海津城、あるいは松代城という方が親しみやすいでしょうか。いうまでもなくここは武田信玄が川中島を制覇するための布石として築城した、川中島合戦ゆかりのお城であり、あの「第四次川中島合戦」でも渦中の真っ只中にいた、超有名なお城であります。こういう超有名なところを云々するのはなかなか気が引けるというか、荷が重い部分も無くは無いのですが、川中島を巡る甲越の激しい争い、そしてその後のめまぐるしく変わる時代を反映したお城として触れないわけにはいかないでしょう。
数年前にここを訪れたときには本丸の石垣修復、太鼓門の再建工事などでまったく中に入れず、遠巻きに工事の様子を眺めただけでした。で、その工事も完成したとのことで、改めて訪れてみました。「修復」とか「復元」ということに多少のわだかまりはあったのですが、結果は行ってみて大正解、大満足でした。
現状、復元された箇所も含めてお城として見られるのは本丸、二ノ丸とその外郭の堀の一部で、三ノ丸や「花の丸」などはほとんどが宅地、市街地化しています。本丸は100m四方ほどの方形で、石垣と水堀に囲まれています。ここはもともとこの地方の在地土豪であった清野氏の館が前身であったということですが、この方形の主郭を見ると「なるほどな」と思わせます。もちろん、石垣や天守台(正確には戌亥櫓台)などは近世城郭として整えられたものです。堀は場所柄、もともと水堀だった、というか、ちょっと掘れば水が湧き出るような場所だったのではないかと思います。その周囲を二ノ丸が囲んでおり、一部の堀の痕跡が明瞭に残ります。その外側には二箇所の丸馬出しがあったといい、近世松代城においても用いられていたようですが、残念ながら現在は消滅しています。北西側には千曲川の旧河道を用いた水堀が草生す中に横たわっており、実にいい雰囲気です。ある意味、信玄の時代の海津城の雰囲気を最も残している場所であるともいえるでしょう。このあたりまでが武田氏が大改修した海津城の範囲だったでしょう。三ノ丸以下はごく一部の堀が残るだけで大半は宅地化していますが、周囲には真田藩邸をはじめとして、侍屋敷の風情がよく残り、真田氏ゆかりの近世城下町としての楽しみ方も味わえます。
信玄が海津城を築城した目的は、もちろん川中島の領有を確実なものとするための軍事・政治の拠点という性格もあったのでしょうが、ひょっとして信玄ははじめから謙信を誘い出すための「エサ」として考えていたのではないか、そんな風に思うこともあります。信玄にしてみれば、抵抗勢力はほとんど撃滅するか、追い払った、準備は万端、あとはあの「越後の虎」だけだ、そんな風に思っていたかもしれません。信玄という人物は決して決戦主義者ではなかったと思うのですが、いずれ越後の虎とは雌雄を決せねばならぬ、と、避けては通れない宿命を感じたのではないでしょうか。ただ、この「超有名」な川中島合戦については昔から諸説紛々で、合戦の模様や規模、両軍の布陣などには分からない部分がたくさんあります。
ここの天守台(戌亥櫓)の上に立ってぐるりと周囲を見回してみると・・・・背後に聳える尼巌城や鞍骨城などの山城群、その山の端には越軍が布陣したというあの妻女山があり、目の前には千曲川の旧河道がありありと残る。遠く善光寺方面に目を向ければ、いかつい姿の旭山城、葛山城、大峰山城などの山城がズラリと肩を並べる、その山塊の向こうはもはや越後まで30km足らず・・・。前述のように、川中島合戦をめぐる虚実についてはいろいろと論じられていますが、ここからの景色を眺めていると、そんなことを一切忘れて、思わず歴史のロマンに引き込まれそうになります。普段はつい「遺構がどうのこうの」「縄張りが云々」という目でお城を見てしまうのですが、青空の下で、遠い歴史のロマンを感じながら、「そう、この感覚が好きでお城めぐりをしてるんだよなあ」と改めて原点に気づいた自分でありました。