平賀源心の居城と伝わる

平賀城

ひらかじょう Hiraka-Jo

別名:

長野県佐久市平賀

城の種別

山城

築城時期

不明 

築城者

大井美作入道玄岑(?)

主要城主

平賀氏(?)、大井氏、上原(小山田)氏

遺構

曲輪、石積み、堀切

主郭の二段石塁<<2002年11月04日>>

歴史

築城時期は定かではないが、平安末期に甲斐の武田源氏の祖となった源義清の弟・盛義が佐久郡平賀に居を構え平賀氏を称し、その子義信が築いたと伝えられる。平賀氏は源頼朝に重く用いられ、一ノ谷合戦などで軍功を挙げた。

文安三(1446)年ごろ、平賀氏は守護の小笠原氏、守護代大井氏らと争い平賀氏の本流は滅亡、大井荘地頭職で守護代の大井氏の支配下に入り、城番が置かれた。文明十一(1479)年七月に大井氏は伴野氏と戦って破れ、大井政朝は伴野に捕虜となった。その後釈免されて本拠の岩村田城に帰還したが、文明十五(1483)年死去し、弟の安房丸が大井宗家を嗣いだ。しかしこの機に埴科郡葛尾城主の村上政清が大井領に侵攻し、大井宗家は滅亡、長窪、小諸などに分家が細々と残った。なお天文五(1536)年に武田晴信(信玄)が初陣で海ノ口城を攻め、討ち取った敵将の平賀源心入道の居城が平賀城であるとも言われるが、平賀源心の実在を含めて定かではない。

後に平賀城は武田氏の配下の属城となったが、詳細は不明。

内山城と谷を挟んだ対岸、指呼の間にある山が平賀城です。あまり詳しい歴史を知らずに行ったのですが、あの海ノ口城で若き武田晴信に討ち取られた平賀源心入道はこの平賀城主だった、とのことです。真偽の程は不明、というより、平賀氏自体、応永年間に滅亡したといわれ、その頃には平賀城は大井氏の支配下に入っていたと思われるので、ちょっと夢が無いけど、たぶん源心の城じゃないんじゃない?とも思います。あまり華々しい歴史には登場しませんが、規模の大きい城でもあり、また内山城と同じく街道の出入りを監視するには絶好の場所でもあるので、武田氏の手によって修築・拡張されて、一定の期間は使われていたように思います。

内山城が街道監視、戦時要害の色彩が濃いのに対し、この平賀城は「居城」の色彩が濃いように感じます。比高差は135mほどあり、内山城の90m弱に比べるとかなり高い場所にありますが、地形的な険阻さはあまり感じませんでした。むしろ緩斜面と言っていい場所におびただしい数の腰曲輪を構築し、それらのひとつひとつが石塁で固められていることや、主要部である主郭〜三郭までの曲輪の広さ、主郭背後のしっかりした搦手の構造などから、領国支配のための居住の城である印象を強く受けました。城域はとても広く、この主要部の前衛にあたる小丘陵や、搦手の先の山まで含む、壮大な城であったようです。なぜ信玄がここを拠点にしなかったのか不思議なくらいですが、佐久侵攻戦の尋常ではない不穏さが、こうした領国支配の城よりも、戦時要塞としての内山城を選ばせたのかも知れません。

場所は「城山小学校」背後の住宅地の奥まった谷津部分に大手口があり、地形的にこの付近には根古屋もあったものと思われますが、山麓線付近はだいぶ造成が進んでいるので、はっきりとは分かりませんでした。この入り口がなかなか分からずにかなり迷走したので場所ははっきりと覚えてはいません。この大手道を登り始めると程なく山林が途切れ、大規模な分譲地が開けていて「あちゃー」と思いましたが、これを通なりに進んでいくと再び山林の中の大手道に入ります。このあたりから腰曲輪、石塁が顔を見せ始めます。通は比較的広く緩やかで、比高差の割には非常に楽に見学ができます。数日後、松本周辺の小笠原氏の城を見たのですが、築城手法にはなんとなく共通のものを感じました。大手口の前面に当たる大林寺山にも出城があり、桟敷段状の削平地が連なっているようですがそちらは見ていません。もしかしたら石塁などもあるのかもしれません。

見所は前述の石塁を伴う腰曲輪群、広々した曲輪などですが、この石塁は至るところに使われていて、主郭北面の斜面にも、あらかた崩れてしまった石塁の残欠を見ることが出来ます。主郭背後は巨石が連なる、切り落としたような崖になっていますが、よく見ると巨石の間に人が一人通れるくらいの通路があり、北面の曲輪に降りることができます。これが搦手で、ふと見上げると巨石と石積みを巧みに用いた石塁などがあり、この搦手方面も見応えがある場所でした。もっと東南側に下ると水の手などもあるそうです。

内山城下から仰ぐ平賀城。内山城よりもはるかに大きい山、という気がします。 南側から見た平賀城主要部。この主要部のほかに、佐久平に突き出た小丘陵「大林寺山」まで城域は広がっています。
南側からアプローチできる道が見つからず、北側の谷津奥部へ入ると、この「平賀氏城跡(大手入口)」の標柱をやっと見つけました。このあたりには居館もあったんじゃないでしょうか。 緩やかな坂道を登り始めると、早くも空堀と思われる地形が顔を出します。この後、道はいきなり分譲住宅地に入りビックリしますが、そのまま進むと再び森の中に道が通じています。
大手道沿いには互い違いに交錯するおびただしい数の腰曲輪が展開。しかも、多くの石塁が目に入ります。 大手道沿いの腰曲輪の石塁。大手道自体も石で固められていたようです。
腰曲輪の中には、石垣土塁を伴うものなどもあり、なかなか楽しませてくれます。 山の頂に近づくと、三郭の虎口を固めるご覧の石塁が現れます。このお城の中で、一番整った石塁ではないでしょうか。
三郭の虎口には、礎石のような石があります。この虎口自体も石段で作られていたみたいです。 解説板と「平賀之城跡」の碑が目に飛び込んできます。思わず主郭かと思いましたが、ここは三郭です。

写真は二郭。三郭から主郭までは、尾根上に段差を設けているだけで、堀切等はありません。曲輪はどれもかなりの広さがあり、削平もしっかりしています。

主郭前面には二段の石塁があります。権威を示す石塁、後世の天守台のような役割でしょうか?

主郭には史跡の標柱と、小さなあづまやが建っていました。まるで近世平山城のような、広くて整然とした曲輪です。整備も行き届いていますね。

内山城と同じく、佐久平が一望のもとに見晴らせます。

主郭の三方は急な斜面、ご覧のように崩落したと見られる石塁がいたるところにあります。往時は「総石垣」に近かったのかもしれません。

主郭背後は岩だらけの絶壁、でもよく見ると、人が一人通れるくらいの道がついている。非常に巧妙な構造の搦手です。

巨石の絶壁と、石積みの石塁をうまく組み合わせた搦手虎口。自然地形との組み合わせが絶妙です。 搦手虎口には比較的大きな曲輪があります。「搦手曲輪」と標柱に記されていました。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「佐久」ICより車10分。

JR小海線「滑津」駅、「中込」駅より登山口まで徒歩50分。  

周辺地情報

お隣の山が内山城、平場に出ると野沢城(伴野氏館)、北へ向うと志賀城など。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 
参考文献 「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)、「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

 

 

埋もれた古城 表紙 上へ