐ背後。行きやすいのは象山公園になっている竹山城です。その他の山城はルート確認が必要です。妻女山や八幡原古戦場、近世真田藩邸と周辺の武家屋敷の散策などもオススメです。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「信州の城と古戦場」(南原公平/令文社)

「週刊名城をゆく17・上田城・松代城」(小学館) 

参考サイト

 

 

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