築城の年代は明らかではないが、この地の在地土豪である清野氏の館を武田氏が大改修したとされる。清野氏はもともと葛尾城主の村上氏に属していたが、天文十九(1550)年九月、武田氏による戸石城攻撃の際に清野清寿軒が武田氏に出仕し、天文二十二(1553)年には清野左近大夫が信玄より「信」の一字を偏諱されている。
武田氏による海津城築城の時期は明確ではないが、『甲陽軍鑑』によれば天文二十二(1553)年八月に山本勘助の縄張りにより築城したとされるが疑わしい。永禄二(1559)年から三(1560)年ごろに築城されたものと考えられる。武田氏は川中島の押さえとして海津城に原美濃守・小幡山城守らを配し、永禄四(1561)年には高坂弾正忠昌信(香坂虎綱)が配置された。
永禄四(1561)年八月、上杉謙信は春日山城を発して海津城の南の妻女山に布陣、海津城将の高坂昌信はこれを甲府に注進、武田信玄は八月十六日にこの報を受け取り、十八日に甲府躑躅ヶ崎館を出、二十四日に川中島に布陣した。この布陣については茶臼山説や八幡原説などがあってはっきりしない。信玄は八月二十九日に海津城の北方の広瀬の渡しで千曲川を渡河し、海津城に入城した。九月九日、武田軍は高坂昌信らの別働隊を妻女山攻撃にのため迂回して進軍させ、信玄本隊は海津城を出て八幡原に布陣した。一方、上杉軍は海津城からあがる炊煙を見て夜襲を察知し、夜半に雨宮の渡しを渡って八幡原に進出、九月十日早朝に両軍は激戦となり、数千名が戦死したとされる(第四次川中島合戦)。なおこの合戦の模様は諸説あって定まっていない。以後も海津城は武田氏の川中島地方掌握の拠点として重視され、高坂昌信が城主を務めた。
天正十(1582)年三月、武田氏が滅亡すると海津城には織田信長配下の森長可が任じられたが、六月二日の本能寺の変により長可は海津城を放棄し、上杉景勝の支配下となり、城将の春日弾正信達、小幡虎昌らもこれに従った。やがて北条氏が佐久・小県に侵攻し、真田氏らがこれに服属すると、城将の春日弾正は真田昌幸を通じて北条氏に内応しようとしたが、事前に発覚して誅殺された。
天正十(1582)年、元葛尾城主・村上義清の子、景国(国清)が城将となったが、副将の屋代秀正が徳川家康に通じて荒砥城に立て籠もる事件によって罷免され、代わって上条城主の上条義春(政繁)が城主となり、さらに須田相模守満親に代わった。天正十三(1585)年、真田昌幸は徳川家康と不和になり、須田満親のもとに次男の信繁(幸村)を人質として差出した。昌幸の離反により徳川氏は上田城を攻めたが(第一次上田合戦・神川合戦)、この際には景勝はこの地方の十五歳から六十歳までの男子を総動員して海津城将の須田満親の指揮下に委ねている。
慶長三(1598)年、上杉景勝の会津移封によりこの地方は豊臣家の蔵入地となり、田丸直昌が城主に任じられた。慶長五(1600)年、徳川家康は田丸氏を美濃に移し、森忠政に川中島四郡十三万七千石を与えた。慶長八(1603)年には徳川家康の六男・松平忠輝が城主に任じられ、城代として花井吉成が置かれた。元和三(1617)年、松平忠輝は改易となり、松平忠昌、酒井忠勝らの後、元和八(1622)年に真田信之が城主に任じられ、松代城と改称した。以後松代十万石は真田氏によって嗣がれ、明治四(1871)年の廃藩置県を迎えた。なお明治六(1873)年に松代城は火災により全焼した。