日本最大級の中世平山城の遺構だそうです。非常に大規模な遺構が良好な状態で残っており、雑木林で覆われており山麓からでは城には見えないのですが、一歩雑木林の中に目を向けると、思わず「おおっ!」と叫んでしまうくらい立派な土塁と空堀に驚かされます。しかもそれが複雑に絡み合って全山を取り囲んでいます。地形的には南西側(滝山街道沿い)から見るとさほど急峻でもない丘陵ですが、東北側の多摩川沿いはかなり急な斜面(というより崖)になっていて、多摩川が天然の堀になっています。戦国ファンは必見。
前回見逃した遺構と、全体の縄張りを確認するために再度訪問しました。改めて感じたのは、非常に広範囲にわたって大規模な仕掛けが廻らされていて、規模も技巧面も日本有数の城郭だということです。とくに堀は非常に複雑で、かつ規模も大きく、山中城のような畝堀・障子堀こそないものの、北条氏の築城技術を余すところなく伝えてくれます。山中城が「小技」の集合体だとすれば、この滝山城は「大技」の集合体と言えるでしょう。
ただし、二ノ丸の食い違い虎口周辺などはかなり小技も効いていて、非常に屈曲のきつい土橋や馬出しなどを見ることができます。特に馬出しは、馬出し曲輪周辺にも小規模な馬出し状の曲輪(というほどの大きさではないが)が連続しており、「馬出しに馬出しがついている」ような構造で、非常に複雑です。この二ノ丸周囲が最大の見所と言えるかもしれません。この二ノ丸は、現地の解説板によれば「虎口が堅固なので城主クラスの屋敷ではないか」とありましたが、僕の見方は少し違っていまして、むしろここが城攻めの寄せ手への防御の中心、迎撃拠点としたのではないか、と見ています。前述の馬出しや堀がすべて二ノ丸を中心に配置されていること、各通路を辿ると必ず二ノ丸を経由すること、それゆえに虎口が複数あり、それぞれが馬出しや二重の堀などで守られた厳重な虎口であること、などが理由です。いわゆる城主の居館(本丸、と言っていいかもしれない)であれば、このように複数の虎口を設けたりせず、むしろ敵が取り付きにくく作るのが普通じゃないかと思うのですが、この二ノ丸には意図的に敵を取り付かせよう、ここで敵を食い止めよう、という意図が感じられます。これほど大きな城になると、守備側もかなり分散して配置しなくてはならず、時にはそれが仇になりかねません。ところが、この二ノ丸の地形(両側を深い谷津に挟まれている)と位置、虎口の配置からすると、周囲の曲輪が陥とされる、あるいは意図的に曲輪を放棄したとしても、敵兵は必ずこの二ノ丸に至るような構造になっています。従って、居館を設けるような性質の曲輪ではなく、城方の兵力を集めて寄せ手を防ぐとともに、迎撃に最も有利なように、大型の枡形虎口や馬出しを備えている、純軍事的な空間であったと思えます。実際に信玄による永禄十二年の城攻めでは、この二ノ丸が攻防の舞台となり、信玄は城を抜けずに撤退しています。永禄十二年当時の姿が現在見られる遺構と同じであるという保証はありませんが、氏照はこの信玄による滝山城攻めの後、より堅固な八王子城を築城しますので、積極的に大規模な改修を施したとは思えず、現在見られる滝山城の姿がほぼ最終的な姿に近いと思っています。とすると、二ノ丸で敵を食い止める、という意図に信玄がそのままハマッたとも思えます。この二ノ丸は大きく見れば中の丸と千畳敷の間に横たわる巨大な馬出しにも見え、防御の拠点であると同時に、寄せ手に対して討って出る「攻撃」の拠点でもあったのではないでしょうか。
また、丘を遠くから見ていると気付かないのですが、実際に現地で見てみると非常に起伏が激しい丘で、深い天然の浸食谷がいくつも走っていて、それらの自然地形を巧みに縄張りの中に取り込んでいる様子に非常に感心しました。自然地形をフル活用するのは中世城郭の基本ですが、この滝山城は多摩川沿いの急崖も含めて、それが究極の形で具現化したものとも言えるでしょう。
今回の更新で、写真を多く入れ替えました。ぜひ下の概念図を見ながら、各遺構をチェックしてみてください。
<<概念図(サムネイル)・現地パンフレットから転載>>
滝山城めぐり1(本丸〜中の丸周辺)
滝山城めぐり2(二ノ丸〜小宮曲輪周辺)