水の領主・簗田氏の本貫地

水海城

みずうみじょう Mizuumi-Jo

別名:

茨城県猿島郡総和町水海

城の種別

平城

築城時期

永享年間ごろ

築城者

簗田満助

主要城主

簗田氏

遺構

なし

水海城比定地の遠景<<2003年08月02日>>

歴史

築城時期は不明。城主の簗田氏は下野簗田郡簗田御厨(伊勢神宮領)の在地土豪で、室町期には関東公方足利氏の奉公衆として関東公方に近侍した。簗田満助の代には関東公方足利満兼より「満」の一字の偏諱を受け、その息女は足利持氏の室となり、この後の慣例となるなど、中興の祖となり、「御家之鏡」と称されるようになった。この満助の代に、下河辺荘水海に移り、水海城を構えたと思われる。満助は永享十(1438)年の「永享の乱」で討ち死にし、その子持助(持氏より偏諱)は持氏の遺児・永寿王丸を鎌倉から脱出させ、文安四(1447)年に永寿王丸は赦されて関東公方となり足利成氏と称した。成氏は享徳三(1454)年に勃発した「享徳の大乱」で古河(鴻巣御所)に移座し、持助は成氏の命で長禄元(1457)年に関宿城を築いて移り、水海城には一族(水海簗田氏)が残った。

天正二(1574)年、北条氏が関宿城を攻めた「第三次関宿合戦」では、関宿城とともに水海城も攻撃を受け、閏十一月十六日、簗田晴助・持助父子は関宿城を開城して水海城に退去した。以後、簗田氏は栗橋城主・北条氏照の仲介で赦され、古河公方・足利義氏の家臣に復した。天正八(1580)年、武田勝頼の関東出馬に呼応して佐竹義重が古河城水海城を攻めたが、晴助・持助父子はこれを撃退した。天正十(1582)年閏十二月二十日、古河公方足利義氏が死去すると簗田氏の主流は傍系の水海簗田氏に移ったが、天正十八(1590)年の小田原の役に際して水海簗田氏は没落し、浅野長吉(長政)と親交のあった簗田晴助が再び実権を握った。持助の子、貞助(助利)は浅野長政の推挙で徳川家康に仕えたが、元和元(1615)年五月の「大坂夏の陣」に子の助吉とともに出陣し、討ち死にした。

水海城関宿城に入城する以前、そしてそれ以後も、簗田氏の本貫地でした。簗田氏は系図上は桓武平氏の流れを汲み、鎮守府将軍平維茂の子、良衡を祖とし、もともとは近江久田郡を根拠にしていた、とされます。「前九年の役」で源義家に属し、その後下野南部の簗田御厨に住した、とされます。が、もともと簗田御厨周辺の在地土豪だったのではないか、という見方が有力だとされています。

室町期には、関東公方足利氏の奉公衆の一角を占めるに過ぎない存在でしたが、簗田氏中興の祖となった満助が足利満兼より偏諱を受け、息女を足利持氏に嫁がせたことにより、以後関東公方の縁者として、やがて筆頭重臣の地位を得ることになります。そしてその簗田氏が関東の水運の要衝であり、関東公方家の御料所でもあった下河辺荘水海城に移り、さらに後世、北条氏康をして「一国に等しい」とまで言わせた関宿城を手にしたことで、関東中原の水運を掌握し、関八州の制覇を目論む小田原北条氏とも対等に渡り合う存在となっていきます。それだけ簗田氏と関東の情勢にとっては簗田氏の関宿城入城がエポックメイキングな出来事であったわけですが、やはり本貫の地はこの水海城に置かれおり、古河公方筆頭重臣として関宿城に入城した関宿簗田氏のほかに、傍系となる水海簗田氏がこの水海城を守っていました。しかし、「第三次関宿合戦」での事実上の敗北により、関宿簗田氏はとうとう関宿城を明渡し、水海城に退去します。これから暫く、関宿系の簗田氏は姿を潜め、かわって北条氏の配下となった水海簗田氏が活躍しますが、結局は「小田原の役」で北条氏と運命をともにしてしまい、再び関宿系の簗田氏が表舞台に登場します。簗田氏嫡流はのちに「大坂の陣」に従軍した際に討ち死にしてしまい、家名は断絶しかけましたが、その息女が婿を迎えることにより家名は存続され、現在はその直系子孫の方々は山梨県にお住まいだそうです。近年注目を集めた「簗田家文書」は、この簗田氏の子孫が代々家宝として受け継いできた貴重な一級史料で、千葉県立関宿城博物館が冊子にまとめて「簗田家文書」として販売しています。

その水海城は完全な平城で、かつては利根川、常陸川(のちの利根川本流)など大河や長井戸沼のような湖沼に囲まれたその名の通り「水の城」でした。しかし、度重なる洪水や耕地整理などによってその遺構はすっかり失われ、今では場所さえもはっきりとはわからなくなってしまいました。一応、水海小学校とその周辺が比定されているとのことですが、土塁や堀などの痕跡は全く見ることができませんでした。わずかに周囲の水田より1mほど高台になっているのがわかる程度です。仔細に見れば水海小学校周囲になにかあったかもしれませんが、昨今の治安情勢では小学校の周りをうろつくことはあらぬ誤解を招くもとでもあり、あまり細かくは見ていません。その代わり、というわけではありませんが、近隣の安禅寺には簗田氏の歴代の墓所(はっきり判明しているのは室町中期の持助の墓石だけ)があります。

一応水海小学校付近がその跡、といわれていますが、ざっと見た限り遺構らしきものはありません。集落全体が周囲の低地より1〜2mほど高い、微高地の上に位置しています。 総和町磯部の安禅寺には、簗田氏代々の墓所があります。戦国中期から末期にかけて、北条や上杉とも対等に渡り合った、「影の戦国大名」でした。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「加須」IC車20分。

JR東北線・東武伊勢崎線「栗橋」駅徒歩60分。

周辺地情報

関係の深い関宿城古河城など。

関連サイト

関宿合戦」の頁もご覧下さい。

 
参考文献 「古河公方足利氏の研究」(佐藤博信/校倉書房)、「関宿城と戦国簗田氏」(千葉県立関宿城博物館)、「簗田家文書」(千葉県立関宿城博物館)

参考サイト

常陸国の城と歴史余湖くんのホームページ千葉県立関宿城博物館

 

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