飯沼に浮かぶ北条の不沈戦艦
逆井城
さかさいじょう Sakasai-Jo
別名:飯沼城
茨城県猿島郡猿島町逆井
(逆井城跡公園)
平城(沼城)
築城時期
享徳五(1456)年頃
築城者
逆井常宗
主要城主
逆井氏、北条氏繁
遺構
曲輪、土塁、空堀、虎口、模擬井楼、模擬望楼、模擬御殿、関宿城移築城門 他
西二曲輪の舟入と模擬井楼、模擬望楼<<2003年07月20日>>
歴史
下野祗園城主・小山義政の五男常宗が逆井の地を知行し逆井氏を称した。常宗の孫にあたる常繁は古河公方に仕えていたが、天文五(1536)年、北条氏康の命を受けた大道寺駿河守の攻撃により常繁は討ち死に、逆井城は落城し、妻・智御前は先祖伝来の釣鐘を被り池に入水したとの伝承が残る。
天正五(1577)年には玉縄城主・北条氏繁が藤沢より鋸曳き職人らを呼び寄せて大規模な改修を行い、現在残るような大規模な城郭となった。氏繁没後は氏舜、氏勝が城主となり、南進を狙う佐竹・多賀谷氏らの常陸勢と飯沼を挟んで対峙した。「関八州古戦録」によれば、風魔孫右衛門、石塚氏などの忍者集団三百人が在城したという。
天正十八(1590)年の小田原の役後は廃城となった。
逆井氏が築いたと言われる古逆井城の遺構と、北条氏の飯沼城の遺構が重なる珍しい城。関宿城の移築城門(もあります。北条氏が攻略した、という「飯沼城」は長い間、その所在が謎のままでしたが、昭和五十七(1982)年からはじまった猿島町の数次にわたる発掘調査で、ほぼこの逆井城であることが判明したそうです。現在は城址主要部分は整備が行き届いた公園になっています。特に、発掘調査と入念な時代考証を反映して、戦国期の城郭をイメージした模擬建築物が建ち並んでいるのがこのお城の最大の見所です。なかなか言葉やイラストだけではイメージすることが難しい、「中世城郭」の雰囲気をみごとに再現しています。模擬建築物を建てる際の遺構の保護や時代考証なども、現存遺構を壊さぬよう細心の注意が払われていて、非常に良心的で感心しました。ありもしなかった天守なんかおっ建てるよりは、限られた情報(と予算)の中で極力戦国当時のお城の姿を忠実に再現しようとしたことは、「城址の公園化」という事業を考える上で、非常に高く評価していいのではないかと思います。現存遺構である堀や土塁も素晴らしく、主郭周囲の大規模な堀、二ノ曲輪外周の、いたるところで横矢がかかる堀と、北条得意の「比高二重土塁」など、ハイテク築城術で知られた北条氏の築城技法を体感する上でも格好のお城です。
ところで、このお城は天文五(1536)年に大道寺駿河守に攻略された、とされますが、天文五(1536)年では「第一次国府台合戦」すら行われておらず、飯沼近辺まで北条氏が直接侵攻していたとは思えません。逆に、天正五(1577)年には北条氏繁が藤沢から鋸曳き職人などを招集して大々的に改修したことが知られています。また天正二(1574)年の「第三次関宿合戦」では関宿城、水海城攻撃と並んで、飯沼方面にも出兵し佐竹義重らの後詰を阻止したとのことなので、やはり逆井城の落城は天正年間、北条氏の古河公方権力解体の過程の中の出来事なのではないかという気がします。直接的には、佐竹氏よりもむしろ常総の中原で爆発的に勢力を拡大していた多賀谷氏の脅威の方が大きかったでしょう。ちなみにこの落城時の悲話として、討ち死にした城主・逆井常繁の息女(あるいは妻)の智姫(智御前)が先祖代々伝わる釣鐘を被って、城内の池に入水した、というもの。後世この鐘を探そうと何人もの人が掘り返したことから「鐘掘り池」と呼ばれています。
公共交通の便がほとんど無い地域なので、遠方の方が行くのは少々しんどいかもしれませんが、オススメのお城です。
北条のハイテク築城術をふんだんに盛り込んだ逆井城。復元された建物とのマッチングも素晴らしく、さながら「不沈戦艦」のようであります。
西ニノ曲輪・大手付近の入り江(舟入)。飯沼へ舟を出す際の港の跡です。中央に見える犬走り状のものは舟の乗降や荷物の積み下ろしに使われるものでしょう。
交通アクセス
JR東北線「古河」駅からタクシー?基本的には車で行くしかない気はします。
常磐自動車道「谷和原」IC車50分、東北自動車道「久喜」IC車50分。
周辺地情報
関連サイト
参考サイト
常陸国の城と歴史、美浦村お散歩団