信玄をも撥ね付けた、北条流巨大要塞

滝山城

たきやまじょう Takiyama-Jo

別名:

東京都八王子市丹下

(都立滝山公園)

城の種別

平山城

築城時期

大永元(1521)年

築城者

大石定重

主要城主

大石氏、北条氏照

遺構

曲輪、空堀、堀切、土塁、土橋、馬出し、虎口等

小宮曲輪下の堀と土塁<<2001年02月15日>>

歴史

もともと滝山城の北東1.5kmの高月城を居城としていた武蔵国守護代で山内上杉氏の重臣、大石定重が、大永元(1521)年に築城し移転したといわれるが、その子定久の築城とする説もある。

天文十五(1546)年の河越夜戦で北条氏康は扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を上野に後退させて武蔵一国をほぼ手中に収めるが、その際に武蔵の国人領主たちの多くは北条に降って傘下となった。大石定久もその一人で、氏康の三男、氏照を養子に迎えて隠居、永禄二(1559)年ごろに氏照は滝山城に入城したといわれる。一方の定久は戸倉城に隠居したと伝えられるが、北条の傘下に入った後も快く従属したわけではなく、上杉謙信や、北条氏照に勝沼城を追われ辛垣山城で抵抗していた三田綱秀らと誼を通じていたらしい。また、定久は天文十八(1549)年に八王子周辺の野猿峠で割腹した、あるいは謀叛が発覚して柚木城に移された、などの説もある。

永禄十一(1568)年、武田信玄の駿河討ち入りによって甲相駿三国同盟が破棄され、北条氏と武田氏が緊張状態に入ると、氏康・氏政父子は檜原城などの守備を固めさせ、甲州勢の侵入に備えたが、永禄十二(1569)年、信玄は上信国境の碓氷峠から関東に侵入、鉢形城を牽制しつつ南下し滝山城へと向かった。信玄は滝山城から多摩川を挟んだ対岸の拝島付近に布陣、九月二日に激しく攻勢に出て、三ノ丸までを陥落させたが、師岡城主・師岡山城守らの奮戦で二ノ丸を抜くことができなかった。また、城主氏照と武田勝頼が直接に矛を交えた、との挿話もある。信玄は滝山城の守りが堅いのを見て軍を退き、小田原城へと向かった。

この後、城主氏照はより堅固な要塞を求めて八王子城築城を決意、天正十二(1584)年ごろ、八王子に城を移して滝山城は廃城となった。

日本最大級の中世平山城の遺構だそうです。非常に大規模な遺構が良好な状態で残っており、雑木林で覆われており山麓からでは城には見えないのですが、一歩雑木林の中に目を向けると、思わず「おおっ!」と叫んでしまうくらい立派な土塁と空堀に驚かされます。しかもそれが複雑に絡み合って全山を取り囲んでいます。地形的には南西側(滝山街道沿い)から見るとさほど急峻でもない丘陵ですが、東北側の多摩川沿いはかなり急な斜面(というより崖)になっていて、多摩川が天然の堀になっています。戦国ファンは必見。

前回見逃した遺構と、全体の縄張りを確認するために再度訪問しました。改めて感じたのは、非常に広範囲にわたって大規模な仕掛けが廻らされていて、規模も技巧面も日本有数の城郭だということです。とくに堀は非常に複雑で、かつ規模も大きく、山中城のような畝堀・障子堀こそないものの、北条氏の築城技術を余すところなく伝えてくれます。山中城が「小技」の集合体だとすれば、この滝山城は「大技」の集合体と言えるでしょう。

ただし、二ノ丸の食い違い虎口周辺などはかなり小技も効いていて、非常に屈曲のきつい土橋や馬出しなどを見ることができます。特に馬出しは、馬出し曲輪周辺にも小規模な馬出し状の曲輪(というほどの大きさではないが)が連続しており、「馬出しに馬出しがついている」ような構造で、非常に複雑です。この二ノ丸周囲が最大の見所と言えるかもしれません。この二ノ丸は、現地の解説板によれば「虎口が堅固なので城主クラスの屋敷ではないか」とありましたが、僕の見方は少し違っていまして、むしろここが城攻めの寄せ手への防御の中心、迎撃拠点としたのではないか、と見ています。前述の馬出しや堀がすべて二ノ丸を中心に配置されていること、各通路を辿ると必ず二ノ丸を経由すること、それゆえに虎口が複数あり、それぞれが馬出しや二重の堀などで守られた厳重な虎口であること、などが理由です。いわゆる城主の居館(本丸、と言っていいかもしれない)であれば、このように複数の虎口を設けたりせず、むしろ敵が取り付きにくく作るのが普通じゃないかと思うのですが、この二ノ丸には意図的に敵を取り付かせよう、ここで敵を食い止めよう、という意図が感じられます。これほど大きな城になると、守備側もかなり分散して配置しなくてはならず、時にはそれが仇になりかねません。ところが、この二ノ丸の地形(両側を深い谷津に挟まれている)と位置、虎口の配置からすると、周囲の曲輪が陥とされる、あるいは意図的に曲輪を放棄したとしても、敵兵は必ずこの二ノ丸に至るような構造になっています。従って、居館を設けるような性質の曲輪ではなく、城方の兵力を集めて寄せ手を防ぐとともに、迎撃に最も有利なように、大型の枡形虎口や馬出しを備えている、純軍事的な空間であったと思えます。実際に信玄による永禄十二年の城攻めでは、この二ノ丸が攻防の舞台となり、信玄は城を抜けずに撤退しています。永禄十二年当時の姿が現在見られる遺構と同じであるという保証はありませんが、氏照はこの信玄による滝山城攻めの後、より堅固な八王子城を築城しますので、積極的に大規模な改修を施したとは思えず、現在見られる滝山城の姿がほぼ最終的な姿に近いと思っています。とすると、二ノ丸で敵を食い止める、という意図に信玄がそのままハマッたとも思えます。この二ノ丸は大きく見れば中の丸と千畳敷の間に横たわる巨大な馬出しにも見え、防御の拠点であると同時に、寄せ手に対して討って出る「攻撃」の拠点でもあったのではないでしょうか。

また、丘を遠くから見ていると気付かないのですが、実際に現地で見てみると非常に起伏が激しい丘で、深い天然の浸食谷がいくつも走っていて、それらの自然地形を巧みに縄張りの中に取り込んでいる様子に非常に感心しました。自然地形をフル活用するのは中世城郭の基本ですが、この滝山城は多摩川沿いの急崖も含めて、それが究極の形で具現化したものとも言えるでしょう。

今回の更新で、写真を多く入れ替えました。ぜひ下の概念図を見ながら、各遺構をチェックしてみてください。

 

Map.jpg (63298 バイト)

<<概念図(サムネイル)・現地パンフレットから転載>>

滝山城めぐり1(本丸〜中の丸周辺)

滝山城めぐり2(二ノ丸〜小宮曲輪周辺)

 

交通アクセス

中央自動車道 八王子ICより車5分

滝山街道 丹下三丁目交差点付近(都立滝山公園)

JR五日市線・八高線・青梅線・西武拝島線「拝島」駅よりバスまたは徒歩40分。

周辺地情報

八王子近辺は中世の遺構がたくさん。とりあえずオススメはなんといっても八王子城でしょう。大石氏の初期の本城といわれる高月城はわずか1.5kmの距離です。こちらは興味があればどうぞ。

関連サイト

八王子市

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「多摩丘陵の古城址」(田中祥彦/有峰書店新社)、現地配布資料、現地解説板

参考サイト

多摩の古城址中央電子株式会社

 

埋もれた古城 表紙 上へ 滝山城1(本丸〜中の丸周辺) 埋もれた古城 滝山城2(二ノ丸〜三ノ丸周辺) 埋もれた古城 滝山城まるごと一日オフ その1